「高峰譲吉邸と京都高等工芸学校」展

京都工芸繊維大学 美術工芸資料館 / 2012年1月23日(月)〜 3月3日(土)

京都工芸繊維大学
 この度、京都工芸繊維大学 内の美術工芸資料館において、「高峰譲吉邸と京都高等工芸学校」という展覧会が開催されましたので、早速取材に伺いました。
 同大学は1899年の京都蚕業講習所、1902年の京都高等工芸学校に端を発し、1949年に京都工芸繊維大学として設立された国立大学であり、「知」「美」「技」を探求する独自の学風を築きあげて来た、ユニークな大学です。

高峰譲吉邸と京都高等工芸学校
 この展覧会は、高峰博士が日米親善のための社交場として活用した「松楓殿」と、マンハッタンのリバーサイドドライブに建てられた高峰邸の室内意匠を請け負った、京都高等工芸学校の初代助教授にして洋画家の牧野克次や、川島織物ゆかりの洋画家/室内装飾家・澤部清五郎、そしてもちろん高峰譲吉博士にスポットを当てて構成された異色の展覧会です。

牧野克次(1864〜1942)
高峰譲吉邸と京都高等工芸学校 1864(元治元)年、大阪府生まれ。守住貫魚に日本画を、守住勇魚に洋画を学んだ後、1888(明治21)年上京し小山正太郎の不同舎に入る。1901(明治34)年松原三五郎らとともに関西美術会創設の発起人となり、翌年京都高等工芸学校の創設と同時に助教授となる。1906〜1918(大正7)年までアメリカに留学し、ニューヨークの美術学校で水彩画を教える。
 1918年に帰国し、以後は東京に住んで制作からは遠ざかった。

澤部清五郎(1884〜1964)
 1884(明治17)年、京都西陣に生まれる。鈴木瑞彦に日本画を学ぶ。守住勇魚に師事。この頃から二代川島甚兵衛の構想に従って制作を行なう。聖護院洋画研究所に入門。浅井忠に師事。21歳で武田五一の委嘱で平等院天井画を模写し、京都高等工芸学校に納める。1910(明治43)年に牧野克次とともに渡米。高峰邸の室内装飾に携わる。1912(明治45)年渡仏。翌年帰国後、関西美術院教授となり、洋画を描くとともに川島織物の室内装飾を手がける。

高峰譲吉邸と京都高等工芸学校
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 松楓殿にしろ高峰邸にしろ、博士は社交場としての役割を重視し、特にマンハッタンの高峰邸には、日本の室内装飾の「カタログ」を実験的に作ろうとしたのだそうです。
 地上6階、地下1階の石造建築の建物内部を、各階毎に異なる時代様式で歴史的に作ろうと考えたそうですが、最終的にはアメリカでの生活のしやすさを考慮し、1・2階を日本式、その他の階を洋式へと変更しました。
 1・2階の日本式部分は、主に藤原時代の装飾を用い、一部に室町式と徳川式を加味して設計されたとのことです。残念なことにそれらは、高峰博士没後の火災で全て焼失し、今では極少数の白黒写真でしか見ることが出来ません。

高峰譲吉邸と京都高等工芸学校 同展覧会は、京都工芸繊維大学文化遺産教育研究センター特任助教の玉田浩之博士のご尽力により開催されたものですが、「物」としての資料が少ないため、かなりご苦労があったようです。
 パネル展示された写真資料以外では、牧野克次が高峰博士に送った直筆の手紙や、松楓殿が売りに出された時の不動産会社のパンフレットなどがあります。室内装飾そのものとしては、松楓殿に現存している物だけであり、それら障壁画などは写真でしか見ることが出来ません。

 しかしながら高峰博士関連の資料としては大変貴重なもので、日本美術史の理解をもとに構築された「西洋に示すべき日本」が投影されていたことが分かります。
 京都にお住まいの方はもちろんですが、仕事や旅行で京都を訪れる機会がありましたら、是非訪ねて欲しい展覧会だと思います。大学へは市営地下鉄烏丸線「国際会館」行き(約18分)で「松ヶ崎駅」下車、徒歩約8分です。

 余談ですが、同展覧会のポスター、フライヤー等は、同大学学生のデザインだそうです。

写真/上:松楓殿に現存する牧野克次の障壁画(風神)
下:玉田浩之博士(左)と当研究会山本理事長(当時)

(取材:平成24年1月24日/文責:事務局)

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