青山霊園で博士のお墓参り

7月22日は高峰博士の命日です。
 今年は会員の方とご一緒に、博士のお墓参りに行って参りました。
 せっかくですから、博士にゆかりの方の墓参も…。

青山霊園
 青山墓地は、1874(明治7)年、我が国最初の公共墓地の一つとして、徳川幕府譜代大名・郡上藩青山氏の屋敷跡に設けられた公共墓地でした。
 昭和10年に東京市によって「霊園」と名称を改められ、昭和32年に霊園を廃して公園にすることが検討されましたが、諸般の事情により無理なことが判明したため、平成14年になって東京都より「霊園」と「公園」が共存する地区として定められ、現在に至っています。
 また青山霊園には、日本の近代史に名を残す著名人の墓が多く、外人墓地、警視庁墓地など、歴史的に特色のある墓域も残されています。

高峰譲吉博士の墓参
 以前の記事にも書きましたが、博士の本当のお墓は、遠くニューヨークのウッドローン墓地にあります。
 ここ青山霊園の墓地には、博士の遺髪が納められているということです。
 今年はある会員の方をお誘いすると、是非行ってみたいということでしたので、ご一緒いたしました。
高峰譲吉の墓
 午前中に訪れましたが、お墓は奇麗に掃除され、花も供えられていました。高峰博士ゆかりの 塩原 家のご手配のようです。

> 関連記事
 今年は7月早々、例年より10日以上早い梅雨明けの後猛暑が続きましたが、当日は幾らか風もあり、この時期にしては比較的快適に墓参を済ませることが出来ました。
 ご一緒して下さった会員の方も、初めて博士のお墓に手を合わせることが出来て良かったと、おっしゃって下さいました。

Guido F. Verbeek – 外人墓地
 青山霊園内にある外人墓地。
 ここに高峰博士ゆかりの人、Guido F. Verbeek のお墓があります。
外人墓地
 グイド(ギドー)・フルベッキ。オランダ生まれの宣教師で、1859(安政6)年に来日。幕末の長崎に於いて、佐賀藩の致遠館で大隈重信や副島種臣ら多くの俊英を育成するなど、日本に多大な貢献を成した人です。(正式にはグイドではなく、ギドーと発音する)
 高峰博士は12歳の頃、加賀藩からの留学生として長崎に渡り、このフルベッキから英語を学んだとされています。
フルベッキの墓
 フルベッキはオランダからアメリカに渡り、アメリカで宣教師となってから来日。その後アメリカに帰ることを希望していたそうですが、アメリカで市民権を取る前に来日したため、オランダにもアメリカにも国籍がなくなり、ついに明治政府の好意によって日本に住むことを許され、日本に骨を埋めたということです。墓の写真右の手前は、愛妻マリアの墓です。
 因にフルベッキ一族は、夫妻の来日以来150年以上を経て、今もなお第6・7世代がアメリカでご健在です。

小村寿太郎 – 明治の外務大臣
 もう一人、高峰博士ゆかりの人をご紹介しましょう。明治の外務大臣・小村寿太郎です。
小村寿太郎の墓
 小村は1855(安政2)年、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の出身で、1870(明治3)年、後にフルベッキが教頭を務めた大学南校(東京大学の前身)に入学。その後ハーバード大学への留学を経て1901年(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。
 日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印に持ち込みました。
 当時アメリカでは親露感情が強く、日露戦争を勝利のうちに終結させるべくアメリカで世論を日本有利に導くために活躍したのが、高峰博士と、ルーズベルト大統領とハーバード大学で面識のあった金子堅太郎でした。
 金子は高峰博士に協力を求め、博士は快く応じるばかりか、私財を投じてアメリカ世論を親日に導くための活動を行いました。
 高峰博士主催の晩餐会に、小村寿太郎が一緒に写っている写真があります(日南市・小村記念館所蔵)。
 小村は当時の国民からは「弱腰外交」とののしられましたが、一言も弁解せず、後に「政治の難局に、我が身を忘れ国のために将来を思い、目的通り責任を果たした」と語ったそうです。

(取材:平成25年7月29日、文責:事務局)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です