1.ロウレイロ(ポルトガル領事)
2.ウィリアム・オルト
3.グイド・フルベッキ
4.ハラタマ(オランダ人化学教師)
5.パーシバル・オズボーン(英国人)
6.桜井錠二
7.山尾庸三
8.大鳥圭介
9.キャロライン・ヒッチ
10.渋沢栄一
11.益田孝
12.浅野総一郎
13.藤木幸助
14.清水鐡吉
15.塩原又策
16.上中啓三
17.北里柴三郎
18.金子堅太郎
19.セスロー
20.ジョンフィンレイ
21.リンゼイラッセル
22.小池張造
23.小野英二郎
24.一宮鈴太郎
25.村井保固
26.新井領一郎
27.ベークランド博士
28.豊田佐吉
29.牧野克次
30.澤部清五郎
31.尾崎行雄
32.山田胖
33.山岡順太郎
34.堀越善重郎
35.高橋是清

 

ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロ

幕末から明治初期の日本に駐在したポルトガルの副領事。坂本龍馬が乗船中に沈没したことで有名な「いろは丸」を、日本に売却する仲介をしたポルトガル側の責任者。(「佐藤賢一研究室ブログ」より)加賀藩からの留学生たちは、長崎に住む外国人の家に一人ずつ預けられたということだが、高峰譲吉は、このロレーロ邸に預けられた。ロレーロは、まだ小さかった譲吉をとても可愛がってくれたらしい。そのおかげで譲吉は、語学だけでなく外国人の暮らし方やマナーも身につけることができたと言う。(「旅する長崎学」サイトより)

余談ですが…

坂本竜馬が瀬戸内海で乗船中に衝突して沈没した蒸気船「いろは丸」を、大洲藩が購入した際のポルトガル語の契約書が見つかり、愛媛県大洲市が23日(=2010年4月23日)、内容を翻訳して発表した。これまで、オランダ人から購入したと言われていたが、ポルトガル人領事からの購入だったと判明。衝突時に大洲藩の代金の支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも分かった。契約書は縦約30センチ、横約40センチ。1866(慶応2)年、長崎でポルトガル領事ロウレイロから大洲藩の元郡奉行、国島六左衛門が蒸気船「アビゾ号」を購入し、この船を「いろは丸」とすると大洲藩が宣言。購入時に藩が代金を全額支払ったとの内容が書かれていた。(「涼やかな龍の眼差しを」サイトより)

 

ウィリアム・ジョン・オルト

1840(天保11)年〜1905(明治38)年。イングランド出身。開国とともに、いち早く長崎に渡り(英国領事館の記録には「1859年10月27日来崎」とあるそうです)、オルト商会を設立。長崎の大浦慶と提携し、九州一円から茶を買い求め、輸出業を行なった。製茶業で巨額の利益を得たオルトが、1865(慶応元)年に建てたオルト邸は本格的洋風建築。これを建築したのは大浦天主堂も手掛けた小山秀之進。(高峰譲吉が加賀藩から派遣されて、長崎留学を始めた年です。)(オルトが製茶・販売の事業で手を結んだ大浦慶は、長崎屈指の油問屋に生まれましたが16歳の時に大火事に見舞われて家が傾いてしまいました。しかし、25歳の時に茶の貿易をはじめ見事に家を再興させました。彼女は長崎三大女傑の一人として知られています。) (「グラバー園」サイトより)高峰譲吉はこのオルト邸にもホームステイしていたようだが、オルトは高峰少年を可愛がり、旅行する時も譲吉を連れて行ったと言われている。(「旅する長崎学」サイトより)

もう一つのオルトのエピソードは、『岩崎弥太郎日記』に記されていること。
「いろは丸事件」の賠償問題について、土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎のトップ会談が行なわれた後、弥太郎が、後藤象二郎、龍馬ら数名とオルト邸を訪れ、イギリス提督と会って盃を交わしたということです。(「長崎市観光・宿泊ガイド」サイトより)

 

グイド(ギドー)・フルベッキ

 1830(文政13)年 オランダ生まれ(オランダ語ではギドー)。1852(嘉永5)年、ニューヨークへ移住。コレラに罹ったが一命を取りとめ、献身を決意。 1857(安政4)年S.W.ウィリアムズらによる日本宣教の呼びかけに応じ、米国オランダ改革派教会より最適任者として選ばれる。1859(安政6)年、ブラウン、シモンズとともに来日。
長崎で済美館の英語教師をつとめ、1864(元治元)年校長となる。1866(慶応2)年、長崎に設けられた佐賀藩の致遠館で、大隈重信や副島種臣ら多くの俊英を育成した。この致遠館で、高峰譲吉も学んだとされている。
フルベッキはオランダ語や英語だけでなく、ドイツ語、中国語にも通じ、工学、土木、機械、建築などにも造詣が深かったと言われており、蘭学から英学への転換期の指導者として、適任であった。(「佐賀県有田町」オフィシャルサイトより)
1869(明治2)年上京して明治政府の顧問となり、開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。その後、太政官顧問を経て、東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師となる、1886(明治19)年明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学部教授、明治学院理事会議長などを歴任した。
フルベッキは渡米したことにより国籍を失っていた。アメリカに働きかけたが拒否され、日本への帰化ないし政府による保護を要請した。後に国内を自由に旅行・居住できる特許状が交付されている。1898(明治31)年、68歳で亡くなり、青山霊園に埋葬された。(「明治学院歴史資料館」サイトより)

 

桜井錠二

1858(安政5)年、加賀藩士 桜井甚太郎と八百(やお)の六男として生まれる。七尾語学所で英語を学んだ後、1871(明治4)年に大学南校(東京大学の前身)に入学。さらに 1876〜81(明治9〜14)年にはロンドン大学へ国費留学し、有機化学の大家であるアレキサンダー・ウィリアムソン(1824〜1904)に師事した。帰国後、1882(明治15)年に24歳で東京大学教授に就任。以後、日本の化学界をリードし、池田菊苗ら多くの門下生を輩出した。明治後期になると、(中略)…日本を代表する東京帝国大学の物理学教室や化学教室においてすら、「研究費は皆無であると言ってよろしい」状況だった…という状況下で、桜井は「模倣万能の時勢に抑圧せられて明治時代にはその種子はほとんど発芽するに至らずしてやんだのであります」と断じている。1913(大正2)年、転機が訪れた。この年、高峰譲吉が米国から一時帰国した。(中略)…桜井は高峰と同じ加賀藩出身、七尾語学所の同窓でもあり、以前からの友人であった。高峰は築地精養軒において、農商務省の大臣ら政官財の要人約150名の前で、産業に結び付く独創的研究を推進するための「国民科学研究所」設立の必要性について演説した。この提案にいち早く賛同したのが、財界の重鎮である渋沢栄一と桜井であった。二人は米国へ戻った高峰の後を受け継ぎ、理研創設へ向けた動きを一貫してリードした。(「理化学研究所」サイトより)

 

山尾庸三

1837(天保8)年、周防国吉敷郡二島村(山口市秋穂二島)長浜に生まれる。20歳の夏、江戸へ出て、桂小五郎(後の木戸孝允)が塾頭を務める斎藤弥九郎の道場「練兵館」を訪ね、後入塾。練兵館で武術を、他の塾で洋式の兵学を学んだ。1863(文久3)年、藩船癸亥(きがい)丸で、井上馨、伊藤博文、遠藤謹助らと共にイギリスへ密留学。英語、分析化学、土木工学等を学ぶ。だが、井上と伊藤は、長州藩による外国船砲撃事件のことを知り、すぐさま帰国。1866(慶応2)年、庸三は産業革命発祥の地グラスゴーへ移り、見習工として造船所で働きながら造船技術を学ぶ。仕事の合間にイギリスの聾唖学校や盲学校を見学し、日本へ帰ったら同じような学校を作りたいと考えた。1868(明治元)年帰国、長州藩海軍局の教授方助役となる。1870(明治3)年、明治新政府の伊藤博文の元で民部省および大蔵省の役人となる。次々と意見書を提出し、工業を興すために「工部省」設置を主張。1873(明治6)年、イギリスのスコットランドから、校長としてヘンリー・ダイヤーを招き、工部省の工学寮として工学校開設。この時に、高峰譲吉ら第一期生が入学している。

高峰博士が後にイギリスへ留学し、グラスゴーで学んだのも、この山尾のアドバイスないしは経験談が影響しているものと推測することが出来る。その後、1880(明治13)年に訓盲院(盲学校)を開設するなど、教育に力を注いだ。1917(大正6)年、没。伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共に、長州五傑と呼ばれる。(北山敏和氏「山尾庸三の生涯」サイトより)

 

大鳥圭介 (1)

1833(天保4)年、播磨国赤穂郡(現在の兵庫県赤穂郡)の医師の家に生まれる。1852(嘉永5)年、蘭学修行の為、緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学ぶ。その後江戸へ出て、坪井塾の塾頭となる。勝海舟の知遇を得たとも言われる。1857(安政4)年、縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれる。同時に中浜万次郎から英語を学んだとされる。その後徳島藩を経て1859(安政6)年、蕃書調所に出仕。「砲科新編」を翻訳出版。日本で初めての合金製金属活版を作り、大鳥活字と呼ばれた。1867(慶応3)年、正式に幕臣に取り立てられる。鳥羽・伏見の戦いの後、伝習隊を率いて江戸を脱走。1869(明治2)年、五稜郭で降伏したのち東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄された。1872(明治5)年、特赦により出獄後、新政府に出仕すると、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉の為に歴訪。1874(明治7)年、工部省四等出仕となり、技術官僚として殖産興業政策に貢献した。1877(明治10)年、工部大学校が発足し、校長に任命される。以後、学習院校長、朝鮮公使、枢密院顧問官などを歴任した。大鳥が工部大学校校長に就任した時、高峰譲吉は同大学校に在学中であり、2年後の1879年、選ばれてイギリスに留学している。

 

大鳥圭介 (2)

ここで大鳥圭介について述べることは、推測によるところが多いということを、あらかじめお断りしておきます。と申しますのは、当事務局に証拠となる文献などがほとんど無いからです。
結論から言いますと、三共商店(後の三共株式会社、現・第一三共)の創始者、塩原又策の妻は、大鳥圭介の孫だという話があるということです。では、高峰譲吉博士との繋がりはどうかと言うと、あると言わざるを得ません。まず、1873(明治6)年に山尾庸三が作った工学寮に、高峰譲吉が第一期生として入学しており、1877(明治10)年に(工学寮が)工部大学校として発足し、大鳥が校長に任命されていることが一つ。次に、2年後の1879(明治12)年、最初で最後の留学生11名がイギリスに派遣されていますが、その中に高峰譲吉の名前があることです(これは事実です)。つまり、大鳥が校長に就任してから2年間、高峰譲吉は工部大学校に在籍していたということになります。繋がりがない筈はないというのが、事務局の判断です。そして後に高峰譲吉が米国へ渡り、タカジアスターゼを発見、特許を取った頃から、高峰譲吉と塩原又策の固い絆が生まれる訳ですから、大鳥圭介と塩原又策が繋がっていても、おかしくないということになります(この部分は推測です)。

 

大鳥圭介 (3)

高峰博士が開いた松楓殿の扁額は、大鳥圭介が揮毫しています。これは、扁額にそう記されていますので、間違いはありません。松楓殿扁額明治36年と記されており、署名は「従二位 大鳥圭介 書」となっています。この年、大鳥は71歳。日露戦争開戦の前年であり、没年の8年前のことです。では、どのような経緯で大鳥圭介がこの揮毫を引き受けたのか。アメリカ在住の高峰博士が、日本の大鳥圭介に依頼したのでしょうが、そう考えると、大鳥圭介と高峰譲吉は、工部大学校以来、それなりに親しい付き合いを続けていたのではないかと考えられます。だとするならば、大鳥圭介 (2) で述べた塩原又策との付き合いも、高峰博士と大鳥圭介を繋ぐ存在としてあったのではないかと考えたくなります。

 

Caroline (1)

キャロライン・ヒッチは1876(明治9)年、ニューオーリンズ生まれ。両親は、父・エーベン、母・メアリー。5人姉妹の長女であった。1884(明治17)年、譲吉がニューオーリンズ博覧会への出張で滞在中、ヒッチ家に招待され、この家の娘であったキャロラインと出会ったことが、二人の人生を大きく変えたことになる。譲吉とキャロラインは、譲吉滞在中に恋に落ち、婚約。譲吉は、必ず迎えに来ることを約して帰国する。1887(明治20)年、東京人造肥料会社を立ち上げたばかりの譲吉は、製造機械輸入のため、渡米する。勿論それは、キャロラインを迎えに行く目的も含まれていたことだろう。ともあれ、農商務省在官中のことであった。譲吉は、ちょうど欧州視察に出向く益田孝夫妻と共に旅立ち、船中で益田に、キャロラインを娶ることを打ち明けている。パリで一旦益田夫妻と別れ、譲吉はアメリカへ。そして8月10日、ヒッチ家において式を挙げたのである。キャロラインは丸2年以上、高峰譲吉という東洋の紳士を待っていた訳だが、驚くべきことである。当時のアメリカにおいて、東洋人が白人の娘を妻にした初めての例であったろうと言われている。挙式後二人はニューヨークへ出て、譲吉は機械の買い付けを行う。益田夫妻とも合流し、日本への旅を共にしている。

 

Caroline (2)

キャロラインは、1887(明治20)年に21歳で、高峰譲吉の妻として、生まれて初めての異国、日本という国にやって来た。新居は東京人造肥料会社の近くの本所で、決して立派な家ではなかったという。翌年、彼女は長男・襄吉を、その翌年には次男・エーベン・孝を出産しているが、言葉も習慣も分らない明治という時代の日本でのこと、さぞ苦労が多かったであろうと思われる。譲吉は夜遅くまで仕事に励み、キャロラインはそれでもひたすら夫を助けていたと、益田孝が書き残している。日本に来て3年目の1890(明治23)年、一家は譲吉の醸造技術を認めたウイスキー・トラスト社からの招聘で、アメリカへ移住する。その時高峰博士が連れて行ったのが、丹波の杜氏技術を携えた藤木幸助であった。その後譲吉は、ヒッチ家のバックアップもあって、苦労の末成功を収めた(タカジアスターゼ、アドレナリンなど)。キャロラインは母国アメリカでも、貧しい時は内職までして譲吉を支えている。成功した後も、高峰博士は日本のため、日米の親善のために、「無冠の大使」として、私財を投じて働いたが、その陰にキャロラインの助力があったことは言うまでもない。

譲吉の死の3年後、1925(大正14)年に、キャロラインは次男エーベンの友人であったアリゾナの牧場主と再婚している。このことに関して、キャロラインを批判する向きもあるようだが、譲吉の妻として夫を助けて過ごした35年間の実績は、否定できるものではないのである。おそらくは夫の死後、一人のアメリカの婦人に立ち戻り、異国の文化習慣から解放されて遅い青春を謳歌したのではないだろうか。キャロラインは1954(昭和29)年、87歳の長命を全うしているが、かつての夫・譲吉と、二人の息子が眠るウッドーローンの墓地で、今は共に眠っている。

 

清水鐡吉

残念ながら、清水鉄吉に関する資料は十分に残ってるとは言えません。それは、清水がアメリカで、結核のために早世してしまったからです。現在の岐阜県大垣市の商家に生まれた清水は、慶応義塾を経て1883(明治16)年、工部大学校化学科を卒業しました。つまり清水は、譲吉の工部大学校時代の後輩(譲吉は一期生、清水は五期生)だったのです。しかも、譲吉と同じく、農商務省へ入省しています。農商務省で、清水は譲吉の研究助手的な存在であったようです。清水は1892(明治25)年、28歳の時に農商務省を辞め、譲吉の元へ渡米します。譲吉がウイスキー醸造のための米麹発酵方式による試験を盛んに行っていた頃のことです。清水は助手として藤木幸助とともに譲吉を助け、麹菌によるウイスキーの生産構想が挫折した後は、タカジアスターゼを医薬として開発する研究を主担しました。しかしこの頃から清水は肺結核を発症し、パーク・デービス社との契約の翌1896(明治29)年、シカゴでその生涯を34歳という若さで閉じたのです。ほどなくして、パーク・デービス社はタカジアスターゼの販売に漕ぎ着けました。自分たちが苦労して作り上げた「タカジアスターゼ」が、病院や薬局に送り出され、世界の薬業界を驚かせたことを、清水は喜びを持って受け止めたことでしょう。清水の墓は、シカゴのオークウッズ墓地に今も残っているそうですが、この年、日本へ帰国する藤木幸助が、清水の遺骨を抱いて帰っています。後に譲吉は、清水の母親を生涯面倒見続けたといのことです。

 

金子堅太郎

1853(嘉永6)年、福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村(現在の福岡市中央区鳥飼)に生まれる。藩校・修猷館に学び、勘定所給仕となる。明治維新後、修猷館での成績が優秀であったことから永代士分に列せられ、家老から東京遊学を命ぜられる。さらに、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学。ハーバード大学法学部(ロー・スクール)に入学、小村壽太郎と同宿し勉学に励む。在学中に大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得た。帰国後は民権運動に活躍し、1880(明治13)年、元老院に出仕。元老院権閣の総理秘書官を経て大書記官に昇格。内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法・皇室典範、諸法典を起草。のちに憲法制定の功績により男爵となる。日露戦争が勃発すると、伊藤博文の説得を受け、日本の戦争遂行を有利にすべくルーズベルトと外交交渉を行った。このときアメリカで金子を助けたのが、高峰譲吉博士である。後に金子は、「高峰博士と夫人(キャロライン)とがいなかったら、私は、あれだけの仕事に成功することはできなかったでしょう」と語っている。日露戦争後は枢密顧問官等を歴任し、二松学舎専門学校(二松學舍大学の前身)舎長に就任。その後生涯にわたって日米友好のために尽力し、米友協会会長、日米協会会長を歴任した。

 

尾崎行雄

1858(安政5)年、相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで、衆議院議員を務めた政治家で、40歳の若さで文部大臣となった頃は、「政界の麒麟児」と呼ばれた。後に「憲政の神様」、「議会政治の父」とも呼ばれるに至る。1903(明治36)年から1912(明治45)年まで東京市長を努めたが、その最後の年に、ワシントンへのさくらの寄贈に関わる。これは当時、ヘレン・タフト大統領夫人に誓願を重ねていたエリザ・シドモア女史の話を聞いた高峰博士が助力を申し出、博士と親交のあった水野幸吉ニューヨーク総領事が個人からではなく日本の首都、東京市長の名で贈るべきであると進言したために実現したもの。実は水野総領事の迅速な動きと同時に、高平小五郎駐米大使の筋を通した確実な処理があって、この話は一民間人の範疇から国と国とのルートに乗ることになったという側面もあった。尾崎市長はポーツマス条約締結でアメリカに世話になったという気持から、正式に受けて予算建てを行なっている。贈った桜は害虫問題で失敗したが、直ぐに特別に栽培した桜を用意。1912年に再度贈った桜は、見事にその花をアメリカの地に咲かせている。
第二次大戦後の1950(昭和25)年、尾崎は米議会に招かれ桜寄贈について感謝の決議を受けた。自らもポトマックの桜にずっと強い思い入れを持ち、「ポトマクの 桜をながめ 月に酔い 雪をめでつつ 我が身終へなむ」とまで詠んでいる。(元・駐米大使 藤崎一郎氏寄稿文サイトより)

 

高橋是清

1854(嘉永7)年、江戸芝中門前町に生まれる。横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院)で学び、1867(慶応3)年、藩命により勝海舟の息子・小鹿(ころく)とアメリカに留学。しかし、仲介をしたアメリカ人貿易商、ユージン・ヴァン・リードに騙され、奴隷同様にして売られ、苦労を重ねた。ようやく1868(明治元)年に帰国し、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省。大学予備門や共立学校(現・開成高校)の初代校長を務める。その間、文部省、農商務省官僚としても活躍し、1884(明治17)年、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任。この2年後、農商務省から高峰譲吉を呼んで特許局次長を兼任させ、日本の特許制度を整えた(高峰譲吉は2年前のアメリカ出張で、現地の特許事情を詳しく見聞きして来ていた)。日露戦争(1904〜05)勃発時には、日銀副総裁として戦費調達のための戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった。しぶとい交渉の結果、公債募集は成功した。1911(明治44)年、日銀総裁。その後、第1次山本内閣の時に大蔵大臣、さらに第20代内閣総理大臣、数度の大蔵大臣などを歴任し、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺された。

(このページの文責:事務局)

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