高峰譲吉は無冠の大使とも呼ばれ、特に日米親善に大きく貢献しました。

高峰譲吉が行った日米親善の主な活動

1904年 ニューヨーク・プレス紙 寄稿記事発表

日露戦争が始まると、ロシア寄りだったアメリカ世論を日本の味方につけるために自費を投じ、妻キャロラインと一緒に民間大使として様々な活動を展開しました。活動の第一歩として、譲吉は戦争開始の1カ月後、2月28日のニューヨーク・プレス紙に全段抜きの寄稿記事を、当時世界的に有名だった北里柴三郎と自身の写真とともに掲載しました。

「日本における諸科学の驚くべき発達」と題された記事は、日本人がどれほど平和を愛しているかをアメリカ市民に訴えるとともに、その証として、江戸時代の鎖国から明治維新を説き、わずか30数年で科学、技術、産業をいかに発展させてきたかを分かりやすく伝えました。なかでも、医学における発達の素晴らしさを記事の中心テーマにして、血清療法の発見者として世界に知られている北里柴三郎の業績を取り上げたのです。

ニューヨーク・プレスの編集者は、「日本と日本人を語る資格において、ニューヨークに住む高峰博士ほど適任者はいない。高峰博士は世界最大の科学者の一人であり、医学におけるもっとも重要な発見のうち、アドレナリンとタカジアスターゼがある。」と絶賛しました。

1905年 ニッポン・クラブ創設 初代会長に就任

民間外交の重要性を熟知していた高峰譲吉は、日米関係のより親密な発展を考え、1905(明治38)年ニューヨークで、日本倶楽部(現ニッポン・クラブ)を創設、初代会長となります。
当時北欧からニューヨークに戻った野口英世も会員となり、高峰と親交がありました。

1905年 松楓殿移築

1904年、ミズーリ州で開催されたセントルイス万博閉幕後、日露戦争の戦費がかさむ日本政府は日本館の解体費用を用意できず、譲吉が肩代わりをして払い下げを受けます。建物解体後、ニューヨーク郊外のメリーウォルドに鉄道で運搬、宮大工を現地に呼んで再建しました。その建物を「松楓殿」と名付け、日米親善の社交場として活用します。

松楓殿移築の詳細はこちら

松楓殿

1905年 ポーツマス講和会議日本代表団の激励

日本の命運を背負ってポーツマスにおける日露戦争講和談判に臨む直前の全権団の集まりに、唯一の民間人として高峰譲吉が激励に参加しています。
金子賢太郎は、アメリカの世論をそれまでの「ロシアびいき」から「親日」に転換するようにという重い使命を果たした際、「高峰夫妻の協力なくしては、自分は到底責任を果たせなかったと思う」と述懐している。また、全権大使の小村寿太郎と譲吉は、長崎の致遠館の同窓生である。同級ではないものの、双方とも英語教師フルベッキに西洋の文化、文明をしっかりと教えられている。

ニューヨーク・メトロポリタン・クラブにて日露講和全権団と高峰譲吉:座っている人(右から)、高峰譲吉、立花小一郎、高平小五郎、金子賢太郎、小村寿太郎(全権大使) 提供:日南市小村記念館

1907年 ジャパン・ソサエティ設立 副会長に就任(会長はニューヨーク市立大学学長ジョン・フィンレー)

高峰は日米の友好関係を促進するために様々な活動を行っていますが、ジャパン・ソサエティ―設立もその一つです。
ほとんどのアメリカ人が日本について何も知らなかった時代に、日本の文化や慣習を伝え日米の相互理解につなげることを目的としました。
日米文化交流の先駆的な役割を果たし、後の日米協会設立のモデルともなりました。

 

1910年 豊田佐吉激励

経営陣との対立で自ら起こした自動織機の会社をやめることになった若き豊田佐吉は、傷心をかかえて米国への旅に出ました。
旅の途中、すでに世界的な科学者として名声を博していた譲吉を、幾度となく訪問します。譲吉は、「発明家たるものは、その発明が実用化されて社会的に有用な成果が得られるまでは、決して発明品から離れてはいけない。それが発明家の責任である。」と佐吉を励ましました。

この時の様子は、トヨタ自動車75年史にも記載されています。以下、抜粋。 「佐吉はニューヨーク在住の高峰譲吉博士を訪問し、発明について意見を交わす機会に恵まれた。ジアスターゼやアドレナリンを発見した化学者として知られる高峰博士は、農商務省の専売特許局・局長代理を務め、特許制度の整備に尽くした経験の持ち主でもあった。発明を実用化するための試験・研究の重要性や、発明に伴う諸々の障害を経験した高峰博士の話には、佐吉としても共感するところが多々あり、その後もたびたび訪ねて懇談を重ねるうち、帰国して再起を期する自信と勇気が湧いてきた。」

豊田佐吉(1867-1930) 幕末、浜名湖近くの貧家に生まれ、寺子屋ほどの教育しか受けていない。大工となるが、機械いじりと、発明の才には大いに恵まれる。高峰、御木本幸吉(養殖真珠)らの像とともに「日本の十大発明家」として特許庁(東京、虎ノ門)玄関に大きく飾られている。(写真は1911年撮影。提供:トヨタ自動車)

1911年 ニューヨーク・ハドソン河畔に国際親善の場となる邸宅完成

NYの高峰邸(中央の建物)

1912年 日米桜寄贈

ニューヨークとワシントンに日本の桜が寄贈される国家プロジェクトが行われました。最初の寄贈は害虫発生のために、全て焼却処分となってしまい改めて二度目の輸送で無事植樹されました。紆余曲折を経て、アメリカ後に根付いた桜は100年以上たった今も綺麗に咲き続けています。

日米桜寄贈の詳細はこちら

1917年 日米協会設立 設立発起人

この年、さらなる日米の友好促進を目的として、日米協会が発足しました。初代会長は金子堅太郎男爵で、1907年に高峰がニューヨークで設立した日本協会(ジャパン・ソサエティ)がモデルとなっています。
金子、渋沢、高峰の連名で日米協会の勧誘状を財界人たちに送っています。

 

人脈ネットワーク➡