長州ファイヴの一人・山尾庸三

高峰譲吉の世界への道を切り拓いていた先輩

石田 三雄(農学博士)/当NPO法人 元・理事長(故人)

   1.その1:5人の密航者(長州ファイヴ)の一人が開拓した道
  > 2.スコットランドの大学をそっくり東京に運んできた山尾庸三

その1:5人の密航者(長州ファイヴ)の一人が開拓した道

「高峰譲吉のイギリス留学」に関するエッセイを書いて、2006年に『近代日本の創造史』に掲載して貰ったことがある [1]。しかし、なぜ高峰留学の地がスコットランドのグラスゴーであったかという理由について、深く探ることはしなかった。最近この留学の恩人とも言うべき先輩の山尾庸三について、少し詳しく調べたので、以下にご紹介したい。

長州ファイヴ 2015年早春のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」に次々登場した若き長州藩士の活躍は、何度見ても胸が躍るようである。テレビドラマは、主として政治の分野で名を残した人物の業績に絞られるのは致し方ないとしても、ここでは近代日本の文字通り「骨格」を作った飛び切り優れた科学実務家山尾庸三の存在を忘れるわけにはゆかない。明治の新しい国作りに主要な役割を果たした長州藩公認の五人の密航者(長州ファイヴ)については、多くの文献資料がありご存じの方も多いが、その中の一人、山尾庸三(1837-1917)の果たした役割を検証してみたい。

(右の写真=長州ファイヴ/(上段)遠藤謹助(左)、野村弥吉(中央)、伊藤俊輔(右)、(下段)志道聞多(しじ もんた)(左)、山尾庸三(右) [2])
スコットランド地図

若き日の山尾庸三
 1837(天保8)年、山口の周防小郡(山口県山口市小郡下郷。新幹線新山口駅近く)に生まれた山尾庸三は、藩校で基礎教育を受け、その後各地に遊学した後、1856(安政3)年に創立された北海道、箱(函)館の「諸術調所」[3] で伊予大洲藩士の武田斐(あや)三郎から英語を学んだ [4] 。
 明治元年の6年前、文久2(1862)年12月12日、江戸の市民が驚愕する大事件があった。品川の桜の名所だった御殿山に新築なったばかりのイギリス公使館が、高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい)らの長州藩士12名によって焼き討ちされたのである。それを見上げる位置の妓楼から歓声を上げ、祝杯をあおっていたのは、長州藩の若き壮士であった。その席で、「次は塙(はなわ)だ。塙次郎は不忠の臣だから天誅を加えよう」と玄瑞が飛ばした檄を受けて立ったのが、伊藤俊輔(博文)と山尾庸三の2人であった。
 スマホはおろか、電話もテレビも無く、東海道を人夫が走って書状を配達していた時代に、読者ご自身をおいてみられると情景が浮かんでくると思うが、人から人へ声か手紙で伝わってくる情報ですべてを判断していた時代、こういったことは日常茶飯事であったのかもしれない。ちなみに、その頃新島襄がロシア領事の手助けを得て、米国船ベルリン号で函館港から米国へ密航し(1864年)、帰国後京都に同志社を創立している。

山尾庸三 その翌年、山尾庸三は、長州藩5名の留学生の一人として、ジャーデイン・マセソン商会が斡旋した帆船に乗り込んで、1863(文久3)年5月13日横浜港からイギリスへ密出国した[5] 。あろうことか、選りによって前年に公使館を焼き討ちしたそのイギリスへ留学するのである。
 先ずひそかに上海へ行き、船を乗り換えて西へ向かった。仲間の一人の片言の英語が誤解を生んで、4か月余りの航海中、彼らが水夫の訓練を課されたことは良く知られているところである。後に我が国の最初の総理大臣となった伊藤博文に、こういう苦しい経験があったことは、是非現代の若い人達にも知っておいてほしいところである。 (写真:若き日の山尾庸三)
 ロンドン港に上陸した彼らの留学生活は、マセソン商会の支配人ヒュー・マセソン(Hugh M. Matheson, 1821―98)の世話を受けて、そこから開始された。西洋の科学や産業を、長州藩のために学ぼうとする彼らの強い希望と意欲を,マセソンは強く受け止めていたそうである。
 マセソンが、彼ら5名の学業面について助言を仰いだのは、ロンドンのユニヴァーシテイ・カレッジ(UC, 1826年創立)の化学教授のウイリアムソン[6] であった。山尾庸三は、このカレッジの聴講生となった。このウイリアムソンの友人のジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、日本人の良く知るスコットランドの経済学者であった。ミルは、1950年のノーベル文学賞を受賞しているバートランド・ラッセル(Bertrand A. W. Russell, 1872ー1970)の名付け親であるという人脈であった。

 山尾ら5名は、先ず英語学習のために、現在で言うところのホーム・ステイの機会を与えてもらっている。山尾は志道聞多(後の井上馨、1836-1915、外務、農商務、内務、大蔵大臣を歴任)と一緒に、学校の近くのガワー・ストリートにあるクーパー(Cooper)氏の家に厄介になることとなった。彼らは、「洗濯はどうしたらよいか?」、「靴はどこで買えるか?」から始まって、何でも積極的に聞いてきて、熱心に英語を習得していったと、マセソンが回顧している。
 当時ロンドンの代表的な大学は、ユニヴァーシテイ・カレッジとキングス・カレッジ(1829年創立)の2つであった。マセソンは、英国・国教会の色彩の濃いキングス・カレッジを避け、無宗教性を特色とするUCを選んでくれたようであった。マセソン本人は、スコットランド出身で長老派教会の信者であった。
 さて、山尾庸三が野村や安藤と一緒に履修したのは、ウイリアムソン担当の分析化学であった。4か月分の授業料は、14ポンド14シリングで、それは約3万4千両に相当し、現在の円では、約170万円になる [7] 。当時の日本の経済的地位が如何に低かったかが偲ばれる額であった。引き続き彼が履修した分野は、「化学」と「土木工学(Civil Engineering)」で、後者を担当していた教授は、後に日本政府の鉄道建設の在英顧問技師となったウイリアム・ポール(William Paul, 1814―1900) [8] であった。

 この様な環境で、みっちり英語で基礎の学問をした山尾庸三は、3年後1866(慶応2)年の秋に、産業革命の中心地であるスコットランドのグラスゴーに移動した。猛烈な熱気を帯びながら、グラスゴーを中心に進行しつつあった第1次産業革命の花形は、最先端の科学技術を結集したクライド河沿岸の造船所の「蒸気船」であった。
 山尾は、鎖国を解いた島国日本が、文字通り海外貿易で発展するために最も必要な技術の1つとして「造船」を強く頭に描いていた。その点で、同じ島国の英国は格好の勉強の場であった。今こそかねてからの構想「造船を極める」を実現しなければならなかった。
 19世紀のスコットランドの社会のレベルは、イングランドのそれをしのぐ水準であった。とりわけ教育システムは特筆すべきもので、「half time system」と称される基本的な制度を確立していた。これは日本では、「半労半学」と翻訳されているが、簡潔に言えば、太陽の出ている間は現場で「労働]して技術を身につけ、夜にはそこで体験した技術を支える論理を「勉学」しろという制度である。講義や書籍で理論を学ぶばかりの若者は、実社会では役に立たない、それを応用できる人材こそ社会が要求しているのだという哲学を当時のスコットランドの指導者はしっかり持っていたのである [9] 。
 スコットランドの社会の、イングランドへの対抗意識の強さは、ごく最近の「スコットランド独立賛否投票」に象徴されるが、大変ウイットの利いた逸話を1つ紹介しておきたい。イングランドの批評家サミユエル・ジョンソン(Samuel Johnson、1709―1784、シェイクスピア研究者)が自著の『英語辞典“A Dictionary of the English Language”』(1775年)の「カラス麦」の項目に、「カラス麦」はイングランドでは馬の飼料だが、スコットランドでは人間が食べる」と記述した。それに対してジョンソンの弟子でスコットランド人のジェームズ・ボズウェル(James Bosewell、1740―1795)は、「ゆえに、イングランドの馬は優秀で、スコットランドでは人間が優れている」とやり返したという [10] 。

 それから丸2年、地元の名家ブラウン宅に下宿した山尾庸三は、half time(半労半学)の教育システムに従って、最先端を走っていたネイピア(Napier)造船所で昼間は工場実習に汗を流し、夜はアンダーソン・カレッジで昼間体験する造船技術を支える論理の講義を聴き、「昼」と「夜」を合わせて、最新の「造船技術」をみっちり学んだのである。
 ネイピア造船所の創始者、ロバート・ネイピア(Robert Napier、1791―1876)は、「クライド造船の父」と尊敬される産業革命の象徴的な人物であった。下の地図が示すように、GLASGOWから左ななめ上方向に太西洋に流れ出て世界につながっているクライド河(R. Clyde)の河畔は、原料と製品の出し入れに最適な立地条件を備えていることは容易にお判りいただけると思う。クライド河沿いのDumbartonという町に生まれたロバートは、24歳になった1815年に、父から資金として50ポンドを出して貰って自力で成功をおさめるという、立志伝中の人となった。
 当時、この造船所にカーク(Alexander Kirk)とう新進新鋭の技師が働いていた。その下で修行していた若いHenry Dyer(以下ダイヤー)という一人の男がいたが、彼も夜はアンダーソン・カレッジで理論を学んでいた。そこでのダイヤーと山尾との出会いが、開国した明治日本の工業を立ち上げるのである。
グラスゴー
上の地図、左やや上方にある矢印がクライド河(R. Clyde)で、下流(左方向)は大西洋につながっている。この河の周辺で、ネィピヤ(Napier)造船所を含む造船業が発達し、産業革命の1つの核になったことが良く理解できる。原料と加工製品の運搬をもっぱら船舶にたよっていた時代、造船は主役であった。
スコットランドの中心エディンバラ(Edinburgh)と産業革命の中心グラスゴー(Glasgow)の距離は約70Km(下の地図)。

 しかしロバート・ネイピアの成功は、同時代人の発明無しにはあり得なかったのである。ここで日本人にも大変良く知られているジェームズ・ワット(James Watt、1736〜1819)に登場いただかねばならない。グラスゴー大学で計測器製作に従事していた頃、蒸気機関技術に興味を覚えたワットは、当時の機関設計ではシリンダーが冷却と加熱を繰り返しているため熱量を大量に無駄にしてしまっている点に気づいた。彼は機関設計をやり直し、凝縮器を分離することで熱量のロスを低減し、蒸気機関の出力、効率や費用対効果を著しく高めた [11] 。
 この新発明の蒸気機関を備えた新型船舶、即ち「蒸気船」が、それまでの順風頼みの帆船にとって代わって自由に世界をかけめぐったことは、幕末の「ペリーの黒船」として知らない日本人はいないのである。ワットのこの栄誉は、国際単位系における仕事率の単位「ワット」として永遠のものとなっている。

 この造船と共にその頃の発明で見逃すことのできない技術は、人造肥料・過リン酸石灰の工業生産であった。
 その詳細については、京大名誉教授久馬一剛氏のエッセイ「高峰譲吉の人造肥料会社起業の原点とその周辺 [1]、[2]」[12] をお読みいただきたいが、山尾庸三もきっと南下してニューキャッスル(最初の地図の右下に図示)のその工場を訪れて、見聞を広くしていたに違いない。

 山尾庸三は、ネイピア造船所での実習期間中に、1つの感動する瞬間に出会っている。図面を引く人や、大工、鉄工などの作業者の中に聾唖の人達がいて、彼らは指を動かしてお互いに意志を通じていたのに大変驚いたのである。現代なら皆が知っている「手話」を初めて見たのである。これは素晴らしい。日本でもこういう教育を始めなくてはならない。こうすれば、話せない人も、聞こえない人も立派な一人前の人に負けない職人として豊かな人生を送ることができるではないかという思いを胸に秘めることとなる。

 30歳になった山尾庸三は、明治新政府の要職に就いていた同じ長州藩の木戸孝允から、そろそろ帰国して6年近くになる留学経験を新しい日本の為に活かしてほしいとの要請にこたえて、1868(明治元)年11月帰国の途に就いた。

引用文献
本稿全体を通じて参考にした文献2編
*佐藤隆久著「それからの二人―伊藤博文と山尾庸三―」、温故叢誌:温故学会編(2010)
*藤井 泰著「山尾庸三とユニバーシテイ・カレッジ」、英学史研究 第22号(1989)
[1] 石田三雄著「産業革命成熟期の心臓部へ―高峰譲吉のイギリス留学」、『近代日本の創造史』創刊号(2006)、p.3-9。
  www.sohzohshi.org/を呼び出し、「会誌バックナンバー閲覧」で、お読みいただけます。
[2] ja.wikipedia. org/wiki/長州ファイヴより転載(2015)。
[3] 諸術調所:www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/…/shishi_03-05-13-01-01.htm
[4] 北 正巳著『国際日本を拓いた人々:日本とスコットランドの絆:第2章第1節「日本初の西欧技術徒弟、山尾庸三」p.33-』同文館(1984)
[5] 『英学史研究:第22号』p69-77:日本英学史研究会発行(1989)
[6] William A. Williamson(1824-1904)、北スコットランドのエルギン(Elgin)領に生まれ、青年時代、化学の世界の中心であったドイツで学んだ。その後初期の合成化学で優れた実績を残す。1855-1887、UCで教授を務めた。幕末の日本人留学生対する好意ある指導に対して、内閣総理大臣から子孫の方に最近(2013年)も感謝状が贈られている。
[7] 京都故実研究会 Teio Collection
[8] William Poleの息子のGeorge Henry Pole(1850-1929)は、1873年23歳でお雇い鉄道技師として来日し、3年間勤務している間にキリスト教の宣教を思い立ち、帰国してケンブリッジで神学を履修したあと宣教師として再来日している(※ 西口 忠 (桃山学院史料室) 英国聖公会宣教協会(CMS)の日本伝道とCMS関係史料 2003年)。
[9] 筆者は1931年生まれであるが、昭和27年から学んだ京都大学農芸化学科の教育体系は、午前中は2時間の講義が2つあり、午後の時間はすべて何時まででも実験室での課題実験に費やされた。文字通り「半学半労」であった。当時ほとんどの教授はドイツ留学で鍛えられていたので、おそらくドイツも半労半学であったのだろう。
[10] www.weblio.jp>…>百科辞典>スコットランドの歴史の解説
[11] Wikipedia:ジェームス・ワット(2015)
[12] 久馬一剛著「高峰譲吉の人造肥料会社起業の原点とその周辺(1)」、高峰譲吉博士研究会・会報第5号p.66-68

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その2:スコットランドの大学をそっくり東京に運んできた山尾庸三

「その1」で順を追ってご紹介してきたように、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スコットランドなかんずくグラスゴーの造船業・機械工業はイギリス帝国経済にとって不可欠な存在だった。世界の工場ともよばれ、ブリテン連合王国(Great Britain)のなかでも「発展は北にあり」といわれるほどの繁栄ぶりだったという。また、蒸気機関を備えた最新の蒸気船が可能にした世界中の植民地との貿易によって、益々産業革命は加速されていった。丁度その真っただ中に飛び込んだ山尾庸三が、やる気一杯で帰国して、見聞をありのまま話した相手が、その昔、吉田松陰も舌を巻くほどの天才的調整能力者で,長州ファイヴの仲間で先に帰国していた伊藤博文であったのだから、何か事が起こらない方が不思議であった。

 明治維新がやや落ち着きをみせたころ、二人は先ず学校を建設して多数の人材を養成すべきとし、1871(明治4)年4月工部大学校(最初は工学寮と称した)の建設について『建言書』を担当大政官に提出している。そこには「国家の文明を盛大にするには、先ず知識を備えた人材の養成が必要であることを大前提とし、工部省に至急工部学校を建設しなければならない。そこで学んだ少年有志を順次洋行させて、将来は外国人教師による煩わしい人材育成から脱却し、万世不朽の基本を築かなければならない。」と、明瞭に建言理由が書かれている。国家の基礎作りからやろうじゃないかというのである。さらに学校建設の場所は、虎の門の中の延岡藩邸が最適と述べ、極めて具体的である。
工部大学校 さて学校の内容をどうするかという重要な懸案は、当時のスイスのチューリッヒの工業大学をモデルとして、普通予備教育2年、専門の学科教育2年、最後に専門の実地教育2年、計6年と定め、学科内容は、土木学、機械学、電信学、造家実地(後に造家学)、化学および溶鋳学(後に化学と冶金学の2学科に)および鉱山学の計6学科としたが、この充実ぶりは、当時の欧米諸国にも少なかったそうである [13] 。

工部大学校正門(虎ノ門所在)/引用資料 [13]

 いよいよ誰がどのように教えるのかという核心部分であるが、ここで山尾庸三がスコットランドで築いてき人脈がモノを言うのである。同じように半労半学で、昼は工場実技、夜はアンダーソン・カレッジでその昼間の実技の理論的裏付けを、眠い目をこすりながら共に学んできた同窓のHenry Dyer(以下ダイヤー)にすべてを任せようと、来日を要請した。ダイヤーが選んで工部大学校に送り込んだいわゆる外国人教師は10名(うち妻帯者2名)、当時の年齢は24〜35歳、月給は100〜470ドルで、ヘンリー・ダイヤー本人は未だ弱冠25歳の若さだったが、さすがに588ドルの高級取りであった [14] 。高峰の専攻した化学の教授は、今も東大構内に胸像の残るダイヴァース(Edward Divers, 1837〜1912)で、一番高年齢(35歳)であった [14] 。
 着々と準備が進み、二人の建言から7年後の1878(明治11)年4月15日、明治天皇の行幸を仰いで開校式が挙行された。屹立した名君であった明治天皇の簡にして要を得た説得力のある短い(81字)の勅語が残されているが、それに感動した若者が近代国家を作る原動力になるのである。ちなみに、1885年に文部省の管轄となり工科大学に発展するまでに1873年の開校から12年間に入学した478名のうち卒業できたのは、44%の210名という難関であった。学校の内容、運営はすべてダイヤーの構想にまかせたが、そこでは講義、教科書、質疑応答、試験などすべて英語で実施されたので、物理的な存在が東京である以外は、すべてスコットランドの大学がそのまま海を越えて平行移動したのであった。いわば、学生は身体の移動無しに「英国留学」したのである。生徒の学費(授業料)は紆余曲折を経て、1873(明治6)年に官費支給と定められている。
 工部大学校の化学科を首席で卒業した高峰譲吉(化学)は、官費留学生として南清(土木学)、志田林三郎(電信学)、高山直質(機械学)と一緒に1880年4月10日、4名揃ってグラスゴーに到着、山尾庸三が14年前に開拓した道を、好奇心で胸を一杯に膨らませながら進み始めるのである [1] 。

 ダイヤーは1882(明治15)年にスコットランドに帰国し、珠玉のような1冊の本『DAI NIPPON』(総ページ数450)を約20年後に出版している。それは、在日中の貴重な「日本の分析」の記録である。
山尾、ダイヤー、書籍
写真左:1.子爵 山尾庸三 (wikipedia)/山尾庸三より。 写真中:Henry Dyer (wikipedia)/ヘンリー・ダイヤーより。 写真右:ダイヤーが英国帰国後に出版した本の表紙。
記述(1)
上の文章はダイヤーの『DAI NIPPON』p.2の最下段落にある山尾との再会についての記述。この他に、山尾については4か所、高峰譲吉については1カ所に記述がある。
記述(2)
上の文章はダイヤーの『DAI NIPPON』のp.188の最上段にある。ダイヤーは教え子高峰たちの業績を誇りに思っていた。

 帰国後の山尾庸三が、それぞれ明治新政府の要職を占めていた長州ファイブの仲間と協力して幅広く活躍した様子を詳しくご紹介する紙幅は無いが、1つだけ大変大きな功績についてだけ述べておきたい。それは、ネイピア造船所で気付いた聾唖者の教育であった。山尾の活動を簡潔に述べれば、1880年の訓盲院(目の見えない人を教える学校)の創設であった。最初民間の援助で運営されたが、経済的に行き詰まり、5年後に山尾は文部省の管轄に移行させ、1915年には日本聾唖協会が設立され、山尾が自ら総裁に就任して活動を確固たるものにしている。
 日本の工業の父と尊敬された子爵・山尾庸三は、1917(大正6)年12月21日、東京の自宅で眠るが如く息を引き取った。享年81歳。
 山尾の開拓した道を辿り目一杯勉強してきた高峰譲吉は、仕事ではもはや「英国人」であったと言えるだろう。高峰が母親の酒造業の実家の酒蔵で見た麹菌の不思議な働きの理論的裏付けを、アンダーソン・カレッジの夜学でミルズ博士の講義を眠い目をこすりながらも懸命に学んだ発酵の化学から、強力な澱粉分解酵素ジアスターゼの開発へと発展し、やがてそれが彼の米国での目を見張る活動の原動力となったのである。
 高峰は俺の切り拓いた道を通っただけでなく、その経験を基盤にして現在ならノーベル賞級の大仕事を、しかもそれを2つも、よくぞ完成させてくれたと、先輩の庸三は泉下で喜んでいただろう。(終わり)

引用文献
[13] 東京大学百年史(国立国会図書館請求記号FB22-1555)
[14] 武智ゆり著「ダイヴァース先生とその弟子たち」、『近代日本の創造史』第2号(2006)、p.11-20。

(作成:平成27年4月27日/文責:石田三雄)

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