生い立ちから英国留学まで
1. 高岡で生誕後、すぐに金沢へ移住
2. 長崎留学後、関西へ
3. 工部大学校入学後、英国へ留学
高岡で生誕後、すぐに金沢へ移住
高峰譲吉は、1854年11月3日に越中国高岡(現・富山県高岡市)の御馬出町(おんまだしまち)で、加賀藩御典医、高峰精一の長男として生まれました。母の津田幸子(ゆき)の実家は同じく高岡で鶴来屋(酒造業)を営んでいました。生誕の地は高岡市の所有で「高峰公園」として整備され、顕彰碑と胸像が建っています。
翌年、父が加賀藩の学問所「壮猶館」への勤務が命じられ、加賀国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市)へ移住します。
長崎留学後、関西へ
7歳から加賀藩藩校の明倫堂にて学び、1865年(慶応元年)、11歳の時、留学生に選ばれ、長崎で3年間英語などを学びます。譲吉が在籍した長崎の致遠館は、オランダ人宣教師グイド・フルベッキが英語教師として迎えられ、多くの俊秀を輩出、明治の立国を助けました。致遠館の同窓生には、小村寿太郎(外務大臣)、大隈重信(総理大臣、早稲田大学創立)らがいます。
その後、1868年(明治元年)、京都の兵学塾、1869年(明治2年)、大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校、七尾語学所にて学びます。(譲吉15歳)
工部大学校入学後、英国へ留学
1873年、工部大学校(後の東京大学工学部)第1期生として入学、6年間応用化学を学び、首席で卒業した譲吉は、翌年、英国に留学します。
譲吉が渡英して学んだ先は、「グラスゴー大学」と「アンダーソン・カレッジ(現ストラス・クライド大学)」です。どちらも産業革命の中心地スコットランドのグラスゴーに位置し、大学では発酵(醸造)の科学原理をはじめ応用科学を中心に勉強するとともに化学工場などで実務の体験もしました。グラスゴー大学の公式HPには高峰譲吉のことを説明しているページがあり、当時2つの大学で学んでいたことが読み取れます。ちなみに高峰よりも半世紀後に、グラスゴー大学に応用科学を学びにきたニッカウヰスキーの竹鶴政孝のページもあります。
高峰は1883年、米国経由で帰国し、農商務省に入省、工務局勧工課に勤務します。