高峰譲吉の留学志望と佐野鼎

松田 章一(元・金沢ふるさと偉人館 館長)/ 当NPO法人 理事

 佐野鼎は1829年・文政12年、現静岡県富士市の郷土の家に生まれた。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭になる。後、長崎の海軍伝習所に学び、1854年・安政元年24歳の時加賀藩に招聘され、壮猶館 (※1) の西洋砲術師範方棟取となった。
 翌年2月には28歳の高峰精一も壮猶館舎密方御用となり、二人は同僚となった。
 鼎は、1860年・万延元年、日米修好通商条約批准書交換の遣米使節団に従僕として参加、帰国後に『奉使米行航海日記(万延元年訪米日記)』を藩主に提出している。実に克明な視察日記で、加賀藩では最初のアメリカ体験者であり、アメリカ事情最初の記録でもあった。(この時譲吉6歳)
 佐野は1861年・文久元年にも、幕府遣欧使節団に随行しているから、藩内きっての欧米通といえる。帰国後は軍艦所奉行補佐として加賀藩の軍艦購入に尽力した。譲吉の父精一もまた、御軍艦方御用を兼務しているので、藩内の開明派としての二人は昵懇知悉の間柄であった。また壮猶館の教師たちのほとんども、長崎留学の体験者である。
 そういう人たちに囲まれて育った譲吉少年の視線は、当然長崎に注がれていたに違いない。その上ごく身近に、外国体験者佐野鼎がいた。譲吉の耳には佐野の体験談を通じて欧米の情報が入っていたと思われる。まして壮猶館には、藩が長崎経由で買い求めた外国文献が、千冊近く山積みにされていて、譲吉ら子供たちにも見る機会があったはずで、佐野の欧米体験とともに、譲吉少年の向学心を熱く揺り動かしていたと思われる。高峰譲吉が長崎留学に出かけるのは、1865年・慶応元年12歳の時であるが、実は譲吉の眼も心も、長崎を越えて、遥か遠い海外に向けられていたに違いない。
 これを実証する資料が国立公文書館に残っている。

  金沢藩願           弊藩  井口庸助 安達松太郎 高峰譲吉
  右の者、当時英学実業相い学び居り申し候処、此の度洋行ノ便艦が御座候由ニ付、不苦(苦しかららざる)儀に御座候ハバ、両三年ノ間英国へ指し遣わし習学為致(致させ)度く奉存候、此段奉伺候、以上。  元年九月十五日 (句読点、ひらがなは筆者)
  御親臨ノ上於東京可願事      元年九月十八日

 これは石川県の歴史学者の今井一良氏の発掘資料であるが、この明治元年7月には江戸が東京に改称、8月には年号が明治に改元、9月には会津藩降伏という激動混乱が続き、この「願」は実現されなかった。譲吉らは落胆したものか、長崎を離れ、安達松太郎の父が勤めている伏見の「兵学塾」に一年ばかり滞在している。(この松太郎の父・安達幸之助は後に大村益次郎とともに京都で斬殺された。)
 譲吉の留学志望は、まだ暫らく時を待たねばならなかった。

ーーーーーーーーーー 注 ーーーーーーーーーー
(※1) 『壮猶館』:安政元(1854)年、軍事研究機関として創設される。
  単なる兵学校ではなく、広く西洋の学問を取り入れる洋学校の性格を持っていた。
  (金沢ふるさと偉人館サイトより)

▲ 加賀藩藩校「明倫堂」 (※2) 図絵(金沢ふるさと偉人館サイトより)

ーーーーーーーーーー 注 ーーーーーーーーーー
(※2) 『明倫堂』:壮猶館に先立つこと62年、寛政4(1792)年に加賀藩藩校として創設された。
  朱子学を中心に講義が行われたが、普通は武士のみを対象とした教育機関である藩校において、「四民教導」という目標を掲げ、庶民教育も藩校で行おうとする他藩にない特徴を持つ。
  (金沢ふるさと偉人館サイトより)

(作成:平成26年12月5日/文責:松田章一/脚注:事務局)

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