塩原又策と高峰譲吉 その2
さて、三共商店(現:第一三共株式会社)の創業者であり、高峰譲吉と公私ともに深い関係であった塩原又策についての第2回の寄稿になります。(1回目はこちら)
明治41年(1908)10月、米国から日本に帰国した譲吉は、又策への土産としてアメリカのフォード社が製造した自動車を持ち帰りました。当時は、東京でも自動車はまだ数十台程度しか走っていない時代でしたが、これを切っ掛けに譲吉の仲介で三共商店はフォード社の総代理店となりました。
しかし、不断の営業努力をもってしてもわずか数台しか売れず、代理店の権利は間もなく放棄することになります。 その理由は、道路にありました。車と道路は「共進化」するといわれます。雨の日の未整備の道路はどんなに良い車でも走れず、当時の日本に自動車は早すぎたのです。これが又策が経営の多角化を目指した最初の事業でした。
余談ですがこの4年後、豊田自動織機の豊田佐吉が自分で起ち上げた会社の経営陣と衝突し退職、失意の中で米欧視察旅行に出発しました。米国滞在中は三井物産が佐吉の世話をしていたので、三井の大番頭・益田孝が佐吉に譲吉を紹介したのでしょう。佐吉は、ニューヨークの譲吉宅を何度も訪問したそうです。13歳年下の佐吉を快く受け入れた譲吉は、佐吉を励まし自動車の未来についても語ったと言われています。この流れが、佐吉から息子の豊田喜一郎へ引き継がれ、今日のトヨタ自動車へと繋がっています。
こうした事業拡大の中、大正2年(1913)に合資会社から株式会社へと発展し、「三共株式会社」が誕生しました。初代社長は譲吉です。他にも、ベークライト事業、アルミニウム精錬事業、キシライト事業など次々と化学工業の分野に進出しました。
合成樹脂ベークライト(フェノール樹脂)の発明者、べークランド博士は譲吉のアメリカの友人でした。べークランドが来日した際に、譲吉の斡旋でベークライトの日本特許専用権を獲得し、大正4年(1915)にはベークライト製造工場を竣工して生産を開始しました。その後三共から独立し、現在は住友ベークライト株式会社へと発展、現在もフェノール樹脂で世界トップシェアを持っています。
また、譲吉の故郷である北陸地方においてアルミニウム精錬事業を計画し、日米の合弁会社、東洋アルミナムを起ち上げました。この事業は日米の政財界を巻き込んだ一大事業でしたが、第一次世界大戦の影響もあり途中で挫折してしまいます。しかしながら、このプロジェクトは日本電力(現関西電力)の手に引き継がれ一大電源開発事業へと育ちました。「黒四」の愛称で親しまれる黒部ダム(冒頭の写真)もこの事業の中で建設されました。
譲吉は晩年、日本に帰って老後を過ごしたいと考えていました。それに伴い大正8年から9年にかけて、東京・渋谷の塩原又策邸敷地内に自宅建築を計画し始めました。図面は完成し、後は着工をいつにするかといった諸準備が残るだけでしたが、譲吉の良き理解者であった渋沢栄一から、日米親善のためにどうかアメリカに留って欲しいと説得を受け、最期までアメリカで日本のために活動することを決意したため、結局この邸宅建築は見送られました。
設計者は皇室関係の建築を多く手掛けたことで知られる建築家、木子幸三郎(きごこうざぶろう)です。木子幸三郎は、三共株式会社の品川工場本館や大阪出張所、銀座三共薬局のステンドグラス図案、ハーレーダビッドソン・モーターサイクル販売株式会社の設計や塩原邸など、三共に関わる建築も多岐にわたります。他の代表的な建築物は、天鏡閣(旧有栖川宮威仁親王別邸)や旧竹田宮邸洋館(現グランドプリンスホテル高輪貴賓館)、旧鈴木忠治邸(現ローマ法王庁大使館)などがあります。
事業規模が拡大していく中、大正11年(1922)、譲吉はニューヨーク郊外で永眠します。譲吉が亡くなった後、又策は三共株式会社の専務のまま経営の指揮を執り、社長不在の状態が続きました。約7年の喪に服し、その間に経営陣を固めて、昭和4年(1929)に又策は三共株式会社第2代社長に就任しました。そして、タカジアスターゼやアドレナリンをはじめとする主力製品の国産化を実現し、発展の基礎を作り上げました。
また、又策は日本に高峰の姓を残したいという希望のもと、息子、五男の健三に高峰姓を継がせ、健三が昭和20年に戦死したのちには、健三の弟の英三にあとを継がせました。現在、又策の墓石は東京・多磨霊園に、譲吉の墓石はニューヨーク郊外のウッドローン墓地と東京・青山霊園にあります。青山霊園の高峰譲吉墓所には高峰英三、幸子ご夫妻の墓石があり、塩原家のご厚意により管理されています。毎年、譲吉の命日には綺麗な御花が供えられています。
参考資料:
第一三共百年史
第一三共HP
住友ベークライトHP
金沢ふるさと偉人館HP
(作成:令和5年5月10日/文責:事務局)