黒部川電源開発100周年 高峰譲吉博士とアルミ産業
本年(2017年)は、高峰博士が発案した黒部川電源開発計画着手から百周年を迎えます。5月から6月にかけて、黒部峡谷鉄道宇奈月駅2Fにて黒部川流域の歩みを紹介する写真回顧展が開催されました。官民でつくる「黒部・宇奈月温泉開発100年事業実行委員会」が主催です。
開催期間中、当研究会の熱心な会員の方が展示を見つけ、同行者6名(含事務局長)とともに写真展を見学しました。更に偶然が重なり、翌日、事務所に写真展の実施に深く関係のある宇奈月自治振興会の河田会長より急な連絡がありました。昨日の今日ということで、お互い驚きましたが、これがご縁となり今秋に開催予定の記念シンポジウムに石田理事長が登壇する運びとなりました。この様子は改めてご報告したいと考えています。
さて、科学者であった高峰博士が、黒部川水域での電源開発及び富山県下のアルミニウム産業発展に大きく寄与していたことは、当研究会HPを含め、すでに多くの方から報告されています。
しかし、事業場所が黒部川流域に決まるまでをまとめた資料はなかなか見つかりません。そこで今回は、改めて高峰博士が起こした東洋アルミナム株式会社が黒部川水利権獲得に至るまでの経緯を掘り下げてお伝えします。
1886年(明治19年)、農商務省特許局の次長に任命された高峰譲吉(当時32歳)は、高橋是清局長を助け、特許商標制度の確立に向けて奔走していました。この年、世界で最初の「電気分解によるアルミニウム精錬方法」が発明されます。
翌年、譲吉が日本初の化学肥料会社「東京人造肥料」を設立し、私費による欧米出張で産業視察や機械買い付けをしている頃、日本に初めてアルミニウムが輸入されました。しかし、まだ産業用としてではなく、貴金属としての輸入でした。この頃は、まだ譲吉の念頭にはアルミニウムのことはなかったかもしれません。
日本で初めてアルミニウム加工を実用化させたのは大阪砲兵工廠で、1894 年(明治27 年)とされています。その後、1902年(明治35年)に、高木鶴松が大阪市に高木アルミニウム製造工場を設立、民生品を製作し「鶴松ブランド」としてアルミニウム器物の普及に貢献しました。
しかしながら、アルミニウムの原料であるボーキサイトが国内で産出されず供給を海外に頼っていたこと、電気化学工業や水力発電事業が未発達であり、アルミニウム精錬に必要な大量の電力が高価なことなどが理由で、国内での製造研究をなかなか拡大・実用化できずにいました。
この頃、譲吉はタカジアスターゼの発見、アドレナリンの抽出結晶化など科学界における重大な業績を立て続けに成し遂げ、多額の特許料収入を得て、米国を拠点として日米の親善活動にも力を注いでいました。
譲吉の記録資料の中で、アルミニウムに関する記述が確認できるのは、1910年(明治43年)頃です。当時ニューヨークに在住していた譲吉は、ドイツ、イギリス、アメリカへの留学を終えたばかりの電気化学専門家・山崎甚五郎と会い、日本での苛性ソーダの工業化や軽金属国産化の課題の中でも、特に重要性を増していたアルミニウムの製造方法などについて論じ合いました。
山崎甚五郎は、後に日本で大規模な工業化が困難とされた苛性ソーダの製造法を開発・確立し、ソーダ工業の勃興と飛躍的な発展に大きく寄与するとともに、世界に類例のない粘土や明礬石を原料とするアルミナ(酸化アルミニウム)の製造方法を発明しました。
さらに、アルミニウムの製造法およびその原料に関する世界的な調査や研究にも従事して、国産原料による工業化や国防上の要請に応え、多大な貢献をしています。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まると、日本の工業が急速に発展、それに伴い電力需要が急増しました。各電力会社が競って水力開発を計画し、全国の主要河川に水力使用の出願が殺到したのです。
そんな中、譲吉はひときわ壮大な計画を打ち立てます。その内容は、当時世界最大のアルミニウム精錬・加工会社「アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカ」(現在のアルコア社、以下アルコア)と提携し、日米合弁会社を設立の上、南米ギアナからボーキサイトを輸入、日本国内で10万キロワットの電力を準備するといったものでした。
譲吉は、全国の主要河川を調査した結果、幼少期を過ごした故郷・富山県下の神通川に着眼し、上流の宮川高原方面において水利使用を出願します。
1916年(大正5年)9月17日、前逓信大臣の後藤新平に対し、書簡を送っています。
譲吉の米国の会社名や住所などのレターヘッドが印字された英文用の用紙に縦書きで書かれています。現代要訳を以下に記します。
九月十七日 男爵 後藤新平殿
謹啓 秋冷相催し、時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
陳者(のぶれば)、今般日米合同資金をもって、富山県下神通川水力を利用しアルミニューム製造工場設立の計画が成立し、米国アルミニューム会社の技師ホーレー氏が既に実地調査終了の上、目下日本に滞在して専らその折衝に当たっております。
当該事業を日本において企業する事は、我が帝国の工業発展上、一大急務であるだけでなく、一面軍事上より観て緊要の事と確信しております。その上日米合同組織の下にこの事業を運営する事は、時局に鑑み日米両国国交の上にも甚大な好影響を及ぼすはずだと考える次第であります。つきましては、当該事業成立の上は、原動力供給の目的をもって富山県神通川上流水力使用の件は、先般塩原又策、大橋新太郎他数名連署をもって出願されております次第で、何とぞ右の出願の件、御許可下さいますよう御厚配たまわりたくお願い致します。先ずは右御依頼まで申し上げます。敬具
高峰譲吉
「アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカ」の技師ホーレー訪日と同時期に、同社社長のデービス夫妻、副社長のダーリング夫妻も視察のため訪日しました。デービス社長はこの後も、断続的に日本を訪れています。約一カ月後、後藤新平は内務大臣に任命されます。有力な陳情かと思われましたが、神通川水利権にも先願者がいて、許可を得ることは困難な状況でした。高峰博士はさらに他の候補地調査を開始します。
1917年(大正6年)4月10日、飛鳥山曖依村荘(渋沢栄一邸宅)で開催された竜門社(渋沢栄一を慕って、東京・深川福住町の渋沢邸に寄寓していた書生たちの始めた勉強会が起源)の春期総集会において、「青淵先生をこがれ慕うて」と題し、高峰博士が演説を行いました。
「(中略)まだ幾つも私が此頃考へ中のものがございます。其中にも、此アルミニユームといふ金属の製造でございまするが、此アルミニユームといふ品物は、是はどうしても日本になければならない、非常に重法な金属であります。其需要も私の考に依りますると、将来鉄に次での金属であると考へますので、そこで私が今此アルミニユームの将来を予言することが、丁度人造肥料を三十年前に予言した如くに、若し中るものとしますれば、此アルミニユームといふ金属は三十年経つて御覧なさい、それはもう非常な産額になるべきものだと私は考へて居ります。そこらの点から、男爵も是非此点に尽力をして、出来得るだけの便宜を図つて、さうして日米協同の事業を此処で起さねばならないと言はれて、人造肥料・国際通信・理化学研究所、さういふやうなものゝ尻押をして戴いたと同様に、亦此アルミニユームの事業に付きましても、男爵の尻押を戴いて居る次第でございます。」
出典:デジタル版「渋沢栄一伝記資料」より
その一節には、アルミ産業にかける熱意が表れています。(原文のまま)
1917年(大正6年)12月、東大土木工学科出身で逓信省の発電水力調査技師であった山田胖(ゆたか)を引き抜き、黒部川の現地調査に向かわせました。余談ですが、山田胖は、同年7月11日付で退官願を出したことが国立公文書館の記録に残っています。
前述の通り、全国の主要河川は電力企業者が争って水利使用を出願していましたが、黒部川はこれら業者の目から免れていました。
これは、黒部川が地図で見ると比較的小さく、両岸が険峻で沿岸に部落がなく、道路も開いていなかったので広く知られていなかったことが理由として挙げられます。
宇奈月温泉開拓以前には、全長約80kmの流域中、河口から12kmの内山村より上流は、険峻な両岸と豊富な降雨量、冬季数メートルの積雪によって定住者は皆無でしたが、水力発電にとっては好条件となり、有力な候補地であることが確認されました。
1918年(大正7年)4月、富山県の財界人たちにより東洋軽銀株式会社設立の儀がおこります。黒部川は、猿飛から柳河原までは三井鉱山(株)、柳河原から桃原(現、宇奈月)までは電気化学(株)がすでに水利権を出願していましたが、山田胖は競願を避け、更に上流の欅平から平の小屋に至る長大な地区に水利使用を出願しました。
実は、わずか数日前にこの区間の水利使用に対しても、別の業者より出願がなされた状況でした。
これに先立ち、東京ではアルコアのデービス社長が譲吉の仲介で、財界の中心人物、渋沢栄一と面会をしていました。渋沢は自身の日記で、デービス社長の水利権に関する要望を内田嘉吉逓信大臣に訪問して伝えたと、記しています。
同1918年(大正7年)5月21日、高岡新報に「富山県下に於ける軽銀興業について」と題して、高峰博士の寄稿文が掲載されます。
3回に分けて掲載されたこの寄稿文は、アルミ産業の重要性、日米共同で会社を設立すること、神通川の水力使用を出願したこと、その許可を待って一大工場を設立する計画、富山湾伏木港と河川の立地が重量物の搬入搬出が必要な産業にとって大変有利なこと、当該地方の発展に如何に寄与するか、などが述べられているものの、黒部川については一切触れられていないので、意図的に情報を伏せたか、或いは、この時期はまだ神通川が本命だったと推測できます。
同1918年(大正7年)8月7日、大阪朝日新聞に「水電より見たる富山県」という記事が掲載されます。炭価大暴騰と化学工業の勃興により企業家が水力電気事業に転じ、その競争過熱の様子や当時の出願状況などを記しています。その中で計画中の工業が種類別に苛性ソーダ及びサラシ粉、カーバイド、製鋼、アルミニウムと列挙され、アルミニウムについては、神通川において高峰博士の日米合資会社と大日本窒素肥料(中橋徳五郎)の出願が競願となっていることが挙げられています。
1919年(大正8年)12月、第一次世界大戦が終結し戦時生産収縮の時代に入るとともに、アルミも生産過剰となり、米国側は日本への投資を躊躇するようになりました。
アルミ精錬事業をアルコアと日米合弁会社として行う計画は停滞していましたが、水利権獲得の関係上、ひとまず日本側だけでも会社を設立する必要性があり、東洋アルミナム株式会社(東洋軽銀から改称)を正式に現在の第一三共(株)本社内に設立します。資本金は1000万円、代表取締役は高峰譲吉と塩原又策、そのほか役員に岸清一、大橋新太郎、大谷嘉兵衛、植村澄三郎、副島道生、地元出身で親戚筋の木津太郎平、スコットランド留学時代からの旧友石黒五十二、建設担当重役として山田胖が加入しました。
1920年(大正9年)2月 黒部川においても、水利使用権競争が起こっていましたが、政府の斡旋により出願者の協定が成立、東洋アルミナムの事業が最も国家的だということで、猿飛から柳河原までの水利権に許可がおり、翌1921年(大正10年)、東洋アルミナムは資材運搬用鉄道として、黒部鉄道(株)を設立し、鉄道建設を開始、さらに翌年には黒部温泉会社を発足させ、黒薙温泉の権利や宇奈月の土地買収などを行いました。
この頃、渋沢栄一は四回目の米国訪問をしていました。
渋沢は、当時の野田卯太郎逓信大臣より「アルコア社が黒部川水域のアルミニウム産業へ参加するよう説得交渉をしてほしい」と依頼されていました。
渋沢は、ニューヨークで譲吉とデービス社長と面会し、政府のメッセージを伝えましたが、「同氏(デービス)は簡単明確にその決心を余に説明した」と渋沢の日記に記され、翌日、面会の結果を日本に向かって打電しています。
結局、日米の合資会社は成立しませんでしたが、その後、黒部川水域の開発が進行するとともに、さらに上流の水利使用出願も認められ、黒部川上流の水利権は、東洋アルミナムのほぼ独占となりました。しかし、第一次世界大戦後の不況の影響や、譲吉が逝去したこともあり、東洋アルミナムはアルミ製造を断念。譲吉の意志と共に黒部川の水利権及び電源開発の主体は、日本電力の手に引き継がれました。
これ以後の電源開発の歴史は、皆さんのよく知るところとなります。
1927年に運転を開始した黒部川最初の柳河原発電所に続き、1940年には黒部第三発電所が発電を開始しました。この第三発電所は、165度の高熱地帯に隧道を掘削し、300名以上の犠牲者を出し4年の歳月をかけて完成しましたが、人間の限界を示すその苦闘は吉村昭著の「高熱隧道」(1975年、新潮文庫)で劇的に紹介され、人々に大変な感動を与えました。
それに続く、黒部第四発電所は1961年に発電を開始しますが、この歴史的な工事の模様もまた1968年、三船敏郎、石原裕次郎らによる大作、「黒部の太陽」という2時間49分の映画となり、全国民に衝撃を与えました。この発電所は今も「黒四」の愛称で親しまれ、日本人の一つの心のよりどころになっています。
振り返れば、渋沢邸での演説の一節にもあった通り、アルミ産業の事業計画は、日本の農業発展を見据え過燐酸を自費で買い付けて化学肥料会社を創業したケースや、 50年後100年後の日本の科学技術の発展を構想して、理化学研究所の創設を提案したケースと同じだと考えられます。高峰博士のように、日本の進むべき方向を捉え、長期的な視野で国益を考えて事業を起こし続ける人物こそ、現代の日本に必要なのではないでしょうか。
記事作成:平成29年9月23日、文責:事務局