「高峰譲吉邸と京都高等工芸学校」展/北國新聞に掲載されました

京都工芸繊維大学 美術工芸資料館 / 2012年1月23日(月)〜 3月3日(土)

 この度の京都工芸繊維大学における「高峰譲吉邸と京都高等工芸学校」展は、北國新聞にも掲載されています。(記事内容のテキストは下にあります)

北國新聞

「日本」伝える室内装飾
高峰博士 二つの「私設迎賓館」− 京都工芸繊維大の企画展から −

京都の洋画家が尽力

 世界的化学者である高峰譲吉博士が、米国に設けた「私設迎賓館」には、日本美術史を凝縮した第一級の室内装飾が施された。京都市左京区の京都工芸繊維大美術工芸資料館では、同大の前身の1つでめる京都高等工芸学校と高峰博士の関係に光を当てた企画展が開かれている。京都の洋画家たちが精魂を注いだ華やかな装飾から、異国に「日本」を伝えようとした博士の姿が見えてくる。

 企画展は「高峰譲吉邸と京都高等工芸学校」と題し、同校関係者と高峰博士のかかわりを、金沢ふるさと偉人館の所蔵品を含め33点がらたどった。

日米交流の社交場

 高峰博士は、米国での研究を通じて消化酵素タカジアスターゼと止血剤アドレナリンを世に出した後、二つの邸宅を手に入れ、日米交流を進めるための社交場とした。
 一つはニューョーク郊外に建つ別荘の「松楓殿」。1904(明治37)年のセントルイス万博で日本館として日本政府が築いた寝殿造りの建物である。博士が買い取り、万博翌年に移築した。現存している。
 もう一つはニューョークのマンハッタンにあった6階建ての自宅である。博士の没後焼失しており、わずかなモノクロ写真が往時を伝えている。
 二つの邸宅の室内装飾を手掛けたのが、京都高等工芸学校の助教授、牧野克次(1864〜1942年)という人物であった。関西美術院の創設にも加わった洋即家で1906(明治39)年、ニューヨークに渡り、美術学校で水彩画の指導に当たっていた。

琳派の華やかさ

 松楓殿の室内装飾に取り組んだ牧野は、能装束をまとった入物など、近世初期に流行した琳派の様式で壁面に華やかな絵を描き出している。
 室内装飾の果たした役割について、展示を企画した京都工芸繊維大学文化遺産教育研究センターの玉田浩之特任助教は「牧野の室内装飾は、高峰博士の意を受けていた。日本の美を西洋に示そうという当時のナンョナリズムの高まりが感じられる」と話す。
 米国人にも一目で分かる、日本文化の精華を見せたい。高峰博士の思いは、1908(明治41)年から工事を始めたマンハッタンの自宅の室内装郷に一層強くにじむ。当初、1階は奈良、2階は平安、3階は鎌倉と室町、4階は桃山、5階は江戸中期の様式とし、建物そのものを「日本の室内装飾のカタログ」にする構想を持っていた。が、この計画は暮らしやすさを考えて変更に。1、2階を日本式、そのほかを西洋式にする和洋折衷になった。

平等院を範に

 牧野は松楓殿に続き、高峰博士宅の1、2階部分を担当する。模範とした装飾は、藤原家の栄華を伝える平等院鳳凰堂であった。日本が中国のまねから自立したのが平安時代だという、当時の美術史観が背景にあったという。
 牧野は京都高等工芸学校を通じて、平等院の修復に携わった澤部清五郎(1884〜1964年)に画工としての協力を求めた。澤部は同校教授陣の薫陶を受けており、京都の織物会社「川島織物」の仕事を請け負う室内装飾家としての実績が買われたようだ。
 4年に及んだ工事では、日本から天井や違い棚、らんまなどのパーツを取り寄せ、現場で組み立てるという手法を採リ、湿度の低いニューヨークの気候を考え、紙や絹を恨わずに絵画類は油絵の具で描くなど工夫した。
 企画展は、京都に集積された一流のデザインカを借りた高峰博士と、その思いに応えた人々の志を伝える。同大美術資料館の並木誠士館長は「本学初期の教員が、この時代どのように位置づけられていたかを考えるのが企面概の狙い。建築を通じて日本のイメージをどう米国に伝えようとしたかを明らかにしたかった」と話した。
 企画展は3月3日まで開かれる。

(記事:平成24年2月9日/北國新聞)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です