塩原又策と高峰譲吉 その1
高峰譲吉は多くの知己を得て数々の事業を成し遂げ、多くの人々との絆がその成功の礎となりました。
代表的な先輩・協力者としては渋沢栄一、益田孝、北里柴三郎、長井長義らが挙げられます。また、研究や新規事業のパートナーとしては、麹を活用したウィスキー造りの藤木幸助、タカジアスターゼ発見時の清水鉄吉、アドレナリンの抽出・結晶化の上中啓三らが挙がります。
しかし20世紀初めから1922年に亡くなるまで、化学実業家としての充実期を支えたのは三共商店(現:第一三共株式会社)の創業者である塩原又策でしょう。又策は譲吉より23歳も若く、親子でもおかしくない年齢差でしたが、人生においてもビジネスにおいても素晴らしいパートナーでした。今回は、なかなか表に出ることのなかった塩原又策の業績を、2回にわたって振り返ります。
又策は、1877年、長野県出身の商人であった父・又市の家に生まれました。又市は横浜で成功した事業家で、時代を見抜く力を持ち、又策に幼い頃から厳しい商売の教育を施しました。小学校時代の友人に大谷幸之助(茶聖とも呼ばれる実業家、大谷嘉兵衛の養子)がおり、又市と嘉兵衛が父同士親しい関係だったこともあって、又策は外国との貿易に興味を持ち始めました。その後、英語を学ぶために横浜英語学校に進学し、卒業後は嘉兵衛が設立した日本製茶株式会社に18歳で入社しました。
この会社で貿易実務の手ほどきを受けた又策は、わずか2年後に独立することになりますが、この間に西村庄太郎と福井源次郎という重要な友人2名と交流を得ることになります。後に設立する会社の「三共」という名称は、又策、西村、福井の「三名」が「共同出資」したことにちなんでいます。
又策は20歳の時、父と大谷家の協力のもと、横浜刺繍株式会社を設立し、絹織物を外国商館に販売する事業を始めました。大谷嘉兵衛は、塩原にとって終生の恩人であり、彼の事業を強力に後援していました。こうして、塩原は貿易業に関わる事業家としての人生をスタートさせたのです。
又策とタカジアスターゼの最初の出会いは、又策が会社を設立した翌年の明治31年(1898)の春でした。又策は、絹織物販売の業績が予期していたほど振るわず、事業の存続に不安を抱えていました。そこで、日本で新たに事業化できそうなビジネスアイディアの探索を渡米予定の友人・西村に依頼しました。
アメリカ到着後、西村はシカゴ領事・能勢辰五郎の宴席に招かれ、その席でタカジアスターゼの強力な消化力を実際に体験しました。そして、「これは又策の新事業になる!」と直感しました。西村はさっそく能勢領事に頼み、紹介状をもらうとニューヨーク在住の高峰譲吉を訪問し、又策に日本での販売権を与えてもらうよう懇願しました。
当時、譲吉は日本を除く世界中でのタカジアスターゼ販売権を世界最大の製薬会社パーク・デービス社と契約し譲渡していました。日本だけは、日本人の手でこの薬を販売したいと考えていた譲吉に対し能勢領事の紹介状を持った西村の熱意は十分伝わったのでしょう。譲吉はまだ面識もない又策に、日本でタカジアスターゼを試験販売することを了承し、見本を西村に託しました。
帰国した西村からタカジアスターゼの評判を聞いた塩原は、見本で効果を確認した後、タカジアスターゼを輸入販売する事業に踏み出すことを決断しました。塩原がタカジアスターゼの輸入販売を決意し、アメリカ在住の高峰と電信で交渉を重ねた結果、明治31年(1898)12月8日に高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれました。タカジアスターゼの販売権が取得できる見通しを得たことで、年が明けて間もなく又策は西村、福井とともに匿名合資会社・三共商店を設立したのです。
ちなみに、まだタカジアスターゼの事業が成功する前ですが、シカゴ領事館ができた当時の初代領事に譲吉は応募していました。
その時の様子はこちらに詳しく書いてありますので、ぜひ合わせて読んでみてください。
さて、又策は絹織物の販売業という本業の傍ら、タカジアスターゼの販売を開始しました。最初の販売活動は、自宅兼店舗で、絹織物会社の従業員たちの手助けを得てアメリカから輸入したタカジアスターゼの粉末の一定量をはかり、小瓶に詰め込む仕分け作業を行い、10日おきぐらいに横浜から汽車で東京・麹町の特約販売店に届けることが中心でした。また、又策自身が横浜を中心に周辺各県から名古屋、大阪、岡山などを回り、薬局と見れば飛び込んでタカジアスターゼの販売を依頼する日々が続きました。
明治34年(1901)になって又策に転機が訪れました。本業であった絹織物販売が立ち行かず会社整理を行うことになったのです。その一方で、タカジアスターゼの販売は順調に伸びており、ここで本業を切り替えタカジアスターゼに専念することにしたのです。広告や特約販売人の開拓を加速し国内にタカジアスターゼが広がっていくことになりますが、実は又策と譲吉のやり取りは文書や電報のみで直接会う機会はいまだにありませんでした。
明治35年(1902)2月、タカジアスターゼの輸入販売を始めて3年が経ったころ、譲吉は夫人のキャロラインを連れて帰国しました。又策と譲吉は神戸港大桟橋に接岸中の客船・ハンブルク号で初対面することになります。
又策はタカジアスターゼに続き、抽出・結晶化に成功し、製品化されたばかりのアドレナリンの販売権も依頼していましたが、譲吉はアドレナリンの販売権についてはすぐに同意せず、返事を保留していました。高峰は日本滞在中に塩原又策という人物を自分の目で確かめ、その結果に基づいて判断を下すつもりでした。
神戸から横浜へ向かう船の中で、譲吉は又策からこの3年間の活動報告を聞きました。譲吉は又策の熱意ある活動に心を動かされ、アドレナリンの日本での一手販売を許可するとともに、タカジアスターゼの委託販売契約を本格的な一手販売契約に切り替えました。さらに、パーク・デービス社から委託されていた同社製品の日本総代理店として、又策が経営する三共商店を選定しました。
数か月後、アメリカに帰国する譲吉は日本における連絡先として又策の横浜の住所を指定したそうです。両者の間には強い信頼関係が築かれました。三共商店にとって、パーク・デービス社の総代理店に選定されたことは大きなチャンスとなりました。取り扱う品目も増え、拠点も東京に移すことになり、順調に販路を拡大していくことになります。
そんな中、明治37年(1907)には、医学博士北里柴三郎がアメリカのセントルイスで開かれる学会に出席することになり、又策は譲吉の助言に従って、北里に同行しました。そしてこの渡米中に、又策と北里はパーク・デービス社を訪問しました。
当時パーク・デービス社は、北里が発明したジフテリア血清を生産しており、血清療法の世界的権威である博士を顧問に迎えたいと考えていました。譲吉のお膳立てと又策の行動により、この訪問で北里は研究所の顧問に就任することとなり、パーク・デービス社と又策の関係もより深いものとなりました。
そして、この頃から又策は単なる新薬の輸入販売だけではなく製薬業にも着手し、さらには事業の多角化にも乗り出していきます。(第2回に続きます。)
(作成:令和5年4月20日/文責:事務局)