大横綱常陸山と高峰譲吉博士

高峰譲吉博士と北里柴三郎博士の交流が深かったことはご存知でしょうか。
北里博士は高峰博士より1歳年上の同時代人であり、二人とも世界最大(当時)の製薬会社、パーク・デイヴィス社の研究顧問を務めた間柄で、世界を相手に日本を代表した人々です。その北里博士は、横綱常陸山の熱烈な後援者でした。

かねてから近衛篤麿(貴族院議長)より、「日本人にも立派な体格の持ち主がいることを欧米人に知らしめたい」と、外遊の勧めを受けていた常陸山は、明治40年(1907年)遂に渡米を決意します。北里博士の熱心な勧めと手厚いサポートが外遊実現の大きな要因でもありました。

ミシガン湖上のヨットにて(左から塩原又作、北里柴三郎、高峰譲吉)

常陸山 常陸山のアメリカ行きが決まり、北里博士から相撲のよき理解者である高峰博士に、米国到着後の世話を依頼したことが北里研究所発行の図録に記されています。

明治40年8月7日、加賀丸で横浜港を出発した常陸山一行(弟子の力士3名と柔道家の佐竹信四郎・講道館)は、太平洋を渡り8月20日シアトルに上陸しました。
シアトルには一泊のみで、翌朝汽車でニューヨークへと向かった一行を現地で出迎えたのは、高峰博士と青木周造駐米大使でした。常陸山の宿舎は88th streetの日本クラブ、他の同行者は別のホテルであり、一行はしばらくの間ここを拠点とし、最大の目的であったルーズベルト大統領との会見に備えることとなります。

常陸山谷右衛門 / 写真出典:United States Library of Congress

当時の新聞(明治40年10月29日付「中央新聞(東京)」)では、下記のような一文がありました。“最初は青木大使から大統領に拝謁の儀 懇請せるに、いったんは多忙で寸暇なければ、遺憾ながら面会しがたしと謝絶せらるも、大使が再三の懇請により、ついに許されしかば…” 高峰博士や青木大使の苦労のほどが察せられます。

結局、常陸山が最初にホワイトハウスを訪れたのは9月28日の昼過ぎ、表敬訪問でした。
青木大使と高峰博士の介添えで拝謁し、常陸山は横綱になったとき自身の支援者から贈られた黄金造りの太刀を大統領に献上しました。現在、この太刀はスミソニアン博物館に保存されているとのことです。

常陸山がホワイトハウスで土俵入りを披露したのは、それから約二か月後でした。
11月11日、大統領や来賓の前で、土俵入りと実技を紹介し、「大統領が相撲をご覧になった」というニュースはアメリカ中の評判となりました。
常陸山は各方面から招かれ、この後もしばらくアメリカにとどまり、セントルイスやカンザスシティ、さらにはカナダのモントリオールまで足を伸ばしています。そのうちいくつかの興行は高峰博士の紹介でした。

翌年、アメリカを出発した常陸山はヨーロッパを経てロシアに入り、モスクワを経由してシベリア鉄道でウラジオストクに向かいました。ウラジオストクから船旅を経て、新橋駅に帰ってきたのは明治41年2月28日、横浜を出発しておよそ7か月の長旅でした。

明治40年と言えば、高峰博士が行き場のなくなったセントルイス万博の日本館「鳳凰殿」を引き取り、ニューヨーク郊外に「松楓殿」として移築し、社交場として日米親善に活用していた頃です。日本クラブやジャパン・ソサエティーの創立を始め、様々な場面で日米交流を促進した博士ですが、国技の外遊にも一役買っていたことは驚きです。

《参考文献》
常陸山谷右衛門 近代相撲を確立した郷土の角聖 / 式守 伊之助
三共百年史 / 三共株式会社
北里柴三郎 伝染病の征圧は私の使命 / 学校法人 北里研究所 北里柴三郎記念室

(作成:平成27年11月13日/文責:石田・三門)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です