お知らせ(役員の訃報)

当研究会の顧問を務める別府輝彦・東京大学名誉教授が令和5年11月10日(金)にご逝去されました。

別府顧問は、2012年に文化功労者に選出された後、昨年2022年に文化勲章を受章いたしました。一連の研究成果は学界のみならず産業界や科学行政の発展に大きく貢献され、世界中で高く評価されています。今年の6月に行われた研究会の理事会にて、積極的にご発言されていた姿が目に浮かびます。

また、2019年に当研究会の発足10周年の際は、会報に特別寄稿を頂きました。格調高きその原稿とともに、別府顧問を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。

 

「臣・高峰譲吉」の志を想う

高峰譲吉の名前を聞くと心苦しい気持ちが先に立つなどというと、大袈裟どころか、おこがましいと叱られそうだが、まんざら嘘ではない。世界初の酵素製剤であるタカジアスターゼを発明し、はじめてのホルモンとしてアドレナリンを発見、実用化した、生物学の応用から基礎にまたがる高峰の輝かしい業績を知っていながら、講義などでその紹介にじゅうぶん言葉を尽くしていたとは言えないからである。

そんな反省は、「私の趣味はTakamine」と言って憚らない、アメリカ微生物学会の会長も務めたJoan Bennett教授から、お持ちの日本ではもう手に入らない講談社の絵本の一冊「高峰譲吉」を全ページカラーコピーして頂いて、逆輸入したりしている中にますます強くなった。

彼女が高峰に与えた”Japanese father of American biotechnology”というまたとない率直な賛辞から読み取れる、時代と国境を超えた高峰の貢献をじゅうぶん受け止められていない自分に気付かされたのである。

私にとって大き過ぎて掴みきれないところがある、高峰譲吉という歴史的な存在を実感する手がかりを与えてくれたのは、2004年12月から翌年1月にかけて東京の科学博物館で開催された「高峰譲吉生誕150年記念展」だった。

先年まで本研究会の理事長だった故・石田三雄氏が中心になってまとめられたその展覧会は、高峰の巾広い分野にわたる業績をさまざまな展示品でカバーした出色のものだったが、その中に並んでいた、1894年に取得されたタカジアスターゼ米国特許の拡大コピーが目にとまった。

“Be it known that I, Jokichi Takamine, a subject of the Emperor of Japan, residing at Peoria, in the State of Illinois, have invented…”

特許の内容とは全く無関係ではあるが、臣・高峰譲吉が米国での新しい発明をヴィクトリア朝時代の英語(?)で高らかに宣言している冒頭の数行を読んで、なぜともなく胸が熱くなるのを覚えたのである。そこに現れているのはただの狭いナショナリズムとは違う、明治の日本人の多くが抱いていた「和魂洋才」の志が、米国という新天地でこれから開花するのだという、すがすがしい高揚感ではないだろうか?

高峰の幅広い活動を知れば知るほど、そのすべてが時代をはるかに先取りしていたことに気付かされる。単なる研究者、技術者に止まらず、ベンチャー経営者、社会活動家、さらに日米外交の裏方にまでおよぶ幅広いその貢献を、なるべくディテールまできちんと伝えることは、とくにこれからのわが国の若い人達への貴重な刺激になるに違いない。

そして高峰の教えは、さらにその先にまで拡がって行くだろう。むかしむかし聞きかじったシラーの詩に、「未来はためらいながら立ち上がり、現在は矢のように通り過ぎ、過去は永遠に静かである」という一節があった。私はこの歳(ご推察に任せます)になって、「過去は永遠に静かだ」などとは笑止千万と思うようになる一方で、「ためらいながら立ち上がる未来」に対する畏れは一段と強くなった。

昨今のわが国では、マンパワーを海外に頼ろう、頼らざるをえないという議論が切実さを増しているようであるが、かつてアメリカが高峰というもっとも優れた人材をどのように受け入れたかを探ることは、この問題を考える示唆を与えてくれるのではないかと思うがどうであろうか。

2019年3月 顧問/東京大学名誉教授 別府 輝彦

2019年の会員交流会で乾杯の音頭を取られる別府顧問

記事作成:令和5年11月16日、文責:事務局

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です