渋沢栄一と高峰譲吉 その2

「近代日本資本主義の父」として生涯に約500の企業育成と約600の社会公共事業や民間外交に尽力した渋沢栄一は、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として取り上げられ、2024年発行の新紙幣一万円札の肖像画になることが決まっています。改めて脚光を浴びた渋沢について多くの方が勉強しているようです。

そんな中、渋沢と高峰譲吉の関係について色々とご質問やお問合せを頂く機会が増えてきました。当研究会としても興味深いテーマですので、様々な角度から渋沢と高峰の交流を紐解いていきたいと考えています。

今回(前回の記事はこちら)は、アメリカで渋沢栄一と高峰譲吉が二人並んで映っている写真が見つかりましたので、米国滞在中の様子を渋沢の残した日記や随行員の回顧記録を通じてご紹介します。公益財団法人渋沢栄一記念財団は、大変な筆まめだった渋沢栄一が残した日記や記録のみならず、その関連資料も含め蒐集、編纂したデジタル版『渋沢栄一伝記資料』を公開しています。全68巻、約48,000ページにわたる膨大な内容ですが、その中に渋沢と高峰の交友関係や、参加行事など、様々な関わりが記録されています。高峰の手帳は日時と予定が記載されているだけですが、渋沢の手帳(日記)には参加人物や所感などたくさんの情報が記されており、当時の情景を思い浮かべる大変な手助けとなります。

さて下の写真は、Dr. Stan S. Katzが「Art of Peace」という徳川家達(とくがわいえさと、徳川宗家第16代当主)の伝記を執筆する際、様々な外交行事について探究・分析をすすめる中で見つかった1枚です。この写真のどこかに、渋沢と高峰が並んで写っています。お分かりになりますでしょうか。

1915年12月3日、ニューヨークのレストラン、Sherry’sで行われた渋沢男爵歓迎の晩餐会の様子

答え合わせの前に、少しだけ、渡米中の渋沢の日程についてご説明します。

大正4年10月23日(1915年)、この日横浜を出発した渋沢は、11月1日にホノルルに寄港した後、11月8日にサンフランシスコに到着します。

出発日の様子を、本人は以下のように書き記しています。※旧字は、新字に直してあります。

渋沢栄一 日記 大正四年 (渋沢子爵家所蔵)
十月二三日 曇
午前六時起床、入浴シテ朝食ヲ食ス、後二三ノ来人ニ接シ、他ノ依頼ニヨレル揮毫ヲナシ、九時家人ニ告別シテ家ヲ離ル、先ツ徳川公爵邸ヲ訪フテ告別シ、尋テ大隈伯爵ノ邸ヲ訪ヘ少間会話シテ、又中野武営氏ヲ訪ヘ、十時半第一銀行ニ抵リ行員一同ニ別辞ヲ述ヘ、畢テ事務所ニ於テ同族親戚一同ニ告別シ、共ニ午食ヲ食ス、十二時東京停車場ニ抵ル、送別ノ人多数来聚シテ各余カ健康ヲ祝ス、石井外務大臣・河野農商務大臣・加藤男爵・板垣伯等ノ名士モ来リテ別ヲ送ル、十二時半発車横浜着、直ニ汽船春洋丸ニ搭ス、一行ハ武之助・正雄・増田明六・頭本元貞・堀越善重郎・野口弘毅・横山徳次郎・長野生等《(永野生等)》・渡辺利次郎氏ヲ加ヘテ合計十人、外ニ星野錫氏一行七名ニシテ、横浜港ニ送別スルモノ実ニ数千人ニ多キヲ見ル、午後三時解纜シテ、東京湾内ニテ暫時碇泊シ、夜食後進行ヲ始ム、是ニ於テ余等一行皆船中ノ人トナル夜正雄・長野等ト遊戯ス、十二時就寝

出典:『渋沢栄一伝記資料』第33巻 p.18-22

また、サンフランシスコに到着してからは、下記の通りアメリカ各地を相当な強行スケジュールで移動します。

出発日出発地到着日到着地
11月15日サンフランシスコ11月16日シアトル
11月18日シアトル11月22日シカゴ
11月24日シカゴ11月25日ピッツバーグ
11月27日ピッツバーグ11月27日フィラデルフィア
11月28日フィラデルフィア11月29日ボストン
11月30日ボストン11月30日ニューヨーク

ニューヨーク到着の翌日12月1日、現地在住の高峰は米国の実業家を集めた渋沢歓迎の晩餐会を主催します。この日から、毎晩連続で様々な会合に渋沢は招かれます。参加した行事は、随行員の増田明六が詳しく記録していますので、以下に引用します。

竜門雑誌 第三三三号・第六六―六九頁大正五年二月
青淵先生米国旅行記(二)
随行員 増田明六記
○上略
十二月一日 水曜日 晴
午前ゼネラル・エレクトリツク電気会社々長コツフイン氏の来訪を受け、正午トイスレル博士催にかかる国際病院評議員午餐会に出席、午後ゼームス・ヒル氏を訪問し、夜高峰博士主催米国実業家招待晩餐会に出席、雄大なる演説を試みられたり、同晩餐会に列席せられたる同市実業家は、孰れも世界に著名なる人々のみにて、如此実業家を網羅したる晩餐会は、従来嘗て無き処なりと云ふ、博士が先生に対し如何に深き歓迎の意を表したる哉知るべきなり、列席者はセスロー、ロックフヱラー氏令息、シツフ、コツフイン、フオートの諸氏、外五十余名なり。
十二月二日 木曜日 晴
午前中各方面よりの来訪者に接見し、正午正金銀行支店長一宮鈴太郎氏の催されたる同市銀行家招待午餐会に出席、午後紐育準備銀行総裁ストロング氏を訪問の後、ワナメーカー氏を訪問せられ、夜日本協会主催大歓迎晩餐会に列席せられたるが、来会者は五百余名にして、同協会が嘗て催されたる晩餐会中最も盛大なるものなりしと云ふ。
十二月三日 金曜日 晴
午前アメリカン・インターナシヨナル・コーポレーシヨン副社長ストレート氏来訪、会談せられ、正午、前大統領ローズベルト氏邸に於ける午餐会に出席、夜は東西新聞社主催の紐育新聞記者招待晩餐会に出席せられたり。
十二月四日 土曜日 晴
午前中各種の来訪者に接見し、正午ヷンダリツプ氏の招待に応じ、同氏邸に於て午餐の饗を受け、午後高峰博士邸に於てラレー氏と会談夜日本人会晩餐会に出席の後、大演説会に臨まれたり。
十二月五日 日曜日 晴
午前十時グランド・ステーシヨン発車、午後五時二十分ワシントン市に到着、珍田大使其他日本大使館諸氏の出迎を受けられ、ニユー・ウイラード・ホテルに休憩の後、七時珍田大使の歓迎晩餐会に出席、十二時帰宿せらる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』第33巻 p.56-58

この12月1日から5日までのニューヨーク滞在中に記されている行事を抜き出してみます。

日付午後
12月1日国際病院評議員午餐会高峰主催米国実業家招待晩餐会
12月2日ニューヨーク市銀行家招待午餐会日本協会主催大歓迎晩餐会
12月3日ルーズベルト前大統領主催午餐会紐育新聞記者招待晩餐会
(これは東西新聞社主催となっているが、準備に骨を折ったのは、高峰と家永豊吉であった)
12月4日米国人実業家の午餐会高峰邸にてお茶会日本人会主催の晩餐会

ニューヨーク滞在中は、昼と夜に必ず会合が設けられ、ほぼ毎日高峰と渋沢は顔を合わせていることが読み取れます。特に興味深いのが、12月3日のルーズベルト元大統領の午餐会(昼食会)です。12月1日に高峰が主催した、ニューヨークに名だたる実業家たちを集めた晩餐会に、ルーズベルト元大統領は別件があり参加ができませんでした。このことを残念に思ったルーズベルトが、日を改め3日の午後に、自宅に渋沢と高峰を招いたという場面です。ホストであるルーズベルト夫妻と令嬢の他に参加したのは、渋沢と通訳の頭本元貞、高峰、米国紳士、米国夫妻の総勢9名で、小さな集まりでしたが、今回の渡米で最も愉快かつ意味深い会合であったと、中外商業新報で報じられています。

中外商業新報 第一〇六七六号 大正五年一月六日
○ル氏と渋沢男の会談
日本移民を難し更に対支外交及戦後日米の位置を論ず

四日帰朝せる渋沢男が紐育滞在中、同地在住の高峰博士は男爵の為め同地朝野の名士を招き盛大なる迎接宴を開きたるが、当日招待せられたる前大統領ルーズベルト氏は止むなき差支の為め遂に参会するを得ざりしを遺憾とし、ル氏夫妻は渋沢男・高峰博士及同行の頭本元貞氏を其家庭に招き、最も打ち解けたる午餐会を催せり、客は前記三氏と外一米国紳士、主人側は主人夫妻及令嬢と、外に一米国紳士夫妻の九名のみにて、極て小集会なりしも、男爵今次の旅行中に於て最も愉快にして、又意味深き会合なりしと聞く、而して当日の会合は単に一夕の歓会に過ぎざりしとの事なるも、一方は日米親善の大使命を帯び、古稀を越ゆる老躯を提げて遥に米国を訪問せる我民間の代表的人物にして、一は大米国主義の権化にして、彼国武断派の代表的人物なり・・・

出典:『渋沢栄一伝記資料』第33巻 p.60-61

そして、ルーズベルト元大統領の午餐会開催の同日夜、高峰と家永両氏の声掛けによる東西新聞社主催の紐育新聞記者招待晩餐会が開かれました。この晩餐会で撮影された写真が冒頭の写真です。

東京朝日新聞 第一〇五六二号 大正四年一二月六日
△日米親善努力 四日紐育特派員発
▽渋沢男米国記者懇親会
高峰及家永の両氏は、渋沢男の為に、三日夜紐育の重なる新聞雑誌記者・教育家等五十六名を招きて懇親会を開きたるが、ミラー氏(紐育タイムス記者)ヴイラード氏(ポスト紙記者)ジヨンソン氏(トリビユーン記者)コヘー氏(ヘラルド記者)アツポツト氏(アウトルツク記者)シヨウ氏(アメリカン・レヴユウ・オブ・レヴユウス記者)等何れも第一流の記者出席し、加州問題及支那問題を論じたり、列席者は何れも、加州に於ける日本人が差別的待遇を受くるは正当ならずとの意見に一致し、即ち移民の制限と在米日本人の取扱とは別問題として考ふべきものなるべしとの渋沢男の意見に賛成したり、席上ポスト紙記者ヴイラード氏は、米国の海軍の拡張は日米親善に重大の関係あるものなれば、寧ろ此費用の一部を以て太平洋会議を組織し、太平洋上の一島嶼に会合し、東洋対米国間の問題を討議研究するに若ずと述べたるが、之に対して適切なる国防は決して国交に障碍を及ぼすものにあらずとて、反対の議論を試むるものありて、為めに国防問題の喧しき折柄なれば大いに来会者の興味を喚起せり

出典:『渋沢栄一伝記資料』第33巻第33巻 p.59

集合写真をスクリーニングして右上あたりを拡大した写真があります。

上列向かって左から、高峰譲吉、渋沢栄一、珍田捨巳(駐米大使)が並んでいます。文献の中では、色々な場面で渋沢、高峰の名前が並ぶことがありますが、実際の画像で隣り合っていることが確認できるのはとても珍しいです。ちなみに前列右から2番目は、ウイリアム・タフト(第27代アメリカ大統領)です。渋沢の渡米に際し、米国政財界の重要人物に引き合わせるべく、高峰の奮闘ぶりが目に浮かびます。

さて、そんな珍しいツーショットがもう1枚あります。こちらの写真は日本でのひとコマです。

米国の晩餐会から2年後の1917年、高峰は日本に一時帰国しました。
高峰は日米協会の立ち上げ、理化学研究所の創設、そして北陸アルミ産業への着手といった事業を同時並行にすすめており、日本にいる間に精力的な活動を行っています。これらの事業全てにおいて渋沢と高峰は協力体制にありました。

1917(大正6)年、渡米していた高峰が一時帰国した際の招待会にて。出典:日産化学株式会社

またこの年、渋沢と高峰、益田孝(三井物産初代社長)らが発起人となった大日本人造肥料会社(現:日産化学株式会社)が創立30周年を迎えました。いずれかの会合で撮影されたものでしょう、渋沢と高峰が並んで座っています。渋沢は多岐にわたる産業や企業の育成に関わりましたが、こと日米関係において高峰とは強い信頼で結ばれ、お互いを支える良いパートナーだった言えるでしょう。高峰は晩年を故郷の日本で過ごそうと帰国について、渋沢に相談していました。しかし、日米友好関係を維持し発展させるために代わりとなる人物は当時の米国におらず、渋沢から米国に留まって活動してほしいと要請されたといわれています。

高峰はその言葉通り、1922年、生涯を終えるまでアメリカで日米のために活動を続けました。

さかのぼること約100年、国の発展を目指した人と人とのつながりを垣間見ることができる貴重な資料です。

なお、7月22日は高峰博士の命日です。例年通り、青山墓地へお墓参りに行ってきました。

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