高峰博士の命日に墓参 - ゆかりの方の墓地も… –

青山霊園
 今年も高峰博士の命日に、青山霊園へ墓参に行って来ました。

 今年は当研究会の石田理事(当時)が中心となり、3名の会員の方が参加しての墓参でした。さらに博士のお墓ばかりでなく、博士にゆかりのグイド(ギドー)・フルベッキ、小村寿太郎、そしていささか足を伸ばして、護国寺に眠る大隈重信、益田孝のお二方のお墓も墓参して参りました。
青山墓地
青山墓地
 高峰博士のお墓は、毎年の事ですが、既に綺麗に掃除され、花も活けられていました。
 私たちは水でお墓を清めさせていただき、お線香を供えて博士のご冥福をお祈りして、さらに今後の研究会の活動を益々充実させて行く決意をご報告させて頂きました。

(昨年の模様は、> こちら|関連記事 > こちら )

 続いて、グイド(ギドー)・フルベッキのお墓です。
 昨年も取り上げましたが、外人墓地に入って直ぐ左手の、大変分かり易い場所です。実は有名人のお墓と言っても、なかなか見つけられない事が多いのです。
 ここでは、既にフルベッキに関して詳しいエッセイをお書きになっておられる石田氏のお話をお聞きしました。
フルベッキ
フルベッキ

 フルベッキの記事は、近々石田氏が本サイト用に提供して下さるとのことですので、楽しみにお待ちください。

(昨年の模様は、> こちら )

 続いてもう一カ所、明治の外務大臣・小村寿太郎のお墓です。
 こちらも昨年取材しておりますが、石田氏がまだ一度も墓参されていないとの事で、近いこともあり、皆さんで墓参に伺いました。
小村寿太郎
 昨年は墓所の周りの草取りもされておらず、いささか荒れた感じでしたが、今年は綺麗に草が刈られていてさっぱりしていました。

(昨年の模様は、> こちら )

> 青山墓地マップ

護国寺
 寺の入口にある『大本山護國寺の縁起』には、次のように記されています。
『 真言宗 豊山派 大本山 護國寺
 當寺の創建は天和元(1,681)年二月七日、五代将軍徳川綱吉公の生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護國寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護國寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まる。 (後略)』
護国寺
 ここまで足を伸ばした理由は、高峰博士と浅からぬ縁のあった大隈重信と益田孝のお墓がここにあるからです。
 大隈はご存じのように、明治の政治家であり教育者であった人、そして旧三井物産の初代社長・益田は、高峰譲吉が東京人造肥料を立ち上げたときからの盟友とも言うべき人です。
 大隈重信は、長崎の致遠館で先に挙げたグイド(ギドー)・フルベッキから英語を学び、高峰譲吉も共に致遠館で英語を学んでいます。
大隈重信
益田孝

上:大隈重信の墓所、 下:益田孝(益田家)のお墓
 佐賀藩出身の大隈重信については、ここでは詳しく述べませんが、早稲田大学の創始者として日本の教育・文化面での貢献も大きく、1922(大正11)年1月10日に胆石症のため早稲田で死去。お墓はここ護国寺の他、郷里・佐賀市の龍泰寺にもあり、そちらが菩提寺だそうです。

 益田家のお墓には新しい板塔婆がありますので、毎年、供養が続けられている事が分かります。因に墓誌には益田孝の名はなく、代わりに茶人としての号「鈍翁」が戒名の中に記されておりました。

 有名人とは言え、高峰博士と縁のあったグイド(ギドー)・フルベッキ、小村寿太郎、北里柴三郎の3人のお墓が青山霊園にあり、また益田孝と大隈重信の二人が同じ都内の護国寺にあるというのは、歴史を超えたご縁と言いましょうか、不思議な巡り合わせであると、感慨を新たにいたしました。

(記事作成:平成26年7月28日、文責:事務局)

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