科学の先駆者・発明家として
1. 農商務省入省とパイオニア精神のめざめ
2. 肥料工業の先駆け、人造肥料生産
3. 米麹方式によるウイスキー製法の特許が成立、米国へ
4. 消化酵素「タカジアスターゼ」の発見と製品化
5. アドレナリン抽出・結晶化の成功
6. 世界最古のプラスチック・ベークライト事業に着手
7. 北陸アルミ工業発展への貢献
農商務省入省とパイオニア精神のめざめ
1883年、英国留学から帰国した譲吉は、農商務省の役人となり日本の工業化に努めます。複数の局から打診がありましたが、本人の「日本固有の産業や技術を掘り起こし、その分野に最新の化学の知識を応用してみたい」という考えもあり、工務局の技術官僚としてスタートしました。
翌1884年末に、アメリカ南部ニューオーリンズで開催された綿業百年を記念する万国産業博覧会に事務官として派遣され、現地に約1年間滞在します。譲吉はこの万博で展示されていたリン鉱石に着目し、自費で購入し日本に持ち帰ります。これが日本最初の人造肥料会社設立につながっていきます。また譲吉は、万博期間中に下宿したヒッチ家の令嬢キャロラインと婚約します。3年後に再訪して結婚式を挙げ、欧米工業視察旅行とハネムーンを兼ねて、8ヶ月間世界各地を周り、日本に帰国しました。
万博終了後帰国した譲吉は、1886年、農商務省特許局(現在の特許庁)次長となり、高橋是清局長(初代特許庁長官)とともに特許・商標制度の確立に尽力しました。
肥料工業の先駆け 人造肥料生産
ニューオーリンズ万国工業博覧会に展示されていたリン鉱石に着目した譲吉は、展示担当者からその採掘場所を聞き、見学に赴きます。実は、譲吉は英国留学中にニューカッスルの化学製造所で肥料製造を見学したことがあり、万博でピラミッド型に積まれたリン鉱石を見た時、その時の記憶がよみがえったと後に話しています。そしてサウスカロライナ州チャールストンの採掘現場を見学し、リン酸肥料の製造工程を詳しく調査した譲吉は、過リン酸石灰6トン、リン鉱石4トンを自費で買い付け、日本に持ち帰ります。
1887(明治20)年2月、 国立銀行を創設した渋沢栄一と三井財閥の大番頭益田孝に出資を仰いで、日本最初の人造肥料会社として「東京人造肥料会社」(現在の日産化学工業(株))を東京・深川に創立しました。
同年3月、創立が終わるやすぐに益田孝と共に、肥料製造諸機械の購入及び調査視察のためヨーロッパへ出発します。工場は、東京深川の釜屋堀に建設され、翌1888年11月より過リン酸石灰の製造・販売を中心とした事業が開始されました。
途中立ち寄った英国で「(麹による)酒精製造法特許」を出願。帰路、ニューオーリンズに立ち寄り婚約者のキャロラインと再会、挙式を行います。11月、共に日本に帰国。この時、譲吉は33歳でした。
米麹方式によるウイスキー製法の特許が成立、米国へ
譲吉は、農商務省を退官して肥料製造に専念している間にも、日本の伝統的発酵技術の研究を続け、麹菌を利用してアルコールを作るという特許「(麹による)酒精製造法特許」を英国で出願、1887年に設立します。この特許は、これまでのモルトに代わり麹を使用し、麹菌の持つ強い酵素、ジアスターゼを活用して、醸造する方法です。
翌1888年、フランス、ベルギーにて、1889年には米国で同特許が成立。この特許が元で、アメリカ最大手のウイスキー会社、ウイスキートラスト社(イリノイ州ピオリア)より現地にて技術指導をして欲しいと依頼されます。この頃、東京の深川で長男、次男が生まれます。
譲吉は人造肥料会社がようやく軌道に乗り始めた時に、別の事業のため渡米することに躊躇していましたが、世界に向けて実力を奮って欲しいという渋沢栄一の励ましもあり、決意します。1890年、キャロラインと息子二人を連れた譲吉は、サンフランシスコ経由でシカゴへ旅立ちます。ウイスキートラスト社のシカゴ試験場を経て、本拠地のイリノイ州・ピオリアで醸造実験を重ね、実用化の試験を繰り返しました。新しい醸造方法は画期的なものでしたが、現地のウイスキー生産用モルト製造業者は自分たちの職を失う危機感から猛反発を展開し、1893年春、実用化を目前にして実験棟を不審火で焼失してしまいます。混乱の最中、ウイスキートラスト社は株主が分裂し、解散が決定。新方式の醸造方法開発は完全に中止となってしまいます。失意の中、持病の肝臓疾患が再発し、長期入院という悲運にも見舞われ、譲吉の人生設計は大きく頓挫してしまいます。
消化酵素「タカジアスターゼ」の発見と製品化
譲吉は、ウイスキー製造業の前途が真っ暗になった時期でも、色々な研究に専念し、麹菌の持つ強力な酵素、ジアスターゼを別の形で活用できないか探っていました。そして、体内の胃袋でもこの酵素が作用し、食物のでんぷんを消化する働きがあることを突き止め、胃腸薬タカジアスターゼの工業生産法を研究助手の清水鐡吉の協力を得て完成させました。
タカジアスターゼの詳細については別ページに記載いたします。
アドレナリン抽出・結晶化の成功
パーク・デイヴィス社はタカジアスターゼの開発で積み上げられた信頼より、「アドレナリンの純粋化」プロジェクトに参加するよう譲吉に要請しました。そして、1900年の夏、譲吉と研究助手の上中啓三は、1857年にヴュルピアンが高活性成分(後のアドレナリン)の単離(複雑な生物系組織からある物質を純粋に取り出すこと)に挑戦して以来、44年に渡り20人を超える研究者が失敗し続けた「アドレナリンの単離・結晶化」を成し遂げたのです。
アドレナリンの詳細についても別ページにて記載いたします。
世界最古のプラスチック・ベークライト事業
ニューヨーク化学会での譲吉の親しい友人にレオ・ベークランド博士がいました。ベルギーで生まれ、アメリカにやってきた後、写真の印画紙「ベロックス」で成果を上げるとともに、フォルマリンとフェノールを縮合させて世界最初のプラスチック「フェノール樹脂」を創造し、「ベークライト」と名付けました。
これに大変な興味を抱いた譲吉に、親友ベークランド博士は特許料なしで技術を供与し、1911年、日本(三共株式会社)での国産を許可しました。三共ベークライトとして出発した会社は、1932年には「日本ベークライト」社として独立、第二次世界大戦の後1955年、現在の「住友ベークライト(株)」に発展します。
現在フェノール樹脂は、市場で世界トップシェアを持つ住友ベークライト(株)の元で研究開発が進められ、新幹線、自動車、航空機などの重要な部品や半導体材料として幅広く使用されています。
北陸アルミ工業発展への貢献
譲吉は、北陸地方にアルミニウム産業を起こすことを提唱しました。かつて人造肥料の製造会社を日本で初めて創業したことや理化学研究所設立を提唱したことなどと同様に、何十年も先に日本で必要な産業を根付かせようとしたのです。
しかし残念ながら、第一次世界大戦後の不況の影響や、譲吉が計画途中に逝去したこともあり、アルミニウムの製造は中断。黒部川水域電源開発の主体は、譲吉の意志と共に日本電力(現在の関西電力)に引き継がれました。