渋沢栄一と高峰譲吉 その3
これまで渋沢栄一と高峰譲吉の接点について、渋沢栄一と高峰譲吉 その1、渋沢栄一と高峰譲吉 その2と2回に渡り記事を公開してきましたが、今回は
二人の初めての出会いについて振り返ります。
1922年、高峰が逝去した後の追悼会にて、渋沢自身が二人の邂逅について語っています。
初めての出会いは明治19年、神戸、高峰32歳、渋沢46歳の時でした。高峰は1854年生まれ、渋沢は1840年生まれですから、14歳の年の開きがあります。
この時高峰は、米国・ニューオーリンズから帰国した後、農商務省工務局勧工課と新設の専売特許所(後の特許局、特許庁)の兼務を命じられ、神戸・灘に酒造業調査に来ていました。
また、渋沢は12月16日に開催される京都織物株式会社の発起人会に出席するため、12月8日に東京を出発し、京阪地方を巡回して12月29日に帰京したと記録が残されています。
高峰は、農商務省の仕事と並行して日本の農業発展のためにも活動していました。英国留学中に人造肥料工場で実習を行った経験に加え、万国博事務官として派遣された米国で燐鉱石と巡り合ったことがきっかけで、チャールストンにて10トンもの燐鉱石や燐酸肥料を自費で買い付けて帰国しており、人造肥料を日本に根付かせるために実地試験をはじめとする様々な働きかけを行っていました。
同じ宿に渋沢が宿泊していることを知った高峰は、渋沢のもとを訪ねたそうです。そして農業に対する想いを、すでに経済界の大物であった渋沢に対して初見でぶつけ、説得を試みたのです。
筆まめな渋沢のことですから、高峰に会った日のことは記録されているはずと思い、12月8日から29日までの日記を探してみましたが、残念ながら「渋沢栄一伝記資料」には、
「栄一日記、明治十九年ハ最後ガ京阪巡回紀行ニシテ、十九年十二月八日午前六時四十分ノ深川邸出発ヨリ始マリ、同月十七日京都在ニテ了リ其後ノ記事ヲ欠ク。」
と記され、17日までの日記しか残っていませんでした。また14日の文中に、以下のようにありましたので、恐らくは18日夜に、神戸の宿で高峰と渋沢が出会ったのではないかと推測されます。
「十四日 雨 ~前略~ 神戸店田中ハ、来ル十七・八日頃同地ヘ巡回ノ事ヲ約シテ帰店ス ~後略~」
ちなみにこの神戸店とは、1872年に誕生した日本最初の銀行・第一国立銀行の神戸支店のことで、東京本店(海運橋兜町)の他に大阪(高麗橋筋四町目)、神戸(弁天ノ浜)、横浜(海岸通一町目)に支店が開行しました。
以下、渋沢の追悼演説を引用します。
追悼演説
大正十一年十一月十日帝国ホテルに於て帰朝滞京中の博士の遺族を請じて開催せる追悼会に於ける、演説筆記を左に掲く。
発起人総代 子爵 渋沢栄一
(上略)
想ひ起しますと、明治十九年、神戸に於て私は初めて博士と親しくしたやうに記憶を致します。それは博士が酒に火を入れる為に清酒を悪くする、色を損する、之を防ぐ方法を講ずると云ふことで、灘方面の酒屋と色々話をなさる為に、御出張であつたのであります。私は又銀行の用向で神戸に出て居りまして、偶然一夕、色々方面違ひの談話を致しました。玆に初めて人造肥料の必要を唱へられました。
(中略)
幸にお前は工業に多少の経験があるから、大に力を尽して見たら宜からうと云ふ勧告を受けまして、段々の説明に深く感じまして、東京に帰りまして益田孝君に御相談をして、即ち明治二十年に人造肥料会社設立のことを提議したのでございます。
(後略)
出典:高峰博士 塩原又策編
その後について、簡単に書いておきます。
神戸の宿で出会った二人は意気投合し、数日後には東京の国立第一銀行に実業家を集め、会社設立の流れが決定、そして翌年、東京人造肥料会社を設立します。社長は渋沢、高峰は技術長兼製造部長となりました。
しかしながら、設立3年後の1890年には、経営が軌道に乗る前に高峰は米国の醸造会社に移籍してしまいます。当初は、無責任だと憤慨していた渋沢も、「これから先、人造肥料会社は必ず軌道に乗り発展する」、「日本人の発明を米国の会社が実用化しようという話は未だかつてないことであり、高峰を送りだしてやろう」という益田孝の説得により、大局から見て快く渡米させてやろうと翻意しました。
高峰が去った後も、渋沢は人造肥料会社の経営に積極的に参加していたことを示すエピソードがあります。
1894年8月、宮崎県の日南市付近で恒藤規隆が日本初の国産燐鉱石を発見します。恒藤は、高峰と同じく農商務省の所属で、地質調査を専門としていました。この報せを耳にした渋沢は、早速馬車を走らせ地質調査所土性課の恒藤を訪問し、詳しい話を聞き賞賛しました。
燐酸なるものは我国に産地なく、一方肥料原料としては絶対必要なものであるから、日向沿岸の小産地に限らず他にも産出するとすれば、それは国家にとっても重大な幸福である
出典:予と燐礦の探検 恒藤規隆 1936
紆余曲折を経て、創業以来の肥料販売量が10年間で約100倍になったという記録があります。また、10年目の株主総会において、渋沢栄一、益田孝、高峰譲吉を含む6名に対して、改めて功労者として表彰及び報酬品の寄贈が株主の満場一致で賛成されたそうです。
~前略~
斯くて当社製品の需要はその後累進的に増加すると共に、業績も向上して、明治二十七年下期には、一割の配当をなすに至つた。而して翌二十八年下期の如きは、註文高に対して、約三割の製品不足と云ふ状態で、こゝに会社は事業拡張の必要に迫られたのである。曾ては解散の危機にも瀕した当社は、明治二十八年七月二十五日の株主総会に於て資本金を最初の弐拾五万円に増資し、後述の硫酸工場を増設するといふ社況になつた。これに先立ち二十七年七月、和田支配人は多病の故を以て其の職を退かれたのである。
当社創業以来十年間の肥料販売数量を示せば次の通りで、十年間に約百倍に達したのである。年次 販売数量
明治二十一年 四九千貫
同 二十二年 一二四
同 二十三年 一〇四
同 二十四年 四一六
同 二十五年 四九四
同 二十六年 四一九
同 二十七年 八四七
同 二十八年 一、〇七〇
同 二十九年 一、八七〇
同 三十年 二、九五九
同 三十一年 四、三七二
~中略~
三十年七月の株主総会に於て、監査役田島信夫氏は、当社が創立以来幾多の艱難によく耐へて今日の隆盛を致したことは、偏に当初就任されたる委員其他諸氏の措置宜しきを得たるの結果に外ならざるに由り、その功労に対し相当の酬ひを為し度き旨を発議し、出席株主に諮つたところ株主は満場一致を以てこれに賛成した。而して浅野総一郎・田島信夫・堀江助保・谷敬三・諸井時三郎の五氏を取調委員に推薦し、翌三十一年一月の株主総会に於て、調査の結果を総会に報告し功労者氏名、寄贈すべき報酬品等、異議なく可決されたのであつた。
その氏名は左の通りである。
渋沢栄一氏 渋沢喜作氏
益田孝氏 馬越恭平氏
高峰譲吉氏 和田格太郎氏~後略~
出典:大日本人造肥料株式会社五十年史
こうして一つの出会いから、日本の農業における重要な事業が発展することとなりました。以後、高峰の提案が事業化する際には、渋沢のサポートは不可欠となります。三共株式会社の役員推薦や、黒部電源開発への取り組み、また、理化学研究所設立など、分野は多岐にわたります。実業に関する手助けを受けた高峰は、渋沢の海外人脈開拓で恩返しをしていたのではないでしょうか。「渋沢栄一と高峰譲吉 その2」でも記しましたが、特に渋沢が渡米した際の、現地における高峰の尽力は目を見張るものがあります。こうした二人の協力関係は終生続いたようです。
今後も興味深いエピソードを取り上げ、紹介していきたいと思います。
出典及び参考文献:
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 渋沢栄一記念財団
高峰博士 塩原又策編(1926)
予と燐礦の探検 恒藤規隆(1936)
大日本人造肥料株式会社五十年史(1936)
(文責:事務局、記事作成:令和3年4月26日)