高峰譲吉をめぐる逸話(その3)

石田 三雄(農学博士)/ 当NPO法人 元・理事長(故人)

   1.「日本政府の要請に応じていた晩年の高峰さん」
  > 2.世界を驚かせた130年前の日本の教育水準――それに魅せられたハーン

1.「日本政府の要請に応じていた晩年の高峰さん」

 高峰譲吉博士の晩年の活動について調べていた時のことである。偶然、1909(明治42)年に開催された国際学会に出席して貰いたいという日本政府からの要請 (図1-1、1-2) を受けて、ロンドンに赴いていることを知った。この会議は、第7回国際応用化学会議(Seventh International Congress of Applied Chemistry London, May 27-June 2nd, 1909)である。

要請

[図1-1] 文部省は高峰を嘱託にしてロンドンの国際学会への出席を申請している。高峰はロンドン滞在中で旅費支給は不要と付記されている(国立公文書館にて複写)。

出席要請書

[図1-2] ロンドンの国際学会への日本政府の出席要請書(国立公文書館にて複写)

 高峰の助手でアドレナリンを副腎から抽出し、結晶化させた上中啓三の談話記録 (1-1) が示すように、渡米後、科学実業に専念した高峰はほとんど学会活動をしなかったので、この国際学会への参加は、すぐにはちょっと納得のゆかないものがあった。そこで、当時の我が国の状況を折に触れて調べて当時を想像していたが、多分こういう国情であったから、このような要請があったのだろうと、自分なりの結論を得た。

 当時の日本政府は、日露戦争(1904〜05)で勝利したと国民に報告したが、ロシアから賠償金も取れず、国内外で大量に発行した戦時国債の償還(約25億円の借財に対し年間約1億円の利払い。現時点の貨幣価値を考慮すると、ほぼ2,000倍として、利子だけで2千億円相当)に苦しむような国情であった。事実、天皇はこの前年(1908)の秋、明治の3大詔書の一つ戊申(ぼしん)詔書を出し、国民の勤倹、勉励を直接訴えている。

 東洋の小さな島国が超大国ロシアに負けなかったは言え、日露戦後は日本の文化、文明のレベルを顕示するために国際社会に出かけて行くお金も無い状態であったのだろう。一例として渡航費を見てみると、ニューヨークからリバプール(Livapool)への処女航海は6日間であったという記録があり、一方1880年に高峰が英国留学した時は、横浜を2月9日に出港し、ロンドン港に3月23日に到着し、40日以上かかっている。日数は勿論、運賃も比較にならない大差があった。
 祖国日本のことを愛し、常に心配していた高峰は、この要請を心よく受諾したに違いない。

 この応用化学国際会議に派遣された米国科学者団体の、全員の名前の記録が残されている (1-2)。その中で、団長の次に記載されているのは、ジョンズ・ホプキンス大学の教授のエイベル博士(Dr. J. J. Abel )である。エイベルは、アドレナリンの誘導体(活性無し)を副腎活性物質として学会報告し、それにエピネフリンという名称を付けていた。
 ロンドンの学会の会場で、高峰はアドレナリンの結晶化成功から9年後に、副腎髄質ホルモンの単離結晶化で競ったエイベルと出会う機会があったのである。お互いを尊敬していた二人は、きっと笑顔で往時を振り返ったに違いない。

 (1-1) 自伝対談(第2 回)『薬局の領域』7(9): 46―52(1958)
 (1-2) Science 29 (No. 735) ,1909, page174-176
(歴史的記述につき敬称を略させていただきました)

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2.世界を驚かせた130年前の日本の教育水準――それに魅せられたハーン

 昨年の暮れ近い頃、ある週刊誌 (2-1) に、高峰譲吉博士の伝記の一部として、1884年に棉業100年記念世界産業万博が米国南部ニューオーリンズで開催されたことが紹介されていて、そこに次のような文章があった。「その中で日本の展示の貧弱さは、目も当てられないものだった。」という断定的な記述である。しかし、それを裏付ける文献は引用されていなかった。
 まず、事実は正反対で、日本の展示は、世界を驚愕させるような高度な内容で、明治人の大きな功績を誇りに感じるものであったことを申し上げておきたい。それについて順を追って説明したい。

 英国留学から帰国した翌1884(明治17)年、農商務省勤務の高峰はこの産業万博での日本の展示責任者として、服部一三、玉利喜蔵と共に米国南部のニューオーリンズに派遣された。
 その時の万博の展示表彰審査委員長フェルデイナンド・ラスカー博士の書き残した貴重な記録 (2-1) があるので、それを以下にご紹介したい。

博覧会
綿業百年記念博覧会(1884年12月〜85年5月)会場全啓(金沢市「ふるさと偉人館」呈供の高峰譲吉生誕150周年記念展パネル)

出席要請書

左大臣有栖川宮熾仁親王への高峰譲吉に対する万博出張申請書(1884年5月19日付) / (国立公文書館にて複写)

 この記録はヴェネズエラから始まるのだが、全体の三分の一くらいのところに日本からの展示の視察記録が記載されている。それは全体の行数の24.7%に相当し、Lascar 表彰審査委員長が如何に日本の展示に圧倒されたかを示している。その重要部分を逐語翻訳するとその通りである。

 「メキシコの展示の近くに、我々はChina(中国), Siam(タイ) 及びJapanの展示を発見した。前者二ヶ国には我々の興味を引くものは何もなかった。しかし日本は我々の表現力の無さを悔やむようなスポットであった。というのは、彼らの展示は教育の専門家にとって大きな興味を呼ぶようなレベルで、このような文化と進歩が西欧の多くの国家よりも迅速であったことを多くの点で我々に明瞭に示した。以下は特に我々の興味を引いたものであった。未精製樟脳,蒸留樟脳油、油状薄荷、および日本政府の印刷局につながる研究所で製造された色素と薬品。人造肥料の中に我々は、江戸の北方から来ている乾燥鰊(にしん)を見つけた。
 日本のコミッショナーには、大変興味があった。高峰氏は化学の先生で、服部先生のご厚意には大変感謝しているが、同氏は教育に関することは完璧に熟知されていた。同氏を教育関連展示の表彰のための審査委員に指名したことは、全員が良かったと認識している。どんな取るに足らない質問に対しても積極的かつ丁寧に受け答えする彼等日本のコミッショナーは、この地のインテリ層の評判となった。

 Keockucki Siegakacie(訳者理解不能)作成の日本製の物理学用および化学用の実験器具は、小奇麗なことと科学的な仕組みにおいて、我々が他の展示で見たものに対してライバルとなるものであった。非常に独創性があり抜きんでて巧妙であると我々が感動したものは、日本の地方の学校で化学の授業に用いられている方法の独創的なイラストで、その授業に実験をするための器具は用いられていない。(意味不明語があり中略)まとまった展示セットの中には、使用済みの陶器の花瓶から作ったブンゼン電池(脚注参照)があった。(意味不明語があり中略)。我々は、ガスを発光させる装置、陶器製水差しからなる蒸留装置、導火線、なども見た。更に、巧妙に組み立てられたリービッヒ・クーラー、竹製の試験管立て、使用済み酒瓶から作った秤量瓶、竹製の天秤、および古い菓子箱の一部を使った物差しも見た。
 日本の大学で使用している書物の中に、日本の数種の麻酔性の薬草とその化学成分について記述したJ. F. Eyckmanの教科書を我々は見つけた。」

 この様な世界が認める見事な展示品と、服部一三氏と共に、どんなつまらないと思える質問にさえも丁寧に英国仕込みの英語(King’s English)で答えて高い評判を勝ち取っていた高峰が、万博中に晩餐に招待してくれた地元の名士ヒッチ(Hitch)家全員――おそらくJapanという国があるのは知っていたとしても、アジアの地図で見つけるのも難しいような小さい島国については何も知らなかったであろう――から歓迎されていたのは当然であったろう。妙齢な娘キャロライン(Caroline Hitch)にとっても、心から尊敬する存在となるのは当然の成り行きであったと考えても間違いないと筆者は考える。やがて二人は婚約する。
 この時高峰から手渡された「ジアスターゼ」のサンプルの澱粉分解力の圧倒的な強さに、Lascar 表彰審査委員長が驚嘆して詳しく書き残した評価については、拙著『タカジアスターゼの原点』(2-1) をお読みいただければ幸いである。

 高峰と一緒に大活躍した3歳年上の服部一三について簡潔に紹介しておきたい。長州藩出身の服部は、長崎留学で英語を学び、渡米してラトガース大学・理学部のマスターコースを終了しているので、米語(American English)で流暢かつ丁寧に観覧者に説明していたのであろう。派遣申請時の服部の所属は農商務省であるが、現地では文部事務官として日本の教育についてのPRに大きな功績を残している。
 余談ではあるが、今から130年前の万博での日本の代表者が、英国と米国の違いはあるが共に留学して理系のコースを収めているのは、当時の国家の大方針とは無縁ではなかったのであろう。

服部一三●服部一三(1851〜1929)の略歴
長州藩出身、明治の官僚(文部、内務)米国ラトガース大学留学
東大法理文学部副総理時代、世界で最初に誕生した地震学会
(1880年明治13)の初代会長就任。副会長はミルン。
◎岩手県知事:1891(明治24)〜1898(明治31)…7年3カ月
◎広島県知事:1898(明治31)〜1898(明治31)…5カ月
◎長崎県知事:1898(明治31)〜1900(明治33)…1年10カ月
◎兵庫県知事:1900(明治33)〜1916(大正5)…15年6カ月
ゴルフ普及のパイオニア:日本初のゴルフ場(神戸六甲)の日本初のゴルフ大会で記念ドライブを打った(明治36年5月24日)

服部一三(Ichizo Hattori)『ウィキペディア(Wikipedia)』

 開催期間中に開かれた各種会合での服部のスピーチ原稿が残されているが、まず冒頭の講演では、1,000年以上前からの日本の教育制度の歴史と、近代日本での教育改革とを丁寧に紹介している。
スピーチ原稿
万博冒頭での服部一三の講演記録(2-4)

 次に服部が行った講演は日本の公立学校制度に関する詳細な報告で、現在読んでも大変詳細で内容の濃いものである。
講演記録
「日本の公立学校制度」に関する服部の講演記録(2-4)

 この原稿を読んで感動するのは、その2行目を拡大した下図が示すように、すでに明治15〜6(1882〜1883)年に、日本にこれ程精確な人口統計があったということである。それは、司馬遼太郎の表現を拝借すれば、正に「まことに小さな国が、精一杯努力して、開花期を迎えよう」としていたことを示している。
講演記録
 日本の新政府はこの万博を相当重視したので、教育関係の展示品は、なんと600点を上回っており、服部は、アメリカからの正式依頼が遅かったので、極めて短い期間にかき集めた苦労を書き残しているが、わざわざ万博のために作ったのではないからリアリテイのある展示品だと逆に訴えている。
展示品リスト
引用文献(2-4)の記事内容から筆者が作表

 雑誌記者としてこの博覧会の日本館を取材していたラフカデイオ・ハーンが、展示品と服部の説明に大きな影響を受け、日本を“発見”したのは当然の推移だったのだろう。
 この展示品の中に音楽関係として、『古代ギリシャ音楽との関連より見たる日本音楽の歴史』というタイトルの英語の論文があった。それは、ハーンが読んだ最初の英語で書かれた日本に関する論文であった。その著者の伊沢修二(1851〜1912)は、明治の初等教育を作り上げた優秀な官僚で、桜の銘木で有名な長野県高遠の下級武士の長男であるが、1867(慶応3)年に東京に出て、ジョン万次郎に英語を習い、1870(明治3)年に文部省からアメリカに送り出された3人の留学生の1人である。マサチューセッツの師範学校でメーソンに音楽を習い、1年留学延長の許可を得てハーヴァード大学理学部でも勉強している。その頃ハーヴァードの法学部では、小村寿太郎と金子堅太郎が学んでいた。帰国後メーソンを呼び寄せ、後に「小学唱歌集」を編纂している。

 前後したが、服部の経歴を見ると、彼は相当早くアメリカ、ニュージャージー州のラトガース大学に留学しており、万博から6年後ハーンが横浜にやって来た時は、文部省普通学務局長の職にあり、ハーンの松江中学の英語教師としての就職に一肌脱ぐにはもってこいの地位に就いていた。その後の経歴は、彼がエリート官僚の生涯を送ったことを示しているが、最後には兵庫県知事を相当長く勤めている。彼は、留学中にゴルフをおぼえたのではないだろうか。
 ニューオーリンズでの、この日本の素晴らしい展示と、それを説明した服部一三との出会いが無くては、ラフカデイオ・ハーンの来日は無く、今も小泉八雲として妻セツと並んで東京の雑司ヶ谷墓地に眠っているという歴史も無かったのではと筆者は思っている。

(歴史記述として敬称を略させていただいた)

《引用文献》
 (2-1) 2013年11月23日発行『週刊現代』の124ページからの「蕩尽の快楽」
 (2-2) Ferdinand Lascar 、Western Druggist Vol. 7, p.161-163 (1885) New Orleans Letter, II、The World’s Exposition.
 (2-3) 『タカジアスターゼの原点』 (2013. 11. 29)
 (2-4)『Special report by the Bureau of Education. Educational exhibits and conventions at the World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition, New Orleans, 1884-’85』Government printing office(1886)

《脚注》
電池The Bunsen cell is a zinc-carbon primary cell (colloquially called a “battery”) composed of a zinc anode in dilute sulfuric acid separated by a porous pot from a carbon cathode in nitric or chromic acid.(From Wikipedia, the free encyclopedia)

(作成:平成26年10月20日/文責:石田三雄)

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