渋沢栄一と高峰譲吉 その5(最終回)

渋沢栄一が主人公の2021年大河ドラマ「青天を衝け」が終了し、2022年は北条義時が主人公の「鎌倉殿の13人」が始まっています。
これまで4回(その1その2その3その4)に渡り、高峰譲吉と渋沢栄一の知られざる関わりについて紹介してまいりましたが、今回は第5回、最終回となります。

今回は一つの事柄を取り上げるのではなく、「1917年の二人の活動」に焦点を当てます。
というのも、アメリカを拠点としていた譲吉はこの年に一時帰国しており、国内で精力的に活動していました。

①理化学研究所の発足

遡ること1913(大正2)年、譲吉は渋沢栄一に国民的化学研究所の必要性を提唱しました。
当時、米国や欧州では相次いで大型研究所が設立されていたのです。
譲吉は、「これからの世界は、理化学工業の時代になる。わが国も理化学工業によって国の産業を興そうとするなら、基礎となる純正理化学の研究所を設立する必要がある」と訴え、すぐさま渋沢栄一はこのアイディアに賛同しました。

渋沢は、1913年6月23日、東京・築地精養軒に実業界の名士や農商務大臣、官僚らを招いて譲吉の大演説会を開き、譲吉は機械工業の時代から理化学工業の時代に大転換を遂げつつある世界の趨勢を説き、日本の基礎科学の振興を訴えました。

紆余曲折を経て、1915(大正4)年6月8日、第36回帝国議会において「化学研究所設置に関する建議」が採決。
化学と物理学の両分野を包含した「理化学研究所」を設立するために更に議論が深まり、譲吉が帰国中の1917年3月20日、ついに理化学研究所はその歴史をスタートさせました。

譲吉の訴えを渋沢がしっかりと受け止め、日本全体が動いたケースです。
理化学研究所の沿革には創立までの詳しい歩みと共に二人の肖像画が並んでいます。

 

②北陸にアルミ産業の立ち上げ

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まると、日本の工業が急速に発展、それに伴い電力需要が急増しました。
各電力会社が競って水力開発を計画し、全国の主要河川に水力使用の出願が殺到したのです。

そんな中、譲吉はひときわ壮大な計画を打ち立てます。その内容は、当時世界最大のアルミニウム精錬・加工会社「アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカ」(現在のアルコア社)と提携し、日米合弁会社を設立の上、南米ギアナからボーキサイトを輸入、日本国内で10万キロワットの電力を準備するといったものでした。

譲吉は塩原又策と共にこの合弁会社の創立と黒部川の電源開発を進めるため、逓信省電気局技師・山田胖を引き抜いて、計画を進めました。
1917年に本格的に調査が始まり、翌1918年4月に渋沢栄一をはじめ、実業界の仲間たちが参画した東洋アルミナム株式会社が設立しました。

詳しくは、「黒部川電源開発100周年 高峰譲吉博士とアルミ産業」をご覧ください。

 

③日米協会の発足

この頃、欧米では黄禍論が台頭しアジア人に対する蔑視が広がっていましたが、日米の友好促進を目的として1917年2月22日に日米協会が発足しました。

初代会長は金子堅太郎男爵で、渋沢と譲吉は名誉副会長となりました。1907年に譲吉がニューヨークで設立した日本協会(ジャパン・ソサエティ)がモデルとなっています。
発足に先立ち同年2月16日に、金子、渋沢、高峰の連名で日米協会発起会の勧誘状を政財官の米国関係者たち約40名に送付しています。

拝啓、愈御清祥奉賀候、陳者近来日米間に従来よりも一層接近して親交を温めんことを希望する傾向を増長しつつあるは誠に御同慶の至りに奉存候、就而は此際将来相互の関係を益敦厚ならしむる目的を以て有力なる会を組織し度旨在留代表的米国人より交渉有之候に付、右御協議の為め来る二十二日午後四時華族会館に於て、米人代表者弐拾名程、邦人約同数の者相会し相談致度候間、御繁忙中恐縮に候得共御来臨被下度此段御案内申上候、尤も当日は一時間乃至一間半にて協議を約了可致予定に御座候 敬具

二月十六日

子爵 金子堅太郎
男爵 渋沢栄一
高峰譲吉

 

この年はいくつもの活動が同時並行的に進んでおり、そこには譲吉と渋沢をはじめとする同時代に活躍した強い人脈を感じることができます。
これまでに紹介した譲吉と渋沢による「日本の産業発展」や「国際交流促進」など様々な分野における協力の証は、現在も連綿と続いています。

渋沢栄一の眠る谷中霊園に墓参

年度末の3月28日、谷中霊園の渋沢家墓所に事務局一同でお墓参りに行きました。
旧称の谷中墓地と呼ばれることもあり、歴史上の人物や著名人が多く眠っていることでも知られています。この日は桜が見ごろで平日にも関わらず、多くの方が散策しており賑わいを感じました。

渋沢家の墓所の地番は「乙11号1側」、区画はとても大きく大きな枝を広げるタブノキがあります。
中央に雅号「青淵」が刻まれた渋沢栄一の墓石があり、右隣には先妻の千代、左隣には後妻の兼子の墓石が建っています。主君であった徳川慶喜の墓から程近く、渋沢の墓石は主君の方を向いています。

  • 渋沢栄一の墓石、雅号の青淵が刻まれている

また、谷中霊園にはドイツ人化学者ヘルマン・リッテルの顕彰碑もあります。
リッテルは、1869年に先進的な加賀藩に外国人教師として招聘された後、大阪理学所に採用されました。理学所ではドイツの最新化学について英語で熱心に講義を行い、教え子の中には高峰譲吉がいたのです。
リッテルは理論的に高い水準にありながら実用性を重んじた講義を行い、高潔な性格も合わせて生徒から敬愛されていました。リッテルの墓所は横浜外人墓地にありますが、教え子たちが近代化学教育の発展における功績を顕彰して谷中に碑を建てたそうです。

濁逸國學士利淂耳君碑:題額 木戸孝允

リッテルについては、「明治維新と高峰譲吉 ~近代日本の黎明期と化学への目覚め~」で詳しく触れています。
それぞれにお参りを済ませた後、高峰譲吉を取り巻く当時の人間模様に思いを馳せながら散会となりました。

記事作成:令和4年4月21日、文責:事務局

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です