高峰譲吉が生涯に起ち上げた会社や事業は現在も継続しているものがほとんどです。
ここでは、それぞれの現在の様子についてご紹介いたします。

設立に関わった会社

日産化学株式会社

1887(明治20)年2月、高峰譲吉は国立銀行を創設した渋沢栄一と三井財閥の大番頭益田孝に出資を仰いで、日本最初の人造肥料会社として「東京人造肥料会社」を創立。現在は、化学肥料商品のほか農薬、医薬品なども手掛ける東証1部上場の日産化学株式会社となっている。

1900年頃の深川・釜屋堀、東京人造肥料会社(現・日産化学株式会社)

参照:渋沢栄一と高峰譲吉 その3

第一三共株式会社

新しい事業を模索していた若者・塩原又策が1898年に高峰譲吉からタカジアスターゼの輸入販売権を獲得したところから、会社の歴史が始まる。翌1899年(明治32年)に合資会社三共商店を設立。その後、1902年に国内におけるタカジアスターゼ、アドレナリンの独占販売権、1911年には鈴木梅太郎が発見したオリザニンの輸入販売権を獲得し、1913年(大正2年)に三共株式会社を設立。高峰譲吉を初代社長に迎える。現在は日本の医薬品業界で4位の大企業となっている。

1902年に東京に進出。南茅場町の三共商店薬品部

Takamine Laboratory Inc.

1914年ニューヨークで世界最古の酵素メーカーとして誕生したタカミネ・ラボラトリーは、1917年にニュージャージー州クリフトンに本社と工場を移設。Danisco等の買収を経て、現在は世界第4位の化学メーカー・デュポンの傘下となっている。

1917年ニュージャージー州クリフトンに設立したTakamine Laboraory.Inc

住友ベークライト株式会社

ニューヨーク化学会での高峰譲吉の親しい友人、レオ・ベークランド博士は、フォルマリンとフェノールを縮合させて世界最初のプラスチック「フェノール樹脂」を創造し、「ベークライト」と名付けます。これに大変な興味を抱いた譲吉に、親友ベークランド博士は特許料なしで技術を供与、1911年、日本(三共株式会社)での国産を許可しました。三共ベークライトとして出発した会社は、1932年には「日本ベークライト社」として独立、第二次世界大戦の後1955年、現在の「住友ベークライト株式会社」に発展。 住友ベークライト(株)はフェノール樹脂市場で世界トップシェアを持ち、研究開発を進め、新幹線、自動車、航空機などの重要な部品や半導体材料として幅広く使用されています。

 

関わった事業

理化学研究所設立の提案

1913年(大正2年) 高峰譲吉が「国民科学研究所」構想を唱え、築地精養軒にて演説。渋沢栄一を始めとする政財界がその構想について議論を行い、1915年(大正4年) 第36回帝国議会にて、衆議院・貴族院の本会議で「理化学研究所創立」が決議。1917年(大正6年) 渋沢栄一を設立者総代として財団法人理化学研究所が創立しました。国内唯一の自然科学系総合研究所で、物理学、工学、化学、数理・情報科学、計算科学、生物学、医科学などに及ぶ広い分野で研究を進めています。

参照:「高峰譲吉博士による理化学研究所の創設理念」「特別番組「科学技術立国への挑戦 〜理化学研究所の100年を通して〜」が公開されました!」

北陸の電源開発とアルミニウム産業の提案

高峰譲吉は、黒部の電源開発、そして富山県のアルミニウム工業発展にも大きく寄与していました。
当時の日本には、アルミニウム産業がまだ根付いていませんでしたが、1917(大正6)年の東京での日米協会の設立とともに、日本における産業発展と日米共同事業による日米親善を目的とし、黒部川の電源開発に着目しました。起ち上げた東洋アルミナム株式会社は、現在の関西電力株式会社に引き継がれています。

1918(大正7)年5月21日、地元の新聞・高岡新報に3回にわたり掲載された高峰の寄稿文

「黒四ダム」出典:(公社)とやま観光推進機構

 

厚生労働省を救う

1913年、行政改革・経費削減の一環で「内務省衛生局」という部門が、「衛生課」に格下げにするという提案が提出されました。この時帰国していた高峰は、内務大臣の原敬、大蔵大臣の高橋是清に格下げ中止の直談判に行きます。 高橋是清は、かつて高峰が勤務した農商務省特許局時代の直属の上司です。 総理大臣を務めたあとも引退せずに、大蔵大臣として日本を支えていました。

この説得の甲斐もあり、「衛生局」の格下げは白紙に戻ります。実は、この「衛生局」こそが、その後の厚生省、現在の厚生労働省となるのです。

 

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