高峰譲吉をめぐる逸話(その1)

著 石田 三雄(農学博士)/ 当NPO法人 元・理事長(故人)

 

1.「べろべろに酔っぱらった高峰さん」

艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えて、タカジアスターゼの発明とアドレナリンの結晶化という歴史に残る業績を残した高峰譲吉博士は、日米親善に対する晩年の活躍で無理が重なり、1922年7月22日ニューヨークの病院で67年の生涯を閉じた。11歳で去った加賀の地に帰って最後の眠りにつきたいという、かねてからの念願は遂に叶わなかった。

この訃報は、2日後の日本の新聞に掲載されている。東京朝日新聞には、第2面の詳細な記事に次いで、3面には「高峰博士の心残り二つ」という見出しで、息子が抱えた債務の整理についての高峰晩年の心痛が、キャロライン夫人と二人の息子の写真と共に記されている。国会図書館で入手したこの新聞記事のコピーを帰宅の車中で読み終えて、ふと左下隅の『青鉛筆』というコラム(1916年から、現在も続く)に気付いた。その記事は短いので、全文を現代文にして転載する。

 

タカヂアスターゼで良く知られるようになった高峰博士も、とうとう母国に帰らずに死んだが、若い頃英国留学中に、これも酒豪で聞こえた貴族院議員石黒五十二博士の下宿へ遊びに行った。石黒が留守なので、書斎に入ってそこらを探し回ると、書棚の陰にウイスキーが5〜6本隠してあった。こりゃ豪快だわいとばかり早速持ち出して、あおるは、あおるは、遂に1滴も残さずすっかり飲み干して、瓶を転がしてしまった、さすがの高峰博士もへたばってしまって、そのままベッドに倒れ込んでウンウン唸っているのを下宿のおかみさん(注:英国人)が見つけて、医者を呼ぼうと大騒ぎをしていた。その最中に石黒が帰って来た。そして水を飲ませようとすると、高峰は酔眼をわずかに開いて、「医者も水もいらんよ。すこし飲んだだけだ。今いい気持なんだから起こさんでくれ」とまたぐったり寝てしまった。この二人の酒豪も今はこの世にいない。

 

石黒五十二は、1855年(安政2)金沢市彦三町の物頭役(弓組、鉄砲組を預かる役)嘉左衛門の子として生まれた。高峰の1つ年下である。つい目と鼻の先の梅本町(現大手町)に、その年数え年2歳になったばかりの高峰が、母幸子に連れられて引っ越してきた。高峰の父精一はそこに住む加賀藩の御典医であった。高峰は少年時代藩校の明倫堂で学んだ。石黒についての幼児の記録が見当たらないが、彼の父が同じような藩の要職にあったので、おそらく明倫校で高峰の1年後輩だったのではないかと思われる。

金沢英学校で英語を学んだ石黒は、1870(明治3)年、15歳で東京の大学南校に貸費生として入学、8年後の1878年7月、東京大学土木工学科を卒業した。彼は大学卒の地方公務員第1号として、神奈川県土木課に就職する。翌1879年、文部省の留学生選抜試験に合格し、パリを経てロンドンに渡った。石黒はそこから自分の進路を決めるために、まず産業革命の中心地スコットランドをつぶさに視察し、ロンドンに戻って土木工業会社で徒弟として実地を学ぶ。官費支給期間が過ぎた後は自費での滞在を申請し、英国はもちろん、エジプト、フランスなどの大きな土木工事を詳しく視察するのだが、この活動はまさに明治の若者がモットーとしていた「自助自立」そのものであった (1-1)。

一方高峰は、1879年に6年間学んだ工部大学校化学科を首席で卒業し、翌年ヨーロッパへの官費留学生に選ばれた11名の一人としてロンドンに向い、高峰を含む4名はさらにスコットランドの工業都市グラスゴーに向かった。高峰が石黒の下宿で大酒を飲んだのは、二人の滞在期間と場所から推定して1880年のある日のことと考えられる。その時代40日余りの船旅を経た後、さらに汽車で1日かけてたどりついた地球上の1点グラスゴー市で、訪問できる近くに住み、心を許す加賀の方言で現在、未来を語り合える時を持つことができた幸運を、二人はかみしめていただろう。留守の間に上がり込んだのは、しばしば訪問して下宿のおかみさんとよほど親しかったからに違いない。当時の二人の写真がないのは、いかにも残念である。

「土木界で大活躍した石黒五十二」

神田の下水道豊富な実地研修を積み、イギリス工学院、イギリス土木学会の会員となって1883(明治16)年に帰国した石黒は、内務省衛生局に入り、土木局も兼務して各地の飲料水改良工事に従事する。その翌年には、文部省兼務となり、東大理学部講師として衛生工学を講義している。以来1906年に退官するまで企画、指導、教育などに八面六臂の活動を展開した。その中から二つだけを簡単に紹介しておきたい。

その一つは、神田の下水道である。明治10年の全国的なコレラの発生に悩まされていた明治新政府は、1883年東京府に下水道の整備を指示した。府は帰国したばかりの内務省の石黒をリーダーとして、当時日本各地の土木工事の指導者であったオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの技術指導を得て、翌年から総延長614mの卵型断面の煉瓦下水道工事を起工し、2年かけて完成したのが神田下水道で、平成6年東京都の史跡に指定されている。

もう一つは三池炭鉱の石炭輸送のための1万トン級の船舶が3隻同時に接岸可能な築港の計画で、次に掲げる論文がそれである。三井財閥の団琢磨の依頼による驚くような巨大なプロジェクトであった。この論文には詳細な設計図はもちろん、7年目からは純益も出るという計算表も添付されている。1902年から始まった工事は、延べ262万人を動員し6年後に完工した。石黒五十二と理学士長崎桂が共同で提示した計算表の予測の7年後には、全工事費を償却したという。

石黒の妻すまは、幕末最後の幕府軍総司令官であった榎本武揚の姪(めい)である。武揚の兄武與(鍋太郎)の長女すまとの縁談が渡辺洪基(東京府知事、東京帝国大学初代総長)の世話でととのったことを、武揚の姉観月が武揚に知らせた手紙の中には、「石黒の月給が120円とか,おとなしくて少しも生意気な風がない様子の良い人物であるとか」人物評が書かれていた (1-2)。

歴史は巡って、石黒五十二・すま夫妻の孫の一人が昭和30年代に大活躍したテニスプレーヤー石黒修、その子が俳優の石黒賢である。

◇  ◇  ◇

高峰譲吉が思い切り羽を伸ばして留学生活をエンジョイしていたことを知って、なんだかうれしくなり、この二人の酒豪の偉人が急に身近になった。高峰より1歳年下の石黒は、高峰より6カ月早く1922年1月14日に逝去している。旅行も通信も不便な時代、日米に離れて活動していた二人には、グラスゴーの思い出を語り会うチャンスもなかったのではないだろうか。(歴史記述として敬称を略させていただいた)

 

《引用文献》
(1-1)花房吉太郎・山本源太編集「日本博士全伝」東京博文館蔵版(1892)
(1-2)榎本武揚未公開書簡集 新人物往来社(2003)
(注)本稿は『近代日本の創造史No.10 p.32(2010)[余話歓談] 犬も歩けば~その3~…三好正史』の部分転載である。(三好正史は石田三雄のペンネーム)

 

2.冠詞の無い英会話で通した高峰さん

1922(大正11)年7月22日、科学実業家・高峰譲吉はニューヨークの病院で、妻子、実妹、研究助手上中啓三らに見守られて、67歳の充実した人生を静かに閉じた。葬儀や追悼の多くの記録は、高峰譲吉の評価がいかに高かったかを示すに余りあるものである。

その一つ、『ニューヨーク・ヘラルド紙(The New York Herald, Sunday, July 30, 1922)』には、「偉大な日本人科学者 日米友好に尽力した人」というメインタイトルの下の中央に、和服に身を包み草履を履いてゆったりと立っている晩年の高峰譲吉博士の中央の写真挟むように左右に次のような二つのタイトルが見える。ニューヨーク・ヘラルド紙即ち、「彼は祖国と寄留した国の相互理解を深めるために、多くの彼の時間と手立てを捧げた」と「アドレナリンおよび手術に有効な薬品の発明者。そして有機化学者であり控え目な紳士」。

そしてジョセフ・クラーク(Joseph Ignatius Constantine Clarke, 1846-1927)による長い追悼文が掲載されている。

その小見出し5つを下記に列記する。

1.「進歩は、将軍政治の転覆を待たねば」
2.「日米両国の最良の絆は経済関係」
3.「有機化学分野での彼の偉大な発明」
4.「彼は最後まで日本語でものを考えていた」
5.「彼の祖国が与えた名誉」

大変興味がある上記の 4.「彼は最後まで日本語でものを考えていた」の最初の部分が、大活躍した寄留地のUSAでの高峰さんの内心の1つの苦闘を示しているようにも思えるので、ここに紹介しておきたい。

「彼が話す英語は十分明瞭であったが、日本語に冠詞が全くないためか、冠詞を省略する奇異な傾向があった。この事は、彼の頭の中の言語は、依然日本語だったことを示していた。」

定冠詞、不定冠詞とその単数形、複数形という我々にとって極めて厄介な品詞の用法については、読者諸氏それぞれに経験をお持ちであると思うが、養老孟司博士の名著『バカの壁』(新潮新書、2003)の小見出しの「意識と言葉」からは、面白くかつ意味の深い文章が続く。その中の「ギリシャ語では冠詞が名刺の後ろにあっても良い」という記述は忘れられない(冠(かんむり)という字の意味が無くなるではないか!)。高峰博士は会話で冠詞を省略するとクラークが書いているが、科学の論文(記述)では、決して冠詞を省略するようなことはしていない。高峰は、書く場合と話す場合で違うのである。

英語で冠詞を省いてしまうと、会話はどういう印象になるのかなあ?と思って、筆者は古い英会話の教科書から1節を写し取って、その文の中の冠詞を塗りつぶしてから読んで、録音して自分の声を聴いてみた。もちろん原文を読んでいるので意味は知っているわけだが、やはり録音された自分の声には少し違和感があり、クラークの言う通りだと思った。バカなことをするものだと笑われることは当然だが、高峰譲吉の声を聴けないと思うと、ついやってみたくなった次第である。

録音する機械については、ドイツ出身のアメリカ人エミール・ベルリナーの円盤式蓄音機(グラモフォン)が1895年、エジソンの円筒式蓄音機が1897年に発売されているが、一般に手に入るようになったのはかなり後のことで、高峰と同時代の著名人で声の残されている人はない。

アイルランド生まれのクラークは、22歳でフランス経由、米国に移民し、やがて有名なジャーナリスト、劇作家となる。初めてクラークが高峰に出会ったのは1902年、ニューヨーク郊外メリー・ウォールドにある別荘で、和服、白足袋、上草履姿の高峰が茶亭でくつろいでいる時であった。クラークは、その後高峰に書いてもらった多くの紹介状を携えて、日本全国に一流人を訪問し成功を収めている。新聞人、著作家として著名なクラークに、日本に関する著作が幾つもあるのは、この旅行が原点である。彼は大隈重信とも親しかったようで、大隈の東京の邸宅に招かれたときの庭の盆栽などについて感想を書いている。大隈と高峰はその昔、長崎県内の佐賀藩校致遠館で外国人教師 ギドー・フルベッキ に英語で西洋文明・文化を学んだ兄弟弟子であったことが、この人脈を作ったのかもしれない。

◇  ◇  ◇

私的な経験で申し訳ないが、50年近く前に米国に留学していた時のこと、修士試験の一つとして、独仏露の3か国語のうち1つを選択し、英語に翻訳することが必須であった(文系は露の代わりがスペイン語)。筆者はドイツ語を選択し、ある日担当の語学教授に一人呼び出され、教授室の前の廊下の横長の机で、手渡されたドイツ語の答案を英語に訳した。時間がきて教授室に呼び込まれ、もう一度ドイツ語の答案用紙を読んで英訳を口頭で話すように指示された。

何とか合格し、ほっとしたとき、その教授が笑顔で次のように質問してきた。「あなたは、どうのように翻訳したのですか?」筆者は、次のように答えた。「ドイツ語を一度日本語で理解した後、その日本文を英語に訳しました」。教授は、「そんなことが、この時間内で出来るのですか」と、ある意味で敬意を表する眼差しを向けてくれた。今になって、「彼は最後まで日本語でものを考えていた」というクラークの表現を、懐かしく感じている。(歴史記述として敬称を略させていただいた)

(注)本稿は『近代日本の創造史No.13 p.33(2012)[余話歓談:歴史の中の色と音] …三好正史』の部分に若干追加して掲載した。(三好正史は石田三雄のペンネーム)

3.単身で帰国した時は、羽を伸ばした高峰さん

高峰譲吉とキャロライン・ヒッチ夫妻は、米国南部のニューオーリンズで1884年に出会ったあと、3年後(1887)に再会して結婚した。それ以来36年間、譲吉の死(1922)まで、二人の男の子の親として良い家庭を築き、公的の場では日米親善に大きな貢献の歴史を残している。しかし、国際結婚をした最初の日本人ではないかと言われている高峰譲吉にとって、習慣の違う米国での家庭生活には、時々心底から気の休まることのない時間があったとしても、武家に生れた明治の人として当然だったのではないだろうか。

高峰の研究助手上中啓三夫人の八重野さんの談話の中での「(笑)」は、それを見事に表現する貴重な記録となっている。すなわち「(高峰)博士は、日本に一人でお出かけになった時、少しばかり、ご自由にふるまわれたようなことがございました。(笑)「ああやっぱり、ご家庭が、ご窮屈なのだなア」と、つくづく、ご同情申し上げたことがございます。(笑)」 (3-1)

一方のキャロラインは、結婚後はほとんど祖国アメリカでの生活であったが、夫譲吉の晩年の日米親交の活躍の補佐は、やり甲斐の大きさに比例して大変神経を使う仕事であり、着付けが大変な着物姿まで想像すると、同情しない人は少なかったに違いない。

定年を迎えた方から “第二の人生を目指して”という挨拶状を戴くことがよくあるが、結果として本当に異なった人生を過ごされたケースは希である。そういう意味から、高峰夫人キャロラインの87年の生涯は特筆すべきものではないかと思い、以下にまとめてみた。

キャロライン第一の人生:20年間(1867-1887)

米国南部の資産家の娘として、ニューオーリンズで貴族的に育てられた美少女時代。

キャロライン第二の人生:35年間(1887-1922)

東洋人高峰譲吉の妻、男子2人の母として。日米親善に尽くす。

キャロライン第三の人生:30年間(1925-1954)

譲吉と死別後、アリゾナの牧場経営者 Charles Beach と再婚。
Charles Beach は次男 Eben (孝) Takamineの友人で33歳年上の妻となった。

そして、Caroline Takamine Beach として、譲吉や息子達と一緒にニューヨーク・ ウッドローン墓地に眠っている(1954年、87歳で死去)。

◇  ◇  ◇

松本清張作「駅路」の主人公が、停年の翌日、突如変身願望して蒸発するが、譲吉の死から3年後、キャロラインが全く違った環境へ飛び込んで行ったのは、日本的タテ型社会からくる上下の序列や格式など、窮屈なしがらみから兎に角抜け出したかったからであろう。(歴史記述として敬称を略させていただいた)

《引用文献》
(3-1) 自伝対談(2の 2)『薬局の領域』(7 10): 52―54, 57―58(1958)
(3-2) Agnes de Mille: [Where the Wings Grow] Doubleday & Co., Inc., Garden City, New York (1978)
(3-3) 飯沼和正・菅野富夫著『高峰譲吉の生涯』朝日選書(2000)
(3-4) 飯沼信子著 『高峰譲吉とその妻』新人物往来社(1993)

(作成:平成26年6月16日/文責:石田三雄)

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