タカジアスターゼ発見の陰の功労者、藤木幸助

研究会はこの度、高峰博士のタカジアスターゼ発見の陰の功労者であった、藤木幸助のふるさとを訪ねてまいりました。
丹波篠山
 藤木幸助は、日本三大杜氏のひとつである丹波杜氏の里、丹波篠山に生まれました。1848年(嘉永元年)5月のことで、幼名は山田竹之助。
 16歳の頃から、蔵人として丹波杜氏の元で熱心に酒造りに携わった竹之助は、やがて名を幸助と改め、20歳の時には最年少の「大師」(蔵人の中のトップに次ぐ地位)に昇進していました。
 やがて幸助は、隣村の藤木茂右衛門の娘おますの婿養子となり、藤木姓を名乗るようになりました。その頃から幸助は堺市の肥塚商店酒造場勤務となり、そこで知り合って幸助を認めてくれた肥田密三* の引きで東京の肥田研究室** 勤務となり、肥田の紹介によって高峰譲吉博士と出会う事になったのです。
 7年の歳月を高峰博士の元でアメリカで過ごした幸助は、帰国後、博士を偲んで白木造りのほこらを建て、「高峰神社」として博士の無事を祈っていたということです。

 今回の取材は、その藤木幸助の家のあった場所に今も残る、藤木が建立した小さなほこら「高峰神社」と、藤木の功績に対して高峰博士が贈った「渡米記念碑」の取材です。
(藤木幸助について詳しくは、『高峰博士ゆかりの地・人』の 6)ゆかりの人…藤木幸助 をご参照ください)
高峰神社
 この場所の取材に当たっては、当NPO理事長(当時)の山本が予てより調査などに協力いただいていた丹波杜氏組合会長・小島氏のご尽力が大きく、当日も多くの地元杜氏の方々や藤木の遠縁に当たる方、また市役所職員の方などにもお集まりいただき、思いがけず理事長・山本のミニ講演会までお膳立てしていただきました。
 下の右の写真で、右端に座っている山本の背後に、ほこらと記念碑があります。
講演会
 藤木幸助没後すでに100年ほど。幸助の家も既になく、このままでは貴重な記念碑もいずれ朽ち果ててしまうと、小島氏らこのことを知る方々は気にしておられましたが、今年はワシントンの桜100周年などの行事もあったことから、高峰博士の偉大な業績にスポットが当てられました。
 そのせいもあってか、高峰博士の偉大な業績の一端を担った篠山出身の藤木幸助を見直す機運も芽生え、地元の誉れを守り広めて行こうという動きも見え始めているようでした。
酒造記念館と篠山市長・酒井隆明氏
 その後場所を丹波杜氏酒造記念館に移し、さらに組合長ほか何人かの方々と情報交換をさせていただきましたが、当NPOにとっても、大変実り多い取材になったと思っています。また、公務多忙中の篠山市長・酒井隆明氏にもお会いでき、高峰博士や藤木に関する資料などもお渡しすることが出来ました。
 この場を借りて、様々な準備にご尽力くださいました丹波杜氏組合会長・小島喜代輝様を始め、地元杜氏の方々、市役所職員の方や酒井隆明市長に、心より御礼を申し上げます。

(上の写真左:丹波杜氏酒造記念館。 右:左から杜氏組合会長・小島氏、当NPO理事長(当時)・山本、篠山市長・酒井氏)

注:* 肥田密三…高峰博士の工部大学校の学友(後輩)。
注:** 東京の肥田研究室…『兵庫県海外発展史』原文抜粋。

◎渡米記念碑 碑文(一部/参考資料/原文は縦書き)
是ニ於テ翁ハ多年ノ意志ヲ達スルヲ欣喜シ敢テ心ヲ名利ニ留メス 悉ク之ヲ博士ニ附シテ帰朝セリ 博士大イニ翁ノ志ヲ徳トシ年次書ヲ遣リテ慰問渝ル無シ 後大蔵省醸造試験所ノ創設アルヤ聘セラレテ職工長タルコト一年有半又園城製薬所ノ技手タルコト一年 偶マ懐郷ノ念生シ一朝辞シテ家ニ帰リ爾来意ヲ山水ノ間ニ ニシ悠々自ラ楽メリ今春博士ノ旨ヲ承ク記念ノ碑ヲ建立スルニ方リ茲ニ其累歴ヲ叙シ以テ不急ニ垂ルト云爾

参考文献:現代多紀郡人物史(大正5年、三丹新報社)

(取材:平成24年10月25日、文責:事務局)

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