高峰譲吉博士による理化学研究所の創設理念

石田 三雄(農学博士)/ 当NPO法人 元・理事長(故人)

石田三雄 極めて刺激的なマスコミの見出しで2014年1月30日から始まった理化学研究所のSTAP細胞を巡る大騒動は、国際的な反響や、理研トップの自民党への接触など、ほとんど研究そのものの内容が理解できない多くの日本人に大きな困惑を与えている。その行方は、はなはだ不透明である。
 筆者は農芸化学を専攻したあと企業で研究者生活を経験しているが、勤務した会社の初代社長が、高峰譲吉博士であったことから、理研に関しては、その成立と業績を比較的よく理解している方であると自負していただけに、今回の事件に無関心でいることはできない。
 そこで、この機会に多くの読者に、理研創立の理念として今から101年前に高峰譲吉博士が雑誌に発表した提言(『実業之日本』という雑誌に掲載)をみなさんに読んでいただくことに意義があると思い、その全文を現代語に訳して、ここに掲載したい。明治の近代化が一段落した頃、日本の将来の進むべき一つの道をこれだけ明解に示した高峰博士の功績を、再認識していただければ、泉下の高峰博士も満足されると思う。

100年前に国民的化学研究所設立を提言した高峰譲吉博士
 理化学研究所の創設は、1913年、高峰譲吉博士によって提唱された。その全文の現代語訳を以下に掲載するので、是非、全文お読みいただく事を切望したい。

化学研究の必要性を詳しく述べた高峰譲吉博士の提案書
実業の日本

《上掲記事(大正2年5月15日発行『実業の日本』)の現代語訳》

将に起こらんとする資金1000万円の国民的化学研究所
余がこの大事業を企てたる精神を告白す
薬学博士・工学博士 高峰譲吉
※ 以下、本文中の(1)、(2)…は、文末の《訳者注》をご参照ください。

我が国の工業はまだ輸入防止時代
 明治天皇が国家統一の大事業を継承されることとなって、五つの事を天の神と地の神にお誓いになったその1つに、『知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし』(1)という1条がある。天皇の思いは奥深く遠大で恐れ多いことであるが、明治維新以降、いろいろな施設はすべてこの天皇の考えに基づいて知識を欧米の先進国に求め、政治、法律、教育、文学、陸海軍の軍事、商工業など欧米に模範を仰がなかったものは1つとして無い。とりわけ工業はその最たるものである。従来からの国内固有の工業は、いわゆる手工業に属しており、幼稚で緩慢であることを免れなかったが、ひとたび欧米の工業を輸入してからは、大規模の機械的な工業が続々と経営され、その発達が顕著であることは、ほとんど我が国工業の面目を一新した観がある。
 工業はその面目を一新したけれども、それはいわゆる模倣に過ぎない。欧米先進国が数百年間多くの辛酸をなめて考え出したものを、そのまま輸入したのである。だから事業が発達したと称しても、単に外国品の輸入を抑えただけのことにとどまっている。金を出したのを出さなくしただけに過ぎないのである。消極的であって受身であることを免れない。積極的に物事を行って新製品を出して資金を外国から吸い上げることは出来ない。これは我が国の工業の発達上、最も遺憾とするところであって、我が国民性がややともすれば模倣的であると非難される理由である。初めから終わりまで模倣品である。だから、たとえその製品が精巧であっても、到底その先生には及ばないのである。我々が模倣している間に、彼らは非常に速く先に進んでとどまらない。したがって、模倣をやっている間は、常に受身であることは免れない。

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世界は今や独創の競争
 模倣の出来る間は幸いである。たとえ先生に後れたとしても、なお先進国に近いものを製造することが出来るのである。しかし模倣は永久に約束できないのである。今や世界の商工業は年とともに競争が激烈になりつつある。各国、各人は、常に多くの時間と資力と辛酸とをなめて、斬新な発明を創案するのに努力し、そして発明したものは厳重に秘密を守って他の模倣を許さない。であるから、我が国民が自ら労せずして他の国民が苦心して成し遂げた結果を模倣しようとしても、それは事実不可能である。見てご覧なさい。欧米のいたるところの工場は日本人の視察を拒否し、模倣されるのを予防しつつあるではないか。模倣が悪くないとしても、今やそれが出来ないのである。いわんや、模倣は到底我が国民に前向きに積極的に活動させるわけではないのであるから。こういうことであるから、我々日本人は自ら研究し、自ら独創(オリジナリチー)を発揮しなければならない。
 最近ドイツの工業は天を突く勢いをもって発展しつつある。その原因は2、3に止まらないであろうが、学理の応用が盛んに奨励され、実行されていることが主因であると信じる。彼らは英国、フランスから安価なコールタールを輸入し、自らこれの化学的用途を研究し、染料、薬品に加工してそれを世界の市場に供給しつつある。これは1つの事例に過ぎないけれども、欧米人は学理の応用によって欧米にある安価な材料を使って、種々の高貴な製品を出して広く世界に供給し、それによって今日の富強な国にしてきたのである。
 我が国民が独創の見識をもって欧米諸国と互いに追っかけ合い競い合い、進んでその製品を欧米に出そうとするには、材料を日本及び東洋の安価な物質に求め、これを加工し精製するのに越したことは無い。このようにすれば、これでもって欧米の資金を吸収できて、我が国の増進は期して待つべきものがある。

東洋の材料を研究するのは我が国民の天職
 想うに東洋の材料で加工精製して、それに世界市場を闊歩させることが出来るものは決して少なくないだろう。例えば満州・朝鮮地方で多量に生産されている大豆は、搾って油を採取しその糟は窒素質の肥料として地中に投与されている。大豆は豆腐として味噌として湯葉として大変滋養分に富み、肉食しない国民に肉食と同じ滋養を供給するのである。今日肥料として地中に投与されているのは、他の窒素質肥料よりも安価なので使用されているのであるが、もし詳細に研究し試験し、その滋養分を採取することが出来るならば、それが社会の利益になることは計り知れないものがある。しかるに東洋人は何等の注意を払わず、空しく肥料として地中に投下している。私は目の前にこれを見て、ほとんど金銭を地中に投下しているような感じがしてならない。これは単に天の恵みを乱暴に扱って消滅させているばかりでなく、東洋人がこれからもこれを放棄すれば、欧米人は必ず更に有益な用途を研究し発明して、我々の眼前にある豊富な材料を利用させてしまうことになるであろう。これは決して空想ではなくて、既に大豆は工業原料として大量に欧州に輸出されつつある。
 これは仮定として設定した一例であるが、このような有益な材料は東洋に豊富にある。研究に研究を重ねれば、ほとんど限りがないと信じる。もし例えばインドその他の未開地に入り、一方では安くて有利な材料を探し出し、他方地理上の研究を蓄積する時は、地理学上において世界に貢献し、したがって文明国民としての地位も大いに向上するであろうし、そして副産物として得た材料は経営にとって有利である。従来はこういうことは一切不問に付せられていて、暗黒のままにまかされていたのであるが、これらを調査し利用することは東洋人にとって天職であり、すべて模倣的であったにせよ工業の発達した我が国民が当然手を染めてしかるべき有利な事業である。

実力の養成には研究所が必要である
 明治時代の2大戦役(2)によって、我が国は列強の仲間入りをした。兵力の強く盛んなのはもとより望ましいことであるが、今後内容のある強国となるには、実力を養成する以外になく、その実力の養成は工業によらなければならない。我が国は古来農業をもって立国の根本としたが、土地が狭く限度があり、大いに国の富を増やそうとすれば、工業の進歩に待つほかは無い。そして工業の進歩は既に述べたように他国の模倣でよいわけが無い。自ら発明しなければならない。
 現在工業関係の試験研究所としては、農商務省の工業試験所があり、台湾には中央研究所があり、ともに科学的研究を行い、相当の結果を挙げて国家のためになっているであろうけれども、これらの研究所は国立で官吏でないと研究に従事することが出来ない。全国民誰でも意思のある人がこれを利用するには不便であることを否定できない。私はこの研究所を非難しようというのではない。既設の設備は、それはそれとして別に全国民の誰でも研究することが出来る設備の必要性を痛切に感じるのである。
 工場が工場として自ら研究することは有利ではあるが、配当を多く望む株主が背後にいる会社の事業としては、考えてみるに困難である。工場としては1人でも無益に遊ばせておきたくない。出来るだけ仕事することを要求する。しかし、発明事業は一朝一夕にして出来るものではない。会社も1ー2年間は研究に従事させることもあるが、3年5年久しく何等なすところ無く、目的に向かってそれだけに専念するのは好まないであろう。これは営利を目的とする事業としては、多少理解できる事情が無いわけではない。
 ここにおいて私は、国民的化学研究所を設置し、新しいアデイアを着想した人がそこで研究する便宜が得られるようにし、我が国民自ら発明事業を大きく完成し、国家の富の増進に勇んで進むのが最も急務であると信ずるものである。

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発明の能力者3千人以上
 時期は熟したとしても、こういう研究に従事する人材が無ければ如何とも出来ない。しかるに維新以来教育制度が普及し、殊に高等教育を受けた者が増加し、大学を卒業した化学者は既に2,000人に近く、高等工業その他専門学校を終了し、技術的能力を備えた者が約1,500人あり、通算すれば3,000人以上3,500人の化学者がいるのである。この総てが発明の能力を持っているとは限らないが、彼らは適当な機会さえあれば発明をなしうる基礎的学問を具えているのである。
 このように発明の力量のある者はいる。しかし彼らはそれぞれの仕事に従事し、発明・工夫の時間を持っていない。たとえ何らかの工夫を考え出したとしても、これをテストする資金が乏しく、また工場にはその設備が無い。彼らは天才を持っていてもこれを発揮する機会を与えられないのである。このことは彼ら化学者の不幸であるだけでなく、国家の一大損失と言わなければならない。

私が計画する研究の方針
 私が設置を熱望する化学研究所は、未だ具体的な成案を得ていないし、更に調査を要することもあるが、大体の方針としては、
1. 中央に1つの研究所を設置し、研究に要する各種の設備を完成し、各部門の専門家を招聘してその指導の下に、俊才を抜擢して各種の研究に従事させ、また誰でも有益なアイデイアを提出した者には、一定の機関によってこれを審査し、有益だと認めたものに対しては,官民のいずれかを問わず研究させるようにし、試験に要する助手、費用及び設備などを自由に使用させるのである。
 中央の研究所には評議員を置く。評議員には化学上の学識経験のある先輩諸大家2、30名及び実業家であって工業を好み自分の事業の大成に熱心な知名の人、2、30人を集め、その中から評議員会長をはじめ日常の事務処理をする常務員及び書記などの諸機関を設ける。事業は化学的と言うけれども研究の範囲は多方面に関連しているので、評議員たる者はまた広く各方面にわたって研究者を指導する便宜をはからなければならない。
2. しかし、研究は必ずしも中央一ヶ所に限定するべきでない。地方で公私の事業に従事する者で、東京に来て自分で研究に従事することが許されない事情の人もある。例えば九州方面にいる化学家または実務に当たっている人であって、ある発明のアイデイアを持っているのだが時間と資金を持っていないので試験が出来ない人に対しては、評議員会の調査で有望であると認めた時には、助手を差し向ける、或は資金を給付するなど、各方面にわたって研究の便宜を与える。言い換えれば広くアイデイアを公募し、その実現を援助するというのである。
3. 研究の結果は何時成功するか分からないが、幸いにしてある種の発明を完成した時は、研究所は国内製造家に一定の条件の下にこれを提供し、或はこれを外国に譲渡し、それによって利益を挙げることが出来れば、一定の歩合を発明家に給付することは勿論である。もともと発明の奨励を目的とする事業であるから、奨励のために歩合を与えなければならないが、同時に研究所も永遠に発展させるのであるから、それの発展・完備に要する費用の一部を成功した発明から得られる利益から得るのはまた当然であると信じる。これらの歩合をどのように決定するか、また特許権の名義を誰にするか、特許権を実施するに当たって誰に製造販売に当たらせるか(研究所は財団法人であるから、研究所自身が事業を営むのは便利でない)、これらは現段階では未定の問題である。しかし、大体の設立問題が解決すれば、これら枝葉の小さな問題は、あたかも竹を割る時に斧を竹が迎えるように楽に解決するであろう。

研究所の費用と一等戦艦
 この事業はその性質からして一時的でなく、永久的である。絶えず研究し、多数の問題の中から1つでも有利に解決できるものがあれば良いのである。したがってこの研究所の維持は基金の利子でやらなければならない。であるから基金の額は1千万円以上2千万円くらいを要する。一口に千万円と言っても現在の国民にとってこれは少なからざる金額である。これが10年より前であったなら、世人は耳を傾けなかったであろう。今や時期は熟している。必ずしも困難とは言わないであろう。私が今回帰国後、2、3の有力な実業家と会談した時、彼らは「もはや今日は真似をする時ではない。大いに金儲けをして国の富を増進しようとするのには、今まで他人が手を付けていない新しいことをしなければならない。何時までも他人の束縛に甘んじているのでは発展できない。」と言っていた。我が国の実業家もまた既に研究所によって発明を奨励するのを急務としているのである。
 1、2千万円の資金はドレッドノート型戦艦(3)1隻を建造するのに相当する。かって義勇艦隊(4)の建造に努力してきた国民は、国の富を増進する事業のためにド型戦艦建造の費用を惜しまないであろう。ド型戦艦は国防上有力であるけれども、その能力は1日1日劣化し、一定の年月を経れば廃艦となるのである。研究所は最初は大した結果が見えないようであるが、年と共に進歩し、戦艦が廃艦となってしまう頃には、きっと世界を驚かせ圧倒するような大発明も可能であろう。従ってこれに対する寄付金も単に寄付するだけでなく、その資金は永久に活用され、研究所の存続する限り、発明の社会に有益である限り、長く活きて働くのである。寄付としても極めて有利である。

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日本人にも発明能力がある
 ひるがえって外国の事例を見るに、何れも研究所によって大発明をしていないところは無い。従来発明といえば何か偶発的であるように考えた。また些細な偶然のようなことでも、個人として利益を得た例も無いではないが、今後の発明は科学に基づいたもので無ければならない。
 有名な米国の富豪ロックフェラー氏は、順次に2千万円までの資金を寄付することを約束し、ニューヨークにロックフェラー・リサーチ・インスチチュートを設立し、専ら病理、病原の研究に従事させている。創立以来僅かに6、7年に過ぎないけれども、その結果はボツボツと現れ、同研究所にいるカロール博士(5)の発見のような事例は世界の医学者を驚かせ、同年(6)ノーベル賞の賞金を受領するという名誉を得た。また同研究所設立以来従事している野口医学博士は、従来全く不明であった小児の病気の原因を昨年発見した(7)。遠からずこれの治療法も発明されるであろうと想像する。この事実に見られるように、日本人に発明の頭脳があることを認識するに充分であると同時に、野口博士がこのような発明を成し遂げたのは、野口氏その人が俊才であることもあるが、主たる原因は時間と資金を提供して研究の機会が与えられたことによるのである。
 また北里博士の門下で、ドイツのエールリッヒ博士の指導の下に606号(8)を発明した秦佐八郎氏のような人も、同氏の頭脳が卓越していることは勿論であるが、この頭脳の長所を発揮するに適した機会を与えられたからこそ、こういう成功をもたらしたのである。日本人はずっと模倣的な国民だと言われているが、模倣が上手であることは、発明の前兆である。従来米国は総て欧州の真似をしていたのである。鉄を製造するといっても、欧州の技師を雇ってその方法を学んだのである。しかし労働力に乏しく、賃金の安い米国は、多人数を使用することが出来ないので、従って労力を節約するように機械的設備を必要とし、必要は発明を生んだのである。かって模倣をやっていた米国が、今や世界的大発明を続々と提供しているではないか。我々日本は今や米国の初期段階を経過しつつあるので、米国の例からすれば我が国民もまた必ず立派な発明家になる資格を持っているのである。我が国は既に3千人以上の化学者を有している。もし研究に適した機会を与えれば、3千人中必ず世界を驚かすような大発明をすることが出来ると信じている。

この研究所を完成したい私の素志
 要するに将来我が国民が工業で大いに発展しようとすれば、日本及びその他の東洋における廉価な材料を研究し、これに我が国の進歩した学理と熟練を加えて、それによって高価な物品を製造して、遠く欧米諸国に輸出すべきである。これには多少の年月を必要とし遠回りのようであるが、我が国の富を増進するには、これなしには期待することは難しい。
 私は少年の頃藩費(9)で長崎に留学を命ぜられ、後に工部大学に入り官費(10)で教育を受け、更に官費で英国に留学を命令された。幸いにして今日ここまで来たのは、ひとえに公の資金のお陰である。こういうことから、微力であるため思うようには出来ていないけれども常に公衆のために尽くすことを信念とし、在米20年に達し、大使、領事は更迭しても私は依然としてニューヨークに在住して自分の研究に従事して、その傍ら同地の有力者と交際する機会もあるので、常に日米の親善、在米同胞の体面を良くし地位を向上させることに微力を惜しまないものである。今や研究所設立の機運が熟し、そうして世界の大勢は一日もこれを緩めることを許さないことを思い、発奮し率先してこの意見を提唱するわけである。
 未だ成案にはなっていないし、計画はまだ進んでいないが、雑誌記者の要請に応じて私見を述べた。貴社の雑誌によって私の計画の大要を伝え、世論の賛同と後援とを得て、それによって研究所事業が大成することができれば、私の限りない喜びである。

– – – – – – – – 解 説 – – – – – – – –
 この提唱がなされた1913年5月は、明治天皇の死去から未だ1年経っていなかった。高峰譲吉は、日本の桜をワシントンとニューヨークに寄贈するという永い間の夢を前年に果たしたばかりであった。この雑誌への投稿に続いて、築地の精養軒と帝国ホテルでも財界の大御所・渋沢栄一などの後援を得て、大演説をもって理化学研究所設立を唱導している。その内容のほとんどが、現在に通じるものであることに感動しない人は少ないだろうと思う。
 当時日露戦争のために外国で発行した膨大な国債の償還に依然として四苦八苦し、さらに列強に並ぶ富国強兵への道を進もうとする日本政府にとっては、必要な外貨を稼ぐためにどうしても世界に売れる独創品が必要であった。
 1922年11月に挙行された東京での高峰譲吉追悼式では、理研第三代所長・大河内正敏が弔辞を捧げ、高峰博士は先ず化学の研究所を日本において起こさねばならないと主張されたと述べている。提案の中にある高峰譲吉の「必ず世界を驚かすような大発明をすることが出来る」という予言は、その後の理研の歴史に長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎などの名前が登場するのを見れば、それが見事に結実していることがわかるが、現在、理研神戸事業所で再生医療に挑戦している高橋政代さんは、高峰譲吉さんの言った通り「世界を驚かせている」。英国の科学誌Natureが選んだ2014年の世界が期待する研究者5名の中に高橋さんが入っていると報道されており、来るべき臨床研究も日本政府は許可していると伝えられている。
 生理学の分野でノーベル賞を受賞した山中伸弥博士の業績を起点として、かねてから注目されている高橋政代リーダーのiPS細胞からの「滲出型加齢黄斑変性」に代表される難しい眼病治療のための網膜作成応用研究が、医療分野での人類への貢献に繋がる日の一日も早いことを祈るとき、今や泉下の高峰博士の100年前のこの提案文の最後の一行を噛みしめたいと思う。

「研究事業が大成することができれば、私の限りない喜びである。」

(現代語訳・註/解説 石田三雄)

《訳者注》
(1)1868年(明治1)4月6日出された5箇条の御誓文(明治維新の新政府基本政策)の第五条。
  皇基とは、天子による国家統治の事業やその基礎のこと。
(2)いわゆる日清戦争(1894-95)と日露戦争(1904-05)
(3)1906年にイギリスが建造した戦艦(Dreadnought)。排水量17,900トン、タービン機関を装備して
  速力21ノット、砲を大幅に改造し、一挙に当時の他の戦艦の2倍以上の威力を発揮するものとした。
  本艦の出現で在来の戦艦は時代遅れとなった。大型戦艦、弩(ド)級戦艦。
(4)平時は通常の商船で、戦時には船長または他の乗員の誰かが海軍の規律の下に、敵対行為に従事する
  ものを言う。
(5)カレルAlexis Carrel 1873-1944。フランスの生理学者リヨン生まれ 同地の大学で医学を修め、
  卒業後同大学に勤務し、外科を研究し、カレル縫合という血管縫合術を完成。1904年アメリカに渡り、
  1906年ニューヨークのロックフェラー研究所に入った。組織培養法、臓器移植の研究。
  1912年ノーベル生理・医学賞受賞。
(6)高峰譲吉はこの原稿を前年に書いたと思われる。カレルの受賞は1912年度である。
(7)小児麻痺病原体特定のことと思われる。但し、この研究は他の野口の発表同様、後年否定されている。
(8)梅毒治療剤。試験番号606の化合物に効果が発見された。Salvarsanという商品名でドイツの
  ヘキスト社から発売され、当時の超大型新薬となった。
  参考文献:「魔弾の射手 パウル・エールリッヒ」医学雑誌ミクロスコピア25巻3号〜26巻2号
(9)江戸時代の藩から受ける費用。ここでは加賀藩からの留学費。
(10)明治維新後の政府の費用。
(作成:平成26年4月8日/文責:石田三雄)

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