青山霊園の高峰博士墓所にサインボードを設置!

1922年7月22日、高峰譲博士がNYで逝去してから今年で100年となります。

没後100年を記念して各所で様々な催しが実施されていますが、研究会としても通常の講演活動に加え何か記念事業ができないかと企画しており、東京・青山霊園の高峰墓所にこれまでの博士の活動を顕彰するサインボードを設置することが決まりました。

春から準備を進めていましたが、この度ようやく設置完了となりましたので、皆様にご案内いたします。歴史ある霊園には少々モダンかもしれませんが、たくさんの写真やQRコードを載せた見やすいものに仕上がりました。ぜひお近くにお越しの際は、足を延ばして訪ねてみてださい。

設置数日後、松楓殿を高岡に寄付した滝副理事長はじめ、理事の方々にもご覧いただきました。英語翻訳版もQRコードから見られるように準備していますので、外国の方にも見て頂けることを願っています。

 

高峰博士の墓所は、1種ロ・15号・3側・4番となります。

 

霊園の管理棟をスタート地点とした行き方は下記のとおりです。

①まずは霊園管理所を出たら右手方向に進み、しばらく直進します。



②「青山墓地中央」の信号手前、「西九通り」を右に曲がって直進します。



③「1種イ15号3側1~4番」の案内がありますので、そこから3つ目の小道を左に入ります。この入り口は案内がありませんのでご注意ください。現時点では、曲がり角に道に被さるように伸びている木が目印になります。

10mほど進むと右手に高峰博士のお墓と新設したサインボードが見えてきます。

 

なお、青山霊園には高峰博士になじみの深い人物が眠っています。博士が出会った順に列記します。

□何 礼之
1種イ 3号 4側 17番

長崎の自邸で英語の私塾を開き、高峰に英語を教えました。

□グイド・フルベッキ
外人墓地 南1種イ 6側 18番

長崎・鍋島藩の藩校である致遠館の教師。1867年に設立し1869年には消滅してしまいましたが、わずか2年間で後の明治政府を支える多くの人材が学び、高峰もその生徒の一人です。

□小村 寿太郎
1種ロ 12号 1-2側 2番

長崎・致遠館の同窓生であり、ポーツマスの日露戦争講和談判に臨む直前の全権団の集まりに、唯一の民間人として高峰が参加しています。

□服部 一三
1種イ 6号 1側

ニューオーリンズ万博に事務官として高峰とともに派遣されました。万博の日本館に熱心に見学に来ていた記者のラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の来日を支援しました。

□北里 柴三郎
1種イ 19号 2側 1-5番

高峰と同じく世界最大(当時)の製薬会社パーク・デイビス社の研究顧問を務めました。横綱常陸山のタニマチであった北里博士は、外遊を説得し渡米した横綱の世話を高峰に依頼。高峰は大統領と常陸山の会見に同席しました。

□古在 由直
第20号 1種ロ 40側 5番

ワシントンに寄贈された桜は、当時の農事試験場長を務めた古在の指揮下で育てられました。後に東京大学の総長となっています。

 

当時から日本のみならず世界に広がって築かれた高峰譲吉の人間関係が、東京の青山霊園で繋がることはとても興味深いです。天気が良い日には散策がてら関係者のお墓を巡り、歴史に思いを馳せるのも良いかもしれません。

 

(作成:令和4年11月30日/文責:事務局)

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