高峰譲吉が満州でウイスキー造り!?~夏目漱石「満韓ところどころ」より~

夏目漱石の代表作「吾輩は猫である」は、飼い猫の目を通して明治の世相をユーモアに満ちたエピソードとして描かれています。主人公の猫の飼い主である苦沙弥(くしゃみ)先生は、中学校の英語教師を務め、偏屈な性格で胃が弱く、ノイローゼ気味です。漱石自身がモデルとされています。

苦沙弥先生が常備薬として手放せないのが、三共のタカジアスターゼ。
胃弱で健康に気を遣うあまり、食事のたびにタカジアスターゼを飲んでいるそうです。

明治の文豪・漱石が高峰譲吉のタカジアスターゼを愛用していたと考えると、研究会としてはなんだか不思議な縁を感じます。

タカジアスターゼについて詳しくはこちら

タカジアスターゼの発明と三共商店

さて、そんな漱石は、1909年(明治42年)に親友だった南満州鉄道総裁・中村是公(なかむらよしこと、漱石は”ぜこう”と呼んでいました。)の招きで満州・朝鮮を訪れ、その旅行記を「満韓ところどころ」として朝日新聞に連載していました。

青空文庫で全文を読むことができます。

[夏目漱石 満韓ところどころ]

この中に、大連の中央試験所(後の満鉄中央試験所)を訪ねたくだりがあります。

是公の話によると、この間高峰譲吉さんが来て、高粱からウィスキーを採とるとか採らないとかしきりに研究していたそうである。ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。

 

高粱(コーリャン)とはモロコシのことで、麹菌を培養するのに適しているため、ウイスキー製造の可能性を研究していたと考えられます。食卓におなじみのトウモロコシは、モロコシが品質改良された作物で似て非なるものです。

この20年以上前、譲吉は革新的なアイデアに気付きました。モルト(麦芽)ではなく麹を使った発酵がウイスキーの製造にはより効率的であることを発見したのです。農商務省を退官して肥料製造会社に専念している間も、麹菌を利用してアルコールを作る研究を続け「(麹による)酒精製造法特許」を英国で1887年に取得します。その後も世界各国でその特許を取得し、特に米国のウイスキー会社から熱烈なオファーを受け、1890年に渡米しました。

新製法の効率性は驚異的でしたが、地元のモルト職人たちに「自分たちの仕事が奪われるのではないか」という強い不安を抱かせました。そして、地元職人たちの反発を受け続け、1893年春にはウイスキー醸造工場と研究所を不審火による火災で失ってしまいます。

科学の先駆者・発明家として

その後、譲吉は立ち直り、タカジアスターゼやアドレナリンの発明・発見へと続いていくのですが、20年以上経ってから満州でウイスキーの研究をしていたことは研究会としては把握していませんでした。この情報は、ある新聞社の記者から提供され、私たちも驚きました。

いつ満州を訪れたのか、どのような研究をしていたのか、資料を探したのですがなかなか見つかりませんでしたが、ひとまず譲吉が満州を訪れた時期を絞ることができました。

満鉄中央試験所は1908(明治41)年7月の創設であり、漱石の訪韓は1909年9月2日から10月14日ですので、大きく括って1908年7月~1909年10月までが譲吉の満州訪問の可能性があります。

1908年7月 関東都督府創立(満鉄中央試験所の始まり) 出典:中央試驗所業務提要 出版者 南滿洲鐵道中央試驗所 1926.4 国立国会図書館デジタルコレクション

その期間中、1908年に譲吉が一時帰国していることがわかっています。詳細の時期は不明なのですが、高岡市坂下町の高岡高等小学校で講演を行った記録があります。
別の講演会で下記の発言がありますので、これを踏まえて考えるに、1908年の高岡高等小学校の講演は3-4月ではないと推測されます。

「私は久しくアメリカに参っておりまして、桜の花を観るのは25年ぶりで、金沢の春は実に45年ぶりであります。」

出典:「高峰博士の面影」1961 発行:高峰譲吉博士顕彰会 「金沢一中における講演筆記」(1913(大正2)年5月2日)より

また、1909年はNYの邸宅の改築計画や、NY郊外の別荘である松楓殿への久邇宮邦彦殿下夫妻来訪、渋沢栄一を団長とする実業団の渡米受け入れなど、譲吉は米国での活動が中心であり、帰国の情報はありません。

従って上記の状況から、満鉄中央試験所の始まりと1908年に譲吉が帰国したタイミングが重なる時期、1908年7月~12月の間に中央試験所を訪れた可能性が高いのではないかと推測しています。

ちなみに、漱石の日記によると旅程は以下のようなものと推測できます。

9月2日新橋発下関行き寝台列車に乗り出発

翌9月3日朝に大阪着

日満連絡船鉄嶺丸に乗り換えて瀬戸内航路から門司経由で9月6日大連着、その後市内を見学

9月10日旅順を見物した後、大連に戻る

9月14日には南満州鉄道に乗って次の都市へ移動

上記から、大連周辺にいたのは9月6日~13日前後と考えられます。

譲吉とウイスキーについて

研究会の会員でマスター・オブ・ウイスキーの資格を持つ山本久里子さんは、「高峰譲吉は火災の後、ウイスキー造りをあきらめ薬の世界に入ったと思われがちであるが、実はウイスキー造りに相当執着していたのではないか」と考察しています。

※マスター・オブ・ウイスキーは国内のウイスキーに関する検定試験の中で最難関とされ、これまでにわずか13名しか合格者がいません。

この満州訪問もその理由の一つです。結果的には、酒税法の関係で実現は出来なかったそうですが、20年経ってもその情熱は残っていたと考えられそうです。

ところで、譲吉は活動の拠点をアメリカに移していたためか登場しませんが、2023年はジャパニーズウイスキーの歴史が100周年となります。

日本ウイスキーの父である竹鶴正孝が生まれたのは1894年、譲吉がウイスキー醸造工場と研究所を火災で失った翌年です。そして、譲吉が逝去した翌年の1923年に日本初のモルトウイスキー蒸留所「山崎蒸留所」が竹鶴初代所長のもとで始動しました。

竹鶴がウイスキー造りを学んだグラスゴー大学の応用科学科は、かつて譲吉も在籍していました。およそ30年前、竹鶴が生まれる前の話です。現時点では二人の接点は確認されていませんが、もし何らかの関係があったとしたら興味深いことでしょう。

研究会としては、「満州での譲吉の研究内容」と「譲吉と竹鶴の接点」について引き続き調査していきます。

何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひこちらからお知らせいただければ幸いです。

記事作成:令和5年8月10日、文責:事務局

 

 

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