日米友好の桜咲いた陰で (日本経済新聞 2/29 文化 より)

◇100年前、ワシントンで植樹に尽力した高峰譲吉氏らを追う◇ 石田 三雄

 2月29日付けの日本経済新聞・文化欄に、ワシントン・ポトマック河畔の桜に関する記事が掲載されました。記事をお書きになったのは、元・「近代日本の創造史懇話会」理事で、高峰譲吉博士研究会の会員(当時)でもある石田三雄氏です。(下に記事内容テキスト有り)

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【上の記事の内容/テキスト】

日米友好の桜咲いた陰で
◇100年前、ワシントンで植樹に尽力した高峰譲吉氏らを追う◇ 石田 三雄

 米ワシントンのポトマック川では毎年春、約2,000本の桜の木が一斉に開花する。米国のみならず、世界中から観光客が押し寄せる名勝だ。今年はこの桜が日本から贈られて、ちょうど100年。一般的には当時の東京市長、尾崎行雄氏が日米親善のために贈ったと知られているが、実現に向けてけて奔走した人たちがその陰にいたことはいうまでもない。

会社辞し本格的に調査
石田 三雄 その一人が化学者、高峰譲吉氏である。現在の「第一三共」の基となった「三共」の初代社長で、アドレナリンの抽出に成功した人物だ。私は大学を卒業後、三共に入社した。在職中、高峰氏の化学者としての功績について会社の上司や海外の取引先から聞き、関心を抱いた。
 その後、10年ほど前に会社を辞したのを機に、その生涯を探ると高峰氏がポトマック川の桜に深くかかわっていたことを知った。がぜん興味をひかれ、近代の日本で活躍した人物を研究する「近代日本の創造史懇話会」の中で本格的に調査を始めた。
 高峰氏は化学者であると同時に、日米友好に尽力した人物でもあった。消化薬「タカヂアスターゼ」の発明と、「アドレナリン」の結晶化という偉業を成し遂げ、その利益を投じて、ニューヨークを本拠地に「無冠の大使」と呼ばれるほど日米の親善に力を入れていたのだ。
 ただ、こうした活動が桜を贈ることに直接結びついたわけではない。そこには2人の米国人女性との出会いが大きくかかわっている。1人は米国の紀行作家で、写真家でもあったエライザ・ルアマー・シッドモアさんだ。シッドモアさんは明治初期、日本を旅行し向島の桜に感銘を受けたという。1885年にワシントンに戻り、桜の植樹を25年にわたり訴え続けていた。
 もう一人は、第27代大統領ウィリアム・ハワード・タフトの夫人、ヘレン・ヘロン・タフトさんである。シッドモアさんは、タフト夫人に1909年4月「ポトマックに桜を植えてほしい」という手紙を送っている。すると、そのわずか2日後、タフト夫人から「ぜひやりましょう」という内容の手紙が返ってきたのだ。

「25年間の待望」実現
 こうして動き始めたポトマック川への桜の植樹に、当時、総領事の水野幸吉氏とともに、ワシントンに滞在していた高峰氏がかかわることになる。桜の植樹の話を耳にした両氏はすぐにタフト夫人に面会している。
 予算の都合などから、計画では1,000本の桜を植える予定だったようだが、高峰氏はこの時、「その地区を桜でいっぱいにするためには2,000本が必要でしょう」と提案している。シッドモアさんが25年にもわたり待望していた桜の植樹は、1週間で実現が決まった。
 早速、高峰氏らは動き出す。しかし、個人からの寄贈では、事態か複雑になる。そこで水野氏が、東京市からワシントン市、両国の首府のやりとりという形を取ることを思いついて、外務省経由で尾崎氏に打診したのである。現在も「東京市からの寄贈」と記憶されているのは、このためである。
 一方で、植樹は一筋縄ではいかなかったようだ。1909年8月に東京市が10品種の桜の苗木を業者に指示し、準備を進め、2,000本を翌年の1月にワシントンに届けている。ただ大きな問題が起こった。苗が大きすぎ、重量を減らすため、大きい根が切り取られていた。
 さらに、すべての苗木か病害虫に感染していることも判明。それらの木はすべて焼却処分されることになった。関係者の落胆は相当なものだっただろう。
 日本の外務省は、威信をかけて再度この事業に挑む。苗木の生育から始め、青酸ガス薫蒸で害虫駆除を行った。1年以上にわたり、苗木を大切に生育し、ようやく1912年2月にワシントンに輸送された。

プレートには名前なく
 それから1ヵ月後の3月末、タフト夫人やシッドモアさんが参列する中、植樹式が開催された。高峰氏、水野氏は出席しなかった。裏方に徹するためである。
 また、桜のそばには記念のプレートがあるのだが、プレートには高峰氏やシッドモアさんの名前は記されていない。植樹に尽力したのに、彼らの名がないのは残念でならない。
 あと1カ月ほどしたら桜の時期となる。100年前に、日本の顔ともいえる、その桜を通して日米親善に尽くしながら、歴史の陰に隠れがちだった高峰氏らに、もっと光が当たることを願っている。
(記事:平成24年2月29日/日本経済新聞/文化欄)

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