ラフカディオ・ハーンとニューオーリンズ万博 ~日本との出会い~

連続テレビ小説(“朝ドラ”)は、1961年からNHKが平日朝に放送する1話約15分の連続ドラマで、『大河ドラマ』と並び日本を代表するドラマ番組です。メディア露出も多く、スポーツ紙などで毎週のあらすじや視聴率が掲載されます。

2025年9月末から始まった第113作目の作品は「ばけばけ」、明治時代の松江を舞台に、異国からやってきた作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を支えた妻・セツをヒロインのモデルにした物語です。

1904年撮影のラフカディオ・ハーンと妻セツ(パブリックドメイン)

ハーンが初めてアメリカから日本へ渡ったのは1890年4月。
そして同じ年の11月、入れ替わるように日本を発ってアメリカへ向かった日本人がいました。

それは、高峰譲吉です。

実は、ハーンと高峰の接点は極めて濃厚でありながら、「直接会った」と言い切れる一次記録はまだ見つかっていません。ただし、互いの存在を認識していたことは間違いなく、そう考えられる根拠も二つあります。

ひとつは、1890年の“すれ違い”から数年前にさかのぼる、1884年から85年にかけて開催されたニューオーリンズ万国博覧会です。1884(明治17)年4月19日に政府は万博への参加を決定し、急ピッチで準備を進めました。一カ月後の5月21日には現地の事務官として、高峰譲吉(農商務省御用掛准奏任)、玉利喜造(駒場農学校助教授)を任命し、9月28日に現地に向けて出発させました。その後、10月25日に文部省からの要請により日本の教育の紹介に従事する事務官として、アメリカ留学経験のある服部一三(東京大学幹事)が任命され、二人の後を追って現地へ向かいました。

  • 高峰譲吉の辞令 出典:国立公文書館

会場では、高峰・服部・玉利が実務に当たり、展示品の解説や各所での演説を行うとともに日本の文化を紹介しました。ハーンは、日本館の展示に大変興味を持ち、万博会期中、足しげく通い取材を繰り返し行いました。その中でもとりわけ、文部省出品の陳列と説明を担当した服部はハーンとの関係が深まり、後の来日を支えました。

ハーン(1850年生)、服部(1851年生)、高峰(1854年生)、玉利(1856年生)、いずれも当時30代の同世代であり、高峰とハーンも同じ会場・同じ空間にいた可能性は極めて高いといえるでしょう。

もうひとつは、高峰が晩年に語った次の評価です。

「政府は日本に利益ある紹介者を優遇するの途を設けられたき事。多くを言わないが、往年、日本の美点を紹介すべく英文著書を公にせられた彼のラフカディオ・ハーン氏が、偏狭なる文学者等に容れられないで、不遇に終わられた。その人に対して国家から何の恩典もなかったことの如きは、決して誉められないように思う。」

引用:塩原又策 『高峰博士』 1926年 83ページ

ハーンを「日本を世界に伝えた人」と評価し、国としてもっと大切にすべきだった――という高峰の悔しさと提言が、短い言葉に凝縮されています。

このように近くて遠い二人ですが、今回のドラマ放映を機に、当研究会の前理事長による論考をあらためて公開します。10年以上前の寄稿文ですがハーンが来日に至る経緯と、来日後の日本での環境・交流を、一次資料にもとづいて丁寧に描いた内容です。

ハーンはいつヘルンになったのか

明示の群像・断片「その8」
ハーンはいつヘルンになったのか
石田三雄(2012)
※PDFファイルで読む方はこちら

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おわりに

譲吉とハーンの接点は濃いものの、「対面の一次記録」は未発見です。この余白が、二人の関係を考える入り口になるかもしれません。もし当時の新聞・書簡・日記等で “Hearn(Heron)/Takamine(Jokichi)” が並ぶ記述をご存じの方がいれば、ぜひ情報をお寄せいただければ幸いです。

今月半ばに、大阪・関西万博が幕を閉じました。万博はいつの時代も、人と人を結び、国の“いま”を映す舞台です。明治のニューオーリンズで始まった若者たちの物語は、その後それぞれの道をたどり、やがて同じ東京に帰ってきます。

最後に、三人の墓所に触れて本稿を締めます。ハーンは松江、熊本、神戸を経て東京に移り住み、今は妻セツと共に雑司ヶ谷霊園に眠っています。

  • 同じ区画内に小泉八雲とセツの墓石があります。

そして、高峰と服部は同じ青山霊園に墓石があり、二人の墓石は徒歩5分も離れていません。

  • 雨上がりの高峰墓所には先客がいました。

東京・青山霊園:高峰譲吉(1種ロ15号3側4番)/服部一三(1種イ6号1側)

今回の記事を執筆するにあたり、改めて双方の霊園をお参りしましたが、海を越えて万博で結ばれた彼らの縁が東京の土の下でも静かに続いているように感じた一日でした。

作成:令和7年10月23日/文責:事務局

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