高峰譲吉とレオ・ベークランド ~「近代バイオテクノロジーの父」と「プラスチックの父」との化学で結ばれた強い絆~
「○○の父」とは、まだ世の中に存在しなかった技術や概念を初めて実現し、それを社会に役立てた先駆者たちのこと。単なる研究者にとどまらず、自らの発明を実用化し、時代を動かした人物に贈られる敬称です。
そんな「○○の父」同士が、国境や専門分野の壁を越えて深く交わった例は、歴史の中でもそう多くはありません。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、まさにそんな奇跡のような交流がありました。それが、高峰譲吉とレオ・ベークランドです。
当時、譲吉はアメリカ化学会(American Chemical Society, 略称ACS)という世界最大の科学系学術団体に所属し、活発に研究者たちと交流していました。譲吉はベークランドと共にACSのニューヨーク支部に在籍し、同じ場で学び、語り合っていたのです。
ベークランドは、1907年に世界初の合成プラスチック「ベークライト(フェノール樹脂)」を発明し、その後「プラスチックの父」と呼ばれることになります。ベークライトは、加熱すると固まって二度と溶けない熱硬化性プラスチックです。熱に強く、電気を通さず、丈夫なのに安価で製造ができるバランスのよさが最大の特長です。紙や布にしみ込ませて固めた積層板として使われることが多く、プリント基板や配電盤など電気・電子部品の絶縁材料としても活躍します。ただし一度固まるとリサイクルが難しく、水や紫外線に弱い点が課題です。
一方、譲吉もまた、タカジアスターゼの発明により「近代バイオテクノロジーの父」と称されるようになりました。このHPではお馴染みですが、タカジアスターゼは消化を助ける効果があり、安全性と利便性が高い胃腸薬として重宝されています。
ただし、彼らがこのような称号で広く語られるようになるのは、ずっと後の時代のことです。彼らが同じテーブルを囲み、肩を並べていた当時、世間はまだその偉業の本当の価値を知らず、本人たちですら自分たちが“レジェンド”になるとは想像していなかったかもしれません。
だからこそ、後に「○○の父」と呼ばれるふたりが、同時代を生き、自然な友情を育んでいたという事実は、今の私たちから見ると奇跡のように感じられます。
1911年、譲吉はベークランドから日本におけるベークライト特許の専用実施権(独占的な権利)を受け、工業化に乗り出しました。この事業はのちに受け継がれ、現在の住友ベークライト株式会社へとつながっていきます。ベークライトは発明から100年以上経った今も、自動車や鉄道、航空機から医療分野まで、幅広く活用され続けています。
ちなみにベークランドは、1924年にACSの会長に就任し、1978年には全米発明家殿堂入り。一方、譲吉も時を超えて、2024年に同じく殿堂入りを果たしています。長い時を隔てて、またひとつの共通点が加わりました。
さて、このベークランドは渋沢栄一と同じく大変な「筆まめ」でもありました。
1907年から1942年にかけて、実に62冊にも及ぶ日記を残しています。それらは現在、ワシントンD.C.のスミソニアン国立アメリカ歴史博物館に所蔵され、ボランティアの手によって全ページの内容がテキスト化されています。今ではオンラインで誰でも閲覧可能となっています。
その内容は、時代の空気や研究の詳細だけでなく、化学者仲間との交流や何気ないユーモア、第一次世界大戦で息子を送り出す父としての苦悩まで、本人の息づかいが感じられるものばかりです。この貴重な歴史資料に譲吉の名前は、1907年の日記(1)から1923年の日記(35)に、計62回登場します。研究会はこの交友の歴史的重みに注目し、日記全体から譲吉が登場するすべての場面を抽出し、翻訳を行いました。
実は、この作業の中で偶然気がついたことがあります。一部の日記では「Takamine」が「Tahamine」とテキスト化されており、おそらく筆記体による「k」と「h」の読み違いが原因と思われます。ベークランドの手書きは読みづらく、形もよく似ているため、ボランティアの方々による解読作業でもこのような誤認が生じたのでしょう。そのため、正確には「Takamine」または「Tahamine」として登場する日が合計62日間ということになります。
ベークランド日記(翻訳)はこちら
※翻訳は意訳ですので、必ずしも正確ではない部分がある可能性をご了承ください。
今回は、その中から譲吉とベークランドが同行した2つの旅行(1回目はプライベート、2回目はビジネストリップ)に焦点を当ててご紹介します。
日記に初めて「ベークライト」という単語が登場したのは1907年6月18日のことです。まだ公には情報は公開されていませんでしたが、特許の申請はすでに行っていたようです。
その後、ベークランドが初めて「ベークライトの合成・構造・用途」に関する自分の論文を公に発表したのは、1909年2月5日です。この日の日記は、以下の文章で〆られています。
前略
0時30分発の列車に乗り、セリーヌに会って帰宅したが、眠れなかったのでこのメモを書いた。今夜、私は子供のように嬉しく感じた。仲間の化学者たちと自分を比較することが楽しい。しかし、私の仕事への功績は、ただ、適切な経験を経たうえで、ちょうど良い年齢にあったときに、正しい視点でベークライトに出会えたという事実だけである。私の周囲、特にセリーヌの協力によって、私は大いに支えられている。午前4時10分、こうしてこの文章を書いているが、このような興奮する夜だが、世界でベークライトのことを考えているのは、私だけなのだろう。
セリーヌはベークランドの奥さんです。自分の発明した製品が、世界に羽ばたくという期待と興奮が率直に綴られていて、ベークランドの人柄が身近に感じられます。
同じ1909年の5月、彼と譲吉は船旅を共にします。
5月8日の日記には「譲吉とキャロラインと昼食をとっていた際、譲吉を説得して彼らの予定していた旅行を、SS・クルーンランド号に私と共に乗るように変更させることに成功した!」と書かれています。
SS・クルーンランド号は、ニューヨークとアントワープ(ベルギー)を航路とする豪華客船です。ベークランドはベルギー出身で、26歳の時にアメリカに移住しました。自分の祖国への旅を一緒にしよう、と譲吉を説得したのでしょうか。譲吉たちはアリゾナとメキシコへの旅行を予定していましたが、すぐにキャンセルしてベークランドとの旅行に変更する様からは、彼らの親密さが伺えます。
船旅の間も日記は更新されています。
同船した化学者仲間達との研究内容の情報交換や、譲吉が提案した「賭け」についても触れています。参加費をプールして、賭けの勝者が賞金を総取りします。内容は残念ながら書かれていませんが、ベークランドが連続で勝利したようです。
ワイリー※1は賞金を2度収めた私を見るたびに「強盗」と叫び、エリオット※2は私を「盗賊」と呼ぶ。船が揺れたり、船酔いする人も数人いたりと、常に陽気なからかい合いが続いていた。
※1 ハービー・ワイリー アメリカ食品医薬品局の初代長官
※2 エリオット コンソリデイテッド・ガス社の社長
また、別のある夜には、こんな内容が綴られています。
旧式のポートワインを一本取り出し、喫煙室で若々しい雰囲気の中、深夜まで楽しく会話を交わした。その間、ワイリー、バスカーヴィル※3、高峰、ボーマンがポーカーをし、今は亡き化学者たちの思い出話に花を咲かせた。その後、私はキャビンに戻り、約1時間ほど手紙やメモを書き綴った。本当に楽しい旅となっている。
※3 チャールズ・バスカーヴィル 化学者
登場する人物が、名だたる化学者や文化人ばかりです。しかし、客船に乗りながら賭けに興じたり、ポーカーをしたり、思い出話をしたりと、友人同士のいつも通りの情景が目に浮かびます。
ヨーロッパに到着してからは別行動だったようです。到着後の日記に譲吉の記述はありませんでした。
2回目の旅行は場面が変わって、1914年です。
ベークランドは1909年の論文公表翌年、ゼネラル・ベークライト社を起ち上げました。
そして1911年には、譲吉に日本でのライセンス、専用実施権を与え三共合資会社(現在の第一三共株式会社)の品川工場で試作製造が開始されました。譲吉は初期から、日本ベークライト社を計画していたことが日記から伺えます。
製品の応用研究を重ねる日々が過ぎ、1914年になると譲吉は日本人技師をアメリカに呼び寄せ、直接ベークランドと面会させ、アドバイスを求めることもありました。
ベークランドは、「もし日本側が費用を持ってくれるなら、日本に行って直接指導しても良い」と提案し、譲吉は「世界一周の旅費を全額負担する」と回答、1914年8月にベークランドの初訪日が実現します。
ニューヨークから陸路でサンフランシスコに向かい、サンフランシスコからは浅野総一郎が心血を注いだ大型客船「天洋丸」で日本を目指します。
そして、ついに1914年8月6日、横浜港に到着します。
到着日とその翌日に、三共の塩原又策、関東酸曹の田中栄八郎、浅野商会の近藤会次郎、東京大学の桜井錠二、東京ガスの高松豊吉など、譲吉の人脈を一気に紹介し、面会しています。
2日後の8月8日には、東京の王子にある関東酸曹本社を訪問しています。後に、譲吉が渋沢栄一の飛鳥山邸に招かれて講演した際、日米の共同事業の仲人となって、各社を紹介しているという内容を話していますが、まさにこの関東酸曹とベークランドのことを指しています。関東酸曹は、譲吉、渋沢栄一、益田孝が創立した東京人造肥料会社と合併し、現在は日産化学株式会社となっています。
また、日本化学会の会員70名が集ったパーティーでは、ベークランドは譲吉が提唱していた国民的化学研究所設立の必要性を後押しする講演を行ったそうです。近藤博士が完璧に翻訳してくれた、と本人が記しています。この計画は3年後に実現し、現在の理化学研究所が設立されました。
譲吉とその関係者が万全を尽くして整えたベークランドのビジネストリップは約3週間ほどの滞在となり、8月31日に大勢の見送りの元で帰国の途につきました。
しかし驚くべきことに、わずか1か月後の9月30日には、譲吉とベークランドはニューヨークで再び仕事の打ち合わせを行っています。まだ飛行機がなく、船で太平洋を越えるには数週間を要した時代に、彼らは再びすぐに顔を合わせ、プロジェクトを進めていたのです。
譲吉とベークランドのあいだには、友情やビジネスの枠を超えた深い信頼がありました。そこには化学者として互いを敬い合い、共に未来を築こうとする矜持が感じられます。
その絆はやがて、個人の関係にとどまらず、事業や社会にも広がっていきました。彼らの生き方は、これからを生きる私たちにとってきっと大切な手本になるはずです。今こそ彼らのアントレプレナーシップを学ぶ時ではないでしょうか。
記事作成:令和7年5月27日/文責:事務局