断たれたウイスキー醸造の夢、臥薪嘗胆の末に掴んだ功績 ~ピオリア時代の高峰譲吉~

1890年、アメリカで「(麹による)酒精製造法」の特許が成立した翌年、高峰譲吉は米国の業界最大手ウイスキートラスト社にその特許を認められ、導入実験のための技術指導に来てほしいと依頼されました。

日本では第一回衆議院議員総選挙が行われ、渋沢栄一や益田孝らと起ち上げた日本初の化学肥料会社「東京人造肥料会社」が創業して3年が経った頃でした。譲吉は36歳でした。

当時、アメリカにおけるウイスキーの全醸造高の9割以上を占めていたのはシカゴでした。そのシカゴから南西に210キロ、ピオリアという人口約5万人の町がウイスキートラスト社の本拠地でした。シカゴから見ると小さな地方都市にすぎないピオリアは、住民のほとんどが醸造業に関わって生活するという、酒造りの町であったそうです。譲吉は、日本でいうなら摂津(兵庫県)の灘地方のようなものだ、と後に語っています。

譲吉はアメリカ人の妻・キャロラインと二人の子供を連れて、まずはシカゴに到着しました。そしてウイスキートラスト社のシカゴ試験場で繰り返した実験が成功を迎え、本拠地のピオリアにて大規模実用化の途に着くことになるのです。

1891年2月20日、地元紙シカゴトリビューンで譲吉のウイスキーが記事になりました。恐らく、これが公への最初の報道だと思われます。

 

記事は以下の見出しで始まります。

ウイスキーが安くなる
新しい、より良い製造プロセスの発見
-旧方式に比べて15%から25%の節約が可能に-
-高峰という日本人が発明-
-彼はその秘密を「トラスト」に売る-
-すぐに利用される見込み-
-小売価格の引き下げの展望-

1891年2月20日 The Chicago Tribune

 

記事の内容を簡単に紹介すると、こんな感じです。

・日本人の高峰譲吉が開発した新しいウイスキー製造プロセスのおかげで、ウイスキーが今よりも15%から25%安くなる可能性が出てきたこと
・この発明により、同じ量のトウモロコシからより多くのウイスキーが生産できるようになり、製造コストが大幅に削減される見込みであること
・この新プロセスは、ウイスキー・トラストが独占権を取得しており、すぐに実用化される予定であること
・近い将来、良いウイスキーを10セントで楽しめる日がやってくるかもしれないこと

ピオリアに移り住んだ譲吉の住居に関する情報が寄せられましたので、現在の地図と見比べてみます。

譲吉一家は、2111 NE Jefferson Ave, Peoria, IL(イリノイ州ピオリア、ジェファーソンストリート、北東、2111)に住んでいました。
当時の写真も残っています。

出典:Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954): Biography and Bibliography William Shurtleff, Akiko Aoyagi

 

この住所をGoogleMapのストリートビューで見てみると・・・驚きました!
2019年までは、当時のままと思われる建物が映っているのです。しかし、残念なことに2023年には、地域の再開発が進み駐車場となってしまいました。

  • 2019年の現地

100年以上経った建築物ですが、地震の少ない米国では無事に残存していたようです。譲吉一家はこの家に住みながら、ウールナーグローブ蒸留所内の研究室を行ったり来たりする生活を送っていました。

 

過去の写真や現在のストリートビューを比較することで、歴史の一端に触れることができるというのは、現代の技術がもたらす興味深い体験です。

さて、譲吉が提唱したアルコール製造方法は画期的であったため、地元のモルト業者は価格競争に負け、仕事を奪われると猛反発。譲吉には嫌がらせが続き、脅迫状が届く日々でした。そんな中、実用化が目前というところで、原因不明の火災事故が試験棟で起き、すべてが燃え去ってしまいました。

火事でこれまでの成果をすべて失った譲吉に追い打ちをかけたのは、「高峰は自分の失敗を隠すためにわざわざ自分で火をつけたのだ」という地元業者のデマでした。

 

私が渡米以来トントン拍子に成功しつつ来たかの如くみられる人もあるか知りませんが、是までにするには、幾失敗に失敗を重ね、困難に困難を積み、数えきれぬ程の苦辛を嘗めて、ヤットここまで漕ぎつけたのです。それを忽ち一夕に焼失して仕舞ったのです。私は實にこの時程失望落胆したことはありませんでした。本当に男泣きに泣きました。

出典:高峰博士(伝記・高峰譲吉) 1926 塩原又策 P186-187

※高峰譲吉を描いた伝記で最も古いのが、1926年に塩原又策によって書かれたこの「高峰博士(伝記・高峰譲吉)」ではないかと考えます。文中には、日本醸造協会の記者が帝国ホテルで譲吉に直接取材した内容が紹介されており、譲吉本人が語る貴重な資料です。多くの作家やジャーナリストがこの書籍を一次資料として、高峰譲吉の伝記を執筆しています。

 

そんな中、不幸は重なるもので失意の譲吉を襲ったのは、二度目の肝臓障害でした。

実は渡米の際、横浜港からサンフランシスコ港までのおよそ20日間の船旅の船内で、最初の肝臓障害が起こりました。この時もかなり重症で本人は遺言状まで書いたようです。

 

横濱を出帆してから三日目に、突然非常な大病に罹って、肝臓部に激烈な疼痛を感じて、殆ど堪へ切れぬ程で、とても命のないものと覚悟して、桑港に着く前に遺言状を認めました。然るに命数未だ尽きずして、斯様な重病もどうやらかうやら軽快して、上陸ができ、汽車でシカゴへ赴きました

出典:高峰博士(伝記・高峰譲吉) 1926 塩原又策 P178-179

 

譲吉は肝臓に腫瘍があると診断を受けました。しかしピオリアの病院には、腫瘍摘出の大手術に備えた設備はありませんでした。

シカゴの病院まで行ければ望みはあるものの、患者を動かすことは危険で、まして自宅からピオリアの駅までの悪路を馬車に揺られるのは危険すぎる、と医師に言われてしまいました。とはいえ、このままでは、間違いなく命を落とすことになります。

 

キャロライン夫人は決然として、何れにしても死を免れないものならば、せめては心残りなき様にシカゴに伴ひたしと述べ、夫人自ら奔走して特に汽車を博士の宅前に停車せしめ、動もすれば虚脱に陥らんとする患者を励まして力つけ夜シカゴに着すると直に病院に輸送し、夜陰ながら特に医局に請ふて直に手術を受けしめた、其熱烈にして敏活なる働きは人をして感動せしめざるはなく、当時知ると知らざると皆推して美談と為したといふことである。

出典:高峰博士(伝記・高峰譲吉) 1926 塩原又策 P57-58

 

自宅そばにはシカゴへ向かう汽車が通る線路がありました。
キャロラインは、汽車を踏切付近に臨時停車させ、譲吉をシカゴに運ぶことを決断します。

130年前と同じものかはわかりませんが、もしこの話が事実であるならば、この付近でキャロラインは「汽車を停めた」ということになります。

この路線はピオリア-シカゴ間を走る私鉄で、ウイスキートラストの貨物の運賃は大きな収入源でした。どうやって汽車を停めたのか、子どもたちはどうしていたのか、その日の様子が詳しく書かれている資料は見つかっていません。しかし、その状況を想像すると譲吉とキャロラインの強い絆を感じます。

キャロラインは譲吉とともに停車させた汽車に乗り込み、シカゴを目指します。シカゴに到着してからも奮闘し、譲吉は名医ヘンロ―ティン博士の手術を受け、見事快方へと向かいます。6か月ほどで全快した譲吉は、ウイスキー醸造を諦めずに20か所の製造工場建設をウイスキートラスト社のグリーンハット社長と約束します。

 

この難病も其の後流石に療養した甲斐あって、仕合にも六か月の後に全快して、再び健康体に復したので、又々醸造に取り掛かることになって、今度はいよいよ最後の試験として一日に千石ずつ醸造する計画を立て、工場の設計万端を悉く私の思う通りにする筈で、マンハッタンと云うところに模範工場を新築し、それから外にも二十か所の製造場をこの模範工場に倣って模様替えすることに決定したので、私の歓喜は申すまでもなく、多年手伝ってくれた人々も、辛苦の甲斐があったと言って皆々喜びました。

出典:高峰博士(伝記・高峰譲吉) 1926 塩原又策 P188

 

しかし、喜んだのも束の間で、ウイスキートラスト社は株主が分裂し法人の解散が決定してしまいます。

 

ところが、今度トラスト会社の株主の中に、不平家の一派が出来まして、一年以上も掛けて内々運動した結果、いよいよ会社の役員改選と出掛けたのです。そこで、役員達の方でも過半数の株を纏めてその地位を維持しようとしたが、とうとう不平家連の為に敗北して、臨時総会の結果、役員の不信任案が通過し、おまけに些細の事柄を理由として会社を瓦解することに至ったのです。

出典:高峰博士(伝記・高峰譲吉) 1926 塩原又策 P189

 

ついに、新方式の醸造方法開発は完全に中止となってしまいました。この後、米国に来た一番の目的であるウイスキー事業が完全に頓挫し、譲吉一家の最も苦しい時期となります。シカゴに戻った譲吉はキャロラインも内職をして家計を支えたそうです。

 

ピオリアを引き上げてシカゴに移転した高峰博士は、真に窮乏の極みに達して居った。それでも流石は博士である、動力の付属したる借家を為し、日本人並びに白人の助手数人と共に日夜研究に没頭して居た。

出典:高峰博士(伝記・高峰譲吉) 1926 塩原又策 P62

 

譲吉は、キャロラインの献身的な支えと自らの粘り強さでピオリア、シカゴで直面した困難には屈せず、新たな挑戦を続けました。また、この時期はアメリカでは「黄禍論」が出始めており、自身が渦中にあっても日米関係の将来を案じていました。

譲吉の生き方は、未来を担う若い世代に、自らの力で道を切り開く勇気を与えてくれます。彼の足跡を辿りながら、新しい時代を創り出していくことを期待しています。

記事作成:令和6年10月11日/文責:事務局

 

譲吉のその後については以下の各ページをご参照ください。

高峰譲吉博士とシカゴ領事館
タカジアスターゼの発明と三共商店
世界初、アドレナリンの抽出結晶化

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