渋沢栄一と高峰譲吉 番外編 ~北区での繋がり~

今回は、渋沢栄一翁と高峰譲吉の関わりのうち「東京都北区」にフォーカスした内容を番外編として紹介いたします。
過去の記事はこちら:その1その2その3その4その5

2024年9月、北区堀船中学校で金沢工業大学の学生たちによる移動科学実験教室が開催されました。これは、渋沢栄一ゆかりの北区と高峰譲吉の北陸(高岡・金沢)との関連行事として3年目を迎えるもので、両者の縁が地域のつながりにも深く影響を与えています。金沢工大の相良准教授、そして堀船中学校の阿久津校長の先進的で柔軟な対応により、一連の交流行事開催が実現しています。

東京都北区立中学校と高岡市立中学校でオンライン交流会!

第1回「高峰譲吉プロジェクト科学実験教室 ~麹菌の可能性を探る~」開催の報告

第2回「高峰譲吉プロジェクト科学実験教室 ~麹菌の可能性を探る~」開催の報告

JR王子駅からほど近い醸造試験所跡地公園には、日本酒造りの近代化に大きく貢献した歴史的建造物として、国の重要文化財に指定されている「赤煉瓦酒造工場」が残っています。正式名称は「旧醸造試験所第一工場」。この象徴的な赤レンガは、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造会社によって作られたもので、設計は大蔵省の技師であった妻木頼黄(つまきよりなか)が手がけました。

妻木は、東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、迎賓館や赤坂離宮を設計した片山東熊と並んで、明治の三大建築家と呼ばれています。
この三名の建築家は、高峰譲吉と同じく工部大学校を卒業しています。譲吉は辰野、片山と同級生で、妻木は一つ後輩にあたります。渋沢翁と出会うはるか昔に、彼らが虎ノ門にあった大学構内でお互いに話をしていたかもしれないと考えると、不思議な気がします。

ちなみに当研究会の事務所のすぐ近くに、「工部大学校阯碑」があります。関東大震災で倒壊した校舎の廃材で作られた記念碑です。詳しい説明はこちら

さて、この醸造試験所は譲吉の提言によって創られたのかもしれない、ということをご存じでしょうか。

工部大学校卒業後、それぞれの学科を首席で卒業した特典として譲吉と辰野は同じ船でイギリスに留学しています。この船には、計11名の各学科首席卒業生が同船していました。
譲吉は留学した頃から日本の醸造技術は世界に通用するのではと考えており、帰国して農商務省に勤め始めた頃から、醸造研究拠点を日本に設けることを提唱していました。

明治35年(1902)に発行された醸造雑誌に昔を振り返りながら語った内容が書かれています。

農商務省余を聰する意ありと聞き、任ぜられて同省の技師となり、入りては盛に酒造の改良を研究し、出でては醇々当業者に勧告する所ありき。而かも当時余は研究に便する為め、大に醸造試験場の設立の唱道したるも終に採用せられざりし。

この文面からすると、譲吉の提言は農商務省に勤務し始めた明治16年から17年の米国への万博出張前、博士が30歳ごろと考えられます。もともと、母方の実家が蔵元であり幼少期から酒造や醸造に馴染み深かった譲吉にとっては、すでに試験場の価値が見通せていたのでしょう。

その後も、提言を繰り返したものの、

憾むらくは未だ一つの試験場なく、研究の結果を実地に応用して検試せんとするをねがえども能わず、政府は容易に動く色なく、実業家に議れば、しりぞけて曰く、是れ学理のみ机上の空論のみ。一人として顧みる者なし。

そしてついに、その提言が実を結びます。

しかし、此度、帰朝して、政府も覚醒して設立することに決定したという。実に喜ばしきことなりというべし。

こうして、醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良をはかることと、講習会により醸造技術や研究成果を広く普及させることなどを目的に、東京都北区滝野川に明治37年(1904)に創立しました。創立時の技師には、譲吉の工部大学校の後輩で、農商務省時代の部下である肥田密三が選ばれています。

醸造試験所は、平成7年に醸造研究所と改名し広島に移転、現在は独立行政法人酒類総合研究所として研究活動を行っています。

また、北区豊島には1896年から1923年まで関東酸曹株式会社がありました。

この会社は、渋沢栄一が1873年に国産の紙を日本中に供給することを目的として設立した「王子製紙」(1893年に改称)の、印刷局抄紙部製薬課の工場が前身です。

当時、パルプの生産工程に必要な硫酸と曹達(ソーダ)を生産していた部門が改組して、関東酸曹となりました。後に譲吉は、米国の最新技術を持った会社と関東酸曹を結び付けています。

大正7年5月(1918)、譲吉が渋沢栄一の飛鳥山邸に招かれて講演を行った際の演説速記が残っています。ちなみに、飛鳥山邸は曖依村荘(あいいそんそう)とも呼ばれ、単なる私邸にとどまらず、国内外からの賓客を迎えるなど栄一の活動拠点としての「公の場」という性格も持っていたそうです。

青淵先生をこがれ慕うて 工学博士 薬学博士 高峰譲吉

日米両国の実業家が手に手を取つて、何か事業をやるといふことがなければ、其道路も草が生へるといふやうな次第であります。幸にして其種子が段々実を結び掛けて居りまするので、私も此点に於きましては、復た渋沢男爵の御指導に基きまして、此数年来どうかして、実業上殊に今私が多少知つて居りまする所の応用化学、之に関係致しまする所の仕事をどうかして、日米両国の実業家が手を結ばれるやうな工合に、私が仲人となつて進めて行きたいものであると、努めて居る次第でございます。

それで夫等の関係の第一例を申上げますると、丁度此御近所であるから申上げまするが、此王子の関東酸曹。彼処では先日以来、電気力を使つて苛性曹達と晒粉を製造し始めましてございます。其方法は亜米利加でも最新式であつて、最も経済に最も余計造る方法を使用されたのであります。私は丁度幸にも、其フーカーと云ふナイヤガラのフオールに在ります所の会社の連中を能く知つて居ります所から仲人になりまして、今日此王子に於きまして、日米協同の事業が此処に起つた次第であります、四・五日前に米国大使と御一緒に其工場を拝見に往つて伺ひますると、もう工場が出来上つたばかりでやつて見ると非常に能く出来る。それですから是では足らない、此倍にしたいといふので、一昨日の船で技術者が、尚ほ工場を倍にする計画を行ふ為めに二人向ふへ立つて往かれたといふやうな次第であります。それが若し良かつたならば、此工場は大変狭いから、別に何処か分工場を起す積りであると、斯ういふ話でありました。それで是等は即ち亜米利加の最も新しい最も良い方法、亜米利加中でも撰びに撰んだ其方法を、此日本の王子に持つて来て植付けたといふやうな次第。則ち男爵の播かれた種子が、此処で今実を結びつゝありまするのであります。

後にこの関東酸曹は、栄一と譲吉が創業した日本で初めて化学肥料を製造する東京人造肥料と合併し、現在の日産化学株式会社となります。

向かって左:渋沢栄一 右:高峰譲吉 1917(大正6)年、渡米していた譲吉が一時帰国した際の招待会にて。出典:日産化学株式会社

このように、高峰譲吉と東京都北区の関わりは、彼の醸造技術向上への提言や、渋沢栄一との協力による日米協同事業などに深く表れています。彼らの足跡は、日本に産業発展の礎を築き、現代にも続く影響を与えています。

記事作成:令和6年10月29日/文責:事務局

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