1. アドレナリンとは
2. 世界初、アドレナリンの抽出・結晶化
3. アドレナリンの命名と販売
4.アドレナリンの名称をめぐる混乱について

アドレナリンとは

副腎髄質から血流に分泌されるホルモン(高活性成分)のことを指します。1890年代後半頃、欧米では動物の副腎の作用に、研究者達が熱い視線を注いでいました。この副腎成分に、血圧上昇作用や、さらに止血作用があることが分って来たからです。しかしながらその頃は、まだ副腎抽出成分は純粋物ではなく、不安定な状態でしか取り出されていませんでした。当然、アドレナリンという名前もまだ命名されていません。

そのような状況下で、ドイツのフュルト、アメリカのエイベルなどが、純粋で安定した化学物質として精製することを競い合っていました。当時頭角を現していた製薬会社のパーク・ディビス社も、エイベル教授の助手・オルドリッチをスカウトするなどして、この研究に力を入れていました。そして既に「タカジアスターゼ」で実績を積み、信頼関係のあった譲吉に、この研究への参加を要請したのです。

世界初、アドレナリンの抽出・結晶化

アドレナリン結晶化の成功は、譲吉の助手であった上中啓三を抜きにしては語れません。上中は東大医科附属薬学選科で、日本における薬学研究の泰斗といえる理学博士・長井長義教授から、2年余に渡り直々に指導を受け、その後東京衛生試験所に入り、足尾銅山鉱毒事件の鉱毒の検出などを手がけましたが、がんじがらめの「学閥」に嫌気がさし、退所してしまいます。そして1899(明治32)年暮れ、長井教授の紹介により、譲吉の工部大学校化学科の後輩・垪和(はが)教授の紹介状を携えて日本を発った上中は、翌1900(明治33)年2月に、ニューヨークの譲吉を訪ねたのです。

譲吉と上中の研究は、実はあっけない程あっさりと成功してしまいます。上中が書き残した「実験ノート」によると、それは上中が譲吉の元で研究を開始した1900(明治33)年の、7月のことでした。上中は、師である長井長義教授直伝の方法を用いて実験を進めていましたが、7月21日の朝、前夜処置しておいた幾つかの試験管の一つに、小さな瘤状の固まりがこびりついているのを発見したのです。

  • アドレナリンの結晶化を詳細に記述した上中啓三の実験ノート。日本化学会が「化学遺産第2号」に認定(2010年)

それを取り出して、薄い塩酸で溶かしてからその一部をワッチグラス(時計皿)と呼ばれる口が広く底の浅い実験皿に移し、手製の先細ピペットで塩化第二鉄の希薄水溶液を1滴落しました。すると試験液は、さっと海緑色に変わりました。ヴュルピアン反応でした。上中は高揚する気持ちを抑えながら、別の試験液に今度はヨウ素の水溶液を滴下すると、同じくヴュルピアンの表現通り、紅色に変わったのです。

この試験管の中の結晶が、人類が初めて生命体から取り出した「ホルモン」の結晶だったのです。40年以上前にフランスのヴュルピアンが報告した、副腎からの抽出物は塩化鉄との化学反応で常に緑色を呈する…という「ヴュルピアン反応」他の方法で確かめ、これこそ「アドレナリン」の結晶だと確信してもなお、同じ実験を繰り返して確認し、更に当時最高の設備を誇ったパーク・ディビス社の施設に送って活性検定検査を受けているのです。このパーク・ディビス社の研究施設との協力体制があったことも、幸運でした。それは勿論、譲吉とパーク・ディビス社との信頼関係があったからに他なりません。

アドレナリンの呈色反応(ヴュルピアン反応) ㊧ヨウ素水溶液  ㊨塩化第二鉄液を添加

アドレナリンの命名と販売

こうして結晶化に成功した物質は、同年11月7日に、譲吉の友人、ウィルソン博士の提案により『アドレナリン』と命名されました。同時に譲吉はアメリカでの特許を申請し、翌年1月には英国にも申請しています。

  • 米国特許:アドレナリンの製法 特許は、結晶を手にしてから約3カ月後の1900年11月5日に出願されました。アドレナリンは生体の一部分であり、公知の文献もあるので特許性がないと、マルフォード社が異議を申し立て、激しい法廷闘争が繰り広げられました。双方の証言に耳を傾け、化学の訴訟資料を猛烈に勉強したハンド判事は、天然物であっても製法に進歩性があると判決して譲吉に特許を与えたのです。この判決は、バイオテクノロジー関係の歴史的判例となりました。

上中は結晶化成功からすぐ、今度はアドレナリンを商品として仕上げる研究に専念します。一方パーク・ディビス社も商品化に向けて動き出し、やがて1901(明治34)年、安定した品質のアドレナリン液剤が発売されると、医師の鞄には常に一瓶入っているという状況になって行くのです。

日本では早くも2年後の1902(明治35)年、三共商店(後の三共株式会社、現・第一三共)から発売されています。100年以上を経た現在も現役で使用されている医薬品は非常に少なく、そのうちの2つ(※タカジアスターゼとアドレナリン)が譲吉の手によるものであるということは、いかにこの業績が偉大であったかということを如実に示しています。

※ 厳密に言うと、タカジアスターゼと同じ手法で作られる複合消化酵素を指します。タカジアスターゼは菌株と培養法で、厳密な組成は千変万化なので、手法が100年を超えても使われていることが偉大だと思います。(石田三雄 研究会前理事長)

 

  • 発売当初のアドレナリン液剤が入った米国パーク・デイヴィス社の新製品紹介。1905年、「Pharmacal Notes」より。アドレナリン(右下)の適応症に花粉症(Hay Fever)が明示されている。左上の商品は防腐剤。

 

アドレナリンの名称をめぐる混乱について

アドレナリン(副腎髄質ホルモン)は、分離・分析技術が未発達の時代の最初のホルモンであったため、上中と高峰が純粋に取り出して化学物質として確認するまでの道のりは極めて困難で長く、それに対する命名にも紆余曲折ありました。1926年、米国において「アドレナリン」は「エピネフリン」という名称で薬局方に初めて収載されました。なぜ「アドレナリン」ではなく活性成分としては不完全な「エピネフリン」が副腎ホルモンに対する薬局方名に採用されたのでしょうか。

日本の多くの学会、行政、企業の関係者を長い間悩ませてきたこの問題を解く鍵がようやく見つかりました。詳しくは、こちらの寄稿をご覧ください。

アドレナリンの軌跡 -辣腕助手とパーク・デイビス社の思惑-

この資料により、書籍やインターネットで散見される高峰がエイベルのアドレナリン製法を盗作したという疑惑や、エイベルが高峰の功績を自身の命名したエピネフリンで上塗りしようとした説は正しい認識ではなく、真実が明らかになったと言えます。

 

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