エッセー 高峰博士に寄せて

北國新聞社発行の『北國文華』42号(2010年 冬)より

高峰譲吉博士研究会 名誉理事長 山本 綽(ゆたか)/愛知県安城市

21世紀に入った現在も、多くの人々が高峰譲吉博士の恩恵に預かっている。
研究成果は人命を救い、ニューヨークの桜は海を越えた人々をも和ませている。
何より世界をまたにかけて活躍した生涯が、私たちに夢を与えてくれる。

「新しい酵素を見つけたかったら、まずタカジアスターゼをのぞいてごらん」。酵素研究の道に進むと、必ず教わるこんな言葉があります。最初におっしゃったのは、日本の発酵工業の基礎を築いた東大教授の坂口謹一郎博士です。つまり、タカジアスターゼには驚くほど多くの酵素が含まれているという意味と同時に、高峰譲吉博士の開発したタカジアスターゼの素晴らしさを伝えているのです。
つい最近、そのことが証明されました。2005(平成17)年、科学誌「ネイチャー」に日本の共同研究チームがこうじ菌のゲノム研究について成果を発表したのですが、その中でタカジアスターゼから1万2074の遺伝子を見つけたと紹介したのです。タカジアスターゼの発明から100年余り。これほど具体的な数字が示されたのは初めてで、あらためてタカジアスターゼが酵素の宝庫であることに全世界の研究者が驚きの声を上げました。まさに日本の「国菌」です。

米国人から質問攻め

私が高峰博士に深く傾倒するようになったのは、勤めていた明治製糖の研究所から、米国に本社のある製薬会社マイルスの日本支社に移ってからです。
会社に入った翌年、私が米国本社に行くと、あいさつもそこそこに米国人の先輩が「おまえ日本人か。それなら、タカミネ・ジョウキチを知っているか」と尋ねてきました。高峰博士のことは、幼いころに偉人伝の絵本を読んでいましたし、大学と就職した会社でも酵素を研究していましたから、だいたい分かっているつもりで、「子どものころから知っている」と答えました。すると、その米国人先輩は次々と博士の業績やエピソードを語り、質問攻めにしてくるのです。
マイルスで酵素を担当していたのは日本人ではわたし一人でしたが、韓国、中国、台湾、インドなどアジア各国から来た研究員がたくさんいました。彼らもよく「いいかヤマモト。タカミネ博士は日本人だけの自慢じゃない。アジアの誇りなんだ」と言っていました。
輝かしい功績から博士の名を世界の研究者が知っているのは当然でしょう。しかし、有名であることと尊敬に値することは必ずしも一致しません。アジア各国の研究者に「誇り」とまで言わせる博士の魅力は何か。わたしの思うに、それは学者の領域を超えたスケールの大きさと、面倒見の良い人間性でしょう。

ほこら作り無事祈る

周囲の人がいかに高峰博士を慕ったかが分かるエピソードを2つ紹介しましょう。
高峰神社 高峰博士が米国で、こうじ菌によるウイスキー製造に取り組んだ時、助手の一人が日本酒杜氏の藤木幸助です。彼は7年間、博士と苦労を分かち合い、そして、米国で亡くなったもう一人の助手・清水鉄吉の遺骨を持って帰国しました。
故郷の丹波(兵庫県篠山市)に戻った藤木は自宅の横にほこらを作り、博士の写真を納め毎日、無事を祈って手を合わせたそうです。
晩年、博士が日本に一時帰国した時、大阪の講演会場で2人は抱き合って再会を喜んだといいます。その夜、藤木の家に泊まった博士は、ほこらの存在を知り、その横に「藤木幸助翁渡米の碑」を建て、感謝の意を表しました。今、その場所に藤木の家はありませんが、「高峰神社」と呼んだほこらは残っています。
もう一つの話は、つい最近分かったものです。米国のほかに、東京の青山墓地に高峰博士の墓があります。この墓の近くに「高峰英三」「高峰健三」という名前を刻んだ墓があるのです。私はずっと気になっていました。長年、博士のことを調べていますが、親類、縁者にこのような名前の人はいません。それがやっと分かりました。日本でタカジアスターゼやアドレナリンを販売した「三共」の社長・塩原又策の子孫の墓だったのです。
塩原には12人の子どもがいて、下から二番目(男子)の健三に高峰姓を名乗らせたのです。博士と固いきずなで結ばれた塩原は、博士が日本に戻らないと知ると、高峰の姓を絶やしたくないと思ったのでしょう。だが、姓を継がせた健三が若くして亡くなったので、今度は一番末(男子)の英三に高峰姓を名乗らせたのです。

野口英世も敬愛

高峰博士の墓 米国にある高峰博士の墓は、ニューヨーク・ブロンクスのウッドローン墓地に建っています。この墓地は、トランペット奏者のマイルス・デイビスやジャーナリストの父として知られるジョゼフ・ピュリツァーら名だたる人が眠る墓地として有名です。ただ、科学および発明の分野は4人しかいません。そのうちの2人が日本人で、高峰博士と野口英世です。
私がこの墓を初めて訪れたのは2000(平成12)年ごろでした。高峰博士の墓は高さ4メートル以上もある立派なもので、そこには「近代バイオテクノロジーの父」と紹介されていました。博士の業績をこれほど的確に表した言葉はないと感動を覚え、米国人の博士に対する評価をあらためて知りました。
しかし、高峰博士没後80年余りたった今、その評価は薄れてしまったと言わざるを得ません。2005年に再訪した時も、管理人から「野口の墓参りか」と聞かれ、「そうじゃない、高峰博士だ」と答えると、管理人は怪訝な表情を浮かべました。野口の墓参をする人はちょくちょくいるようですが、博士の墓を参る人はめったにいないようです。
野口がロックフェラー医学研究所に招かれて米国にいたころ、彼は名もなき一人の研究員でした。生活も苦しかったようで、高峰博士の創設した日本倶楽部によく通って食事をしたり、博士の主催する晩餐会に招待してもらったりと、大変世話になったようです。博士の名声は世界に広がっていました。野口は研究者としても国際人としても一流の博士をあこがれの目で見つめていたに違いありません。野口が米国人の妻をもらい、墓も同じ墓地にしたことは単なる偶然でないでしょう。
タカミネ・ラボラトリー 高峰博士は晩年の1914(大正3)年、米国にタカミネ・ラボラトリーをつくりました。世界最古の酵素メーカーの研究所です。何の縁か、私の勤めたマイルス社がこれを買収し、タカミネ・ラボラトリーから引き継いだ酵素事業、乳製品事業、有機酸事業、でんぷん加工などバイオ関連事業を私が担当したのです。タカミネ・ラボラトリーにかかわった同僚も次々亡くなり、今では私一人になってしまいました。
50年近く酵素研究に身を置いた私としては博士のおかげで今日あると感謝に堪えません。これからも、人に幸福をもたらす化学の追究と国際親善に生涯をかけた博士の足跡を紹介していきたいと思っています。目先の利益だけを追う研究者、企業人が目立つ現代において第二、第三の高峰博士が生まれ出ることを願ってやみません。

(作成:平成22年6月30日/文責:事務局)

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