バイオテクノロジーの父、高峰譲吉

山本 綽(ゆたか) (新日本化学工業株式会社 顧問)/当NPO法人名誉理事長

 高峰譲吉の墓はニューヨークのブロンクスにあるウッドローン墓地にある。広大で有名な墓地であるがその案内書に寄れば「科学・発明」の分野でここに眠っているのはたった4人である。そのうち二人は日本人で高峰譲吉と野口英世である。案内書には高峰は「近代バイオテクノロジーの父」として紹介されている。このことは日本ではあまり知られていないが、日本人として大変誇りに思うことである。高峰はもちろん世界の酵素工業の創始者であるが、高峰が去り、二人の子息も亡くなったあと、タカミネ・ラボラトリーの酵素事業は米国のマイルス社により継承された。著者がそこに招かれたのは40 年前のことである。
 最初に尋ねられたのは、「お前は日本人か?日本人ならば高峰譲吉を知っているか?」であった。「知っている」と答えたが、高峰の業績について次から次へと質問を浴び、知らないことばかりで日本人として大変恥ずかしい思いをした。以来40年、高峰のことについて多くの先輩から教えを受け、2002年にはマイルス社に保管されていた高峰関連の殆どの資料をいただいた。現役を引退した現在、これら膨大な資料と格闘中である。事実を知れば知るほど、高峰に対する尊敬の念は膨らむばかりである。化学者、発明家、起業家、慈善家、そして日米親善に尽くした民間大使でもあった高峰の功績をその歴史を追いながら新たに発見された事実のいくつかを紹介する。

高峰譲吉 アメリカのペリー提督が黒船にて来航した翌1854年富山県高岡で生れた高峰は生後まもなく父の仕事の関係で加賀藩のお膝元、金沢に移る。教育制度がない時代で加賀藩は藩の優秀な少年を語学研修のために長崎に送る。その一人となった高峰は僅か満10歳であった。佐賀藩の作った致遠館で英語を学ぶが校長はオランダ人宣教師フルベッキであったが、高峰の師はもっぱら大隈重信であった。その後、英語を学ぶために京都や、大阪などを点々とする。そのうちに加賀藩は石川県七尾に語学所を設けるが、1年も持たない語学所だったが、ここにも多くの俊才が集まる。そのような中で高峰は学び、揉まれて、また友人をつくりこれらの人が高峰と後年いろいろな事業に携わる。例えば桜井錠二、瓜生外吉、石黒五十二、高山甚太郎などである。桜井は理化学研究所創設で、瓜生は日米協会創立で、石黒は黒部発電で高峰に協力し、高山は農商務省で、高峰の後任となった。このように高峰は友人・知人を、人を大切にした。
 東大工学部の前身となる工部寮が設立されて東京に出て英国人ばかりの教師の下で6年間学び、3年の英国留学後、農商務省官僚となってからは外国からの技術導入よりは日本の伝統技術に関心があって日本酒、和紙、藍などについても研究を続けていた高峰に転機が訪れたのは入省1年後の米国ニューオリンズでの万国博覧会へ派遣されたことだった。博覧会で見たリン鉱石から肥料製造を思い立ち、帰国後東京人造肥料(現日産化学)を立ちあげることになるが、その後の人生を大きく変えることになるキャロラインとの出会いである。米国人と恋に落ち、婚約し、2年後には当地で結婚する。花嫁を連れて帰国するが、肥料事業が軌道の乗る前に米国へ旅立つことになる。それは2年前に英国で成立した高峰個人の特許、麹でアルコールを作る特許が米国でも成立し、シカゴのウイスキートラストから声がかかったからである。この時の特許出願で知り合ったのがシドモアさんで、その人の妹さんの熱意で米国への桜の苗木の寄贈をその後、やることになる。

 しかしながらウイスキーの方は麹の敵となる麦芽のために不首尾に終わる。麦芽業者などが反対して妨害したからである。その後の苦難の中からかねて考えていたであろう消化剤、タカヂアスターゼが生れるが、実は高峰は当時すでに酵素のことをよく知っており、いろいろな用途を考えていた。消化剤はパーク・デービス社で、製パン改良剤は別な会社と事業化するつもりであった。それを知ったパーク・デービス社の社長は大変驚き、格別の条件提示を高峰にすることになる。おそらく酵素が魔法の杖か、金の成る木に思われたに違いない。
 タカヂアスターゼに成功した高峰はすぐにパーク・デービス社の技術顧問になり、上中啓三を雇ってアドレナリンの結晶化に成功し、ますます富を蓄える。その富を利用してわが日本国のために大車輪の活躍をするのである。日露戦争を蔭で支え、1904年セントルイス万博の日本館を松楓殿とし、またニューヨークの豪邸を建てそれら設備を利用して日米親善に民間大使として活躍するのである。ニッポン・クラブやジャパン・ソサイエティー、日本人協会なども設立し、人種偏見と戦い、米国人と親密に交流を図り、日本および日本人のイメージ・アップに努め、悪くなる一方の日米関係改善に努めた。
 一方、世界最古の酵素メーカー、タカミネ・ラボラトリーを始め、多くの会社を設立する。商社的な仕事や、医薬品関連の仕事もあったが、高峰の最大の関心は国際親善、特に日米親善とバイオテクノロジーであった。三共に変わる「高峰化学工業」の設立も考えていたが、渋沢栄一などの強い要請で帰国を断念し、米国に踏みとどまり日米のために働くになった高峰だが、1921年の暮れからの渋沢らの経済視察団らの訪米やら翌年までかかったワシントン会議などにも気を遣った高峰は、その年に過労のために倒れて他界する。この間、多くの酵素利用を考え、数多くの特許を成立させたが、その殆どは酵素に関するものである。

(作成:平成22年5月14日/文責:事務局)

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