七尾語学所

七尾語学所があったとされる七尾軍艦所跡は、JR七尾駅から国道160号を東方向に2Kmほど行った国道沿いにありました。


跡地を示す石碑には「語学所」の字句は見当たりませんが、敷地の端にあった説明表示板に、下記の内容が記されています。

『七尾軍艦所は、文久2年(1862)から明治4年(1871)まで加賀藩により梅鉢海軍の根拠地及び艦船実習地として設置されました。敷地は当場所を中心として約65,000平方メートルあり、この中には造船所、製鉄所など多くの施設が造られ、造船はもちろん機械、船具等の製作修理が行なわれました。
明治2年(1869)この軍艦所内に七尾語学所が併設され、教師には英国人パーシバル・オズボーン* が招かれて英語、西洋事情の教育に当りました。教育を受けた人々の中から高峰譲吉、桜井錠二博士、瓜生外吉海軍大将など著名な人達が多く出ました。
語学所は、その後わずか1年で閉鎖されましたが、近代日本の躍進に果たした役割は大きいと評価されています。』

英国人教師の名が「オズボーン」となっておりますが、ネットで調べますと『オーズボン』『オスボン』などの表記もあります。因みに銅板レリーフ(石碑左側)は『オスボン』となっていました。


七尾語学所の歴史を簡単にまとめますと‥‥
‥‥1854(安政元)年の「壮猶館」(兵学校/学科として航海測量・洋学・医学・数学も教えた)創設に始まり、1863(文久3)年には、そこから「西町軍艦所」「七尾軍艦所」を分立。1869(明治2)年12月になって英・仏・独語に通じたオーズボンを迎えて(七尾)語学所を開き、同時に同年に金沢にできた「致遠館」から上等生30余名を派遣し学習させ、以後もかなりの数の学生が派遣された。この中には、タカジアスターゼの創製者高峰譲吉や日本最初の理学博士桜井錠二など、のちに理系の学者あるいは軍人として名を馳せた人物が多い(今井一良『オーズボン紀行』北国新聞社 1994年)‥‥(金沢大学50年史より抜粋) となります。

高峰博士がいつここで学んだか、正確な記録は手元にありませんが、語学所で授業が行なわれたのが1869年から1年間(半年という説もある)であることから、博士が大阪医学校、大阪舎密局に学んでいた頃と重なります。
舎密局が廃止されたのが1872(明治5)年、高峰博士が工部大学校に入学したのが1873(明治6)年ですから、博士は七尾語学所に学んだあと、再び大阪に戻って舎密局に学んだと考えられます。

現在の軍艦所跡地は工場になっていて、当時の面影は全くありません。海でも見えれば当時を偲ぶことも出来るのでしょうが、残念ながら、海を望むことも出来ませんでした。
石碑が建っているのは、上の写真の右端、植え込みがあるところです。

因に七尾までは金沢から JR 七尾線普通列車で1時間30分ほどです。また、全国的に有名な和倉温泉は七尾駅の次の駅で、6分ほどです。富山方面からだと、北行する鉄道は氷見までしか行っていないので、北陸本線で金沢方面・津幡まで行き、七尾線に乗り換えることになります。

(取材:平成23年6月10日/文責:事務局)