金沢市の紹介

金沢は加賀藩前田家の城下町として栄え、加賀友禅や金沢箔、九谷焼などの伝統工芸や、能楽や加賀万歳などの伝統芸能が受け継がれてきました。
また、五代藩主前田綱紀の時代には、日本中から有名な学者や貴重な書物を集め学問を奨励したことにより、「加賀は天下の書府」であると褒め称えられました。
戦災や大きな災害を免れたため、藩政時代からの美しいまちなみが現在でも多く残っており、金沢市の貴重な財産となっています。
(金沢市ホームページ/ > いいね金沢/金沢市の紹介 [文化] より)

高峰博士は1855(安政2)年、1歳の時、生まれ故郷・高岡を離れて金沢に移り住みました。
父・精一は、越中(現・富山県)高岡で代々続いた町医者の出で、京都や江戸で蘭学を修めたことから加賀藩に招かれ、舎密(せいみ=化学)方御用方や御典医を勤めました。高峰譲吉博士が世界的に有名な化学者として成功したのは、こうした父ゆずりの血のせいもあったのでしょう。

金沢の中心街、香林坊から兼六園に向かって通称「百万石通り(写真1)」をしばらく行くと、右手の市役所の先に円形の特徴的な金沢21世紀美術館が見えて来ます。市役所と美術館の間を右に折れて道なりに少し行くと、左にカーブしたすぐ先右手に、>「金沢ふるさと偉人館」があります。(写真2)


この金沢ふるさと偉人館には博士ゆかりの品が多数展示されていますが、研究会が訪問した時は博士の生誕記念の献花祭が行なわれる日であったため、入口には博士の写真が掲示されていました。 入口の右手奥に博士の銅像があり、献花祭はこの銅像の前で行なわれました(お知らせ 参照)。


2階の常設展示室に高峰博士のコーナーがあります。下の写真左は、米国ニュージャージー州クリフトンにあったタカミネ研究所玄関脇の窓の一つ。右は、博士が愛用していたデスクです。

下の写真、左は高峰博士がタカジアスターゼの抽出に成功した頃の夫妻。博士は、アメリカ人女性と結婚した最初の日本人と言われています。
また右は、1914年に高峰博士が設立した「タカミネ・ラボラトリー」社の銘板。ニューヨークとその北西のニュージャージー州クリフトンの地名が記されています。

もう一つ、一風変わった石像をご紹介しましょう。
これは高峰博士がニューヨーク近郊に設立したタカミネ・ラボラトリーのゲートキーパー(守護神)だったもので、その後タカミネ・ラボラトリーが米バイエルヘルスケア社(当時・マイルス社)に譲渡され、この石像もバイエル社と共にあったもの。
2006年にバイエル社から、高峰博士に敬意を表してふるさとである金沢市に贈られることになり、4月、ふるさと偉人館の高峰博士銅像脇に置かれたものです。


金沢ふるさと偉人館から金沢城公園を北へ抜けて行くと、大手門と黒門の間辺りの北側に、高峰家旧邸跡があります。現在は旧宅は無く、駐車場になっていますが、やがてマンションが建つとのことでした(写真3)。
そこから程近い黒門前緑地に、邸宅の一部(書斎・茶室として利用された離れ)を移築した旧・高峰邸があります(写真4)。
ここは1995年まで金沢地方検察庁検事正官舎の敷地だったところで、2001年、官舎の一部とその土塀を廻らす屋敷構えを保存するとともに、高峰譲吉博士旧邸の一部を移築し、公園として公開したものです。


金沢の街は何と言っても加賀百万石と言われるように、金沢城に象徴されますが、高峰博士旧邸を見た後は、香林坊の西側(トップの地図だと下側)の長町旧武家屋跡がお勧めです。
高峰博士が幼少期を過ごしたのは時代で言えば幕末であり、博士が11歳で長崎に留学(派遣)されたのは、大政奉還の2年前のこと。この武家屋敷跡は当時のまま保存されているものですから、その当時を偲ぶにはうってつけの場所であると言えます。

 金沢の街を訪れる機会がありましたら、是非観光や仕事の合間に、これら高峰譲吉博士を偲ぶ記念の場所や品々を見て頂きたいと思います。

(取材:平成22年11月3日/文責:事務局)
金沢市オフィシャルホームページ >「いいね金沢