ニューオーリンズ

譲吉が初めて訪れたアメリカの地は、ニューオーリンズでした。
(実はその前年、イギリス留学からの帰路、アメリカ経由で帰国しているそうですが、どの地を経由したかの記録を発見できていないので、ニューオーリンズを初めての地としておきます。)


譲吉がイギリス留学から帰国し、農商務省にいた時のことです。1884(明治17)年、米国ニューオーリンズ万国博に事務官として派遣されたのです。そしてそこで、生涯の伴侶となるヒッチ家の娘、キャロラインと出会いました。
因にこの万博に派遣されたのは、高峰譲吉をリーダーとする服部一三、玉利喜造の3人で、服部は雑誌記者として取材に来たラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)に出会っています。このことがハーンをして日本に興味を持たしめ、後に服部の口利きで日本に渡り、松江中学の英語教師になったのです。
キャロラインとの結婚を約して帰国した譲吉は、1887(明治20)年、渋沢栄一、益田孝らと協力して日本初の化学肥料会社「東京人造肥料」設立に関わります。そして工場設備の機械の買い付けに再び渡米するのですが、ニューオーリンズに立ち寄って約束通りキャロラインと結婚し、彼女を連れて帰国したのです。

ピオリアとシカゴ

その後「(麹による)酒精製造法」特許が1889年に米国で成立すると、シカゴのウイスキー・トラストより招かれ、渡米を決意します。
立ち上げたばかりの「東京人造肥料」から離れなければなりませんでしたが、当初反対した渋沢も益田に説得され、譲吉の渡米を許します。
譲吉は1890(明治23)年、妻・キャロライン、日本で生まれた二人の息子、そして杜氏*・藤木幸助を伴って渡米しました。今度は帰国の予定のない、移住でした。
(* 杜氏とは、造酒家で、酒を醸造する男たちの長(おさ)のこと。)
サンフランシスコに到着した譲吉一家は、まっすぐにシカゴの、ウイスキー・トラスト社が用意した実験場に向かい、早速実験に取りかかりました。
ニューオーリンズのヒッチ家も、既にその時はシカゴに引っ越して来ていました。
ウイスキー・トラスト社の要請で、一家はさらにシカゴから南西に160Kmほどのピオリア* に移り住み、この地で本格的な工業化試験に取り組みます。
(* ピオリアという地名は日本人には馴染みがありませんが、ゴルフの「新ペリア」というハンディの計算の仕方はご存じの方も多い事でしょう。これはピオリアのゴルファーが考案したもので、ピオリアが訛ってペリアになったということです)
ピオリアはウイスキー・トラスト社の本拠地であり、主要産業はウイスキーの原酒生産でした。その地で譲吉は、自ら設立した「タカミネ・ファーメント社」で藤木と共に研究重ね、良好な成果を収め始めます。
しかし、モルトを大量に使用する必要がなくなる製造法に対して地元のモルト業者の反発が強まり、ある夜、ピオリアの試験場は放火と見られる火事に見舞われ、大切な麹室から何から全て灰燼に帰してしまったのです。1892 (明治25)年、高峰博士が出た工部大学校の後輩で、農商務省時代の助手であった清水鐡吉を呼び寄せ、更なる工業化試験に向けて力を入れ始めた直後のことでした。
高峰博士は今までの無理がたたってか、腹部に腫れ物(肝臓病であった)が出来て倒れてしまいました。妻・キャロラインの機転で一命を拾ったものの、試験場の焼失のショックと病のせいで、高峰博士はシカゴの病院に二ヶ月も入院してしまうのです。
ところが高峰博士はこのような辛い状況下にあっても情熱を絶やすことは無く、ついに「タカジアスターゼ」を発見し、製品化への筋道を打ち立てるのです。1894 (明治27)年、高峰博士は「タカジアスターゼ」に関する一連の特許を申請し、取得しています。
翌1895年、高峰博士とパーク・デイビス社との間に「タカジアスターゼ」販売に関する契約が成立しましたが、残念なことにその翌年、清水鐡吉が結核のために、34歳という若さでこの世を去ってしまいます。更に藤木幸助も故郷の事情により帰国することとなり、藤木は清水の遺骨を抱いて帰国したそうです。(清水の墓は、シカゴのオークウッズ墓苑にあります)

ニューヨーク

翌1897(明治30)年、高峰一家はニューヨークへ移り住みます。セントラルパークの近くのビルの半地下に、事務所兼研究所を開き、早速仕事を始めました。

階段横の窓のある半地下

パーク・デイビス社からの依頼で、タカジアスターゼをさらに改良する研究であったようです。
さらに、動物の副腎抽出液の有効成分から純粋な化学物質を抽出する研究を依頼されます。1899年、高峰博士を訪ねて日本からやって来た上中啓三を加え、1900年、博士の研究は一気に成功します。最初のホルモン、「アドレナリン」の結晶化です。
タカジアスターゼとアドレナリンの成功により、博士は莫大な収入を得ることになりました。しかしこの頃より日本の極東での立場は危ういものとなり、1904(明治37)年、ついに日本はロシアと戦争状態に突入します。日露戦争です。
当初より戦費が不足していた日本は、一気にロシア(海軍)を叩いた後、速やかに米国に仲裁を頼み、ロシアとの戦争を勝利のうちに終結させるという腹づもりでしたが、当事のアメリカは日本については殆ど何も知らず、さらにロシアびいきでした。
当事日銀総裁であった高橋是清はイギリスとアメリカへ外債の募集に出向き、貴族院議員であった金子堅太郎はハーバード大学で知己を得ていたルーズベルト大統領と直接交渉するため、アメリカへと向かいました。
その彼らを陰で支えたのが、高峰譲吉博士でした。旧知の高橋是清や渋沢栄一らからも連絡を受け、博士は私財を投げ打ってアメリカ世論を日本の味方につけるべく奔走しました。各地で講演を行い、新聞に記事を掲載します。講演の際は常に羽織袴姿でキャロライン夫人を伴っていたそうです。

米国世論は次第に日本有利となり、1905年9月、ポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、日露戦争は終結しました。後に金子は、高峰博士と夫人がいなかったら、私はあれだけ(外交交渉に)成功することは出来なかったと語っています。
講和条約の日本全権大使・小村寿太郎も、実は高峰博士とは長崎留学の折り、フルベッキから致遠館で共に英語を学んだ兄弟弟子であったのです。二人は講和条約締結の折り、高峰博士が創設し、会長を務めていた日本倶楽部で再会を果たしています。

その他に博士は、1904年、ニューヨーク郊外に「松楓殿」を開いて日米親善を図り、1907年、ジャパン・ソサエティの設立に尽力し、1911年、ハドソン河畔に国際親善の場とするために豪邸まで設けています。
ちょうどこの頃(1910年)、豊田式自動織機の考案者・豊田佐吉が、高峰博士の元を訪れています。佐吉は失意のどん底にありましたが、何度も高峰邸を訪れては高峰博士に激励され、発明家のあるべき姿を説かれて自信を回復し、帰国後一念発起した佐吉は成功し、やがて長男・喜一郎が佐吉の夢と意志を継いで「世界のトヨタ」の基を築くに至るのです。 (関連記事 → こちら

さらに博士は、ワシントンへの桜の寄贈を陰で支え、在米のまま三共株式会社初代社長に就任し、東京に理化学研究所を設立すべく渋沢栄一など財界人にも働きかけ、日米合弁のアルミ製造会社を設立して黒部川の電源開発に着手してアルミ工業の発展の端緒を築き、ワシントン平和会議の日本代表団および渋沢栄一を団長とする経済視察団をバックアップする等、まさに「無冠の大使」として活躍されました。
1922(大正11)年、7月22日、博士は68年の生涯を閉じましたが、博士はアメリカ国民として亡くなったのではなく、日本国籍のままでした。それでも翌23日の各新聞には博士死去のニュースが掲載されましたが、中でも『ニューヨーク・ヘラルド』紙は、「日本は偉大な国民を失い、米国は得難き友人を失い、そして世界は最高の化学者を失った。」と書いています。
結局、高峰博士はその68年の生涯の内、ほぼ半分の31年をアメリカで暮らしたことになるのです。

リバーサイドの旧・高峰邸(中央)

(記事作成:平成25年10月17日/文責:事務局)