緒方塾(適塾)、舎密(せいみ)局、大阪医学校

1)緒方塾(適塾)
緒方洪庵の適塾は、大阪市の中心部、淀屋橋に、当時のままの姿で保存されています。梅田の南約2Kmほどの市中心部に、このような歴史的建造物が残っていることは驚きと言えましょう。勿論、解体修復工事が成され、重要文化財に指定されています。

高峰譲吉博士は14歳の時(1868(明治元)年)ここに学んだとされておりますが、その頃は緒方洪庵は既に亡くなって(1863年)おり、また同年適塾も閉鎖されていることから、高峰博士が適塾から学んだことはあまり多くはないと考えられます。

 適塾の名前の由来は、緒方洪庵が「適々斎」と号したことによります。同塾は1838(天保9)年、洪庵によって瓦町に開設され、1845(弘化2)年、過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)に移転しました。適塾には日本全国から1,000人もの入門者が集まったとされていますが、それら塾生の中からは、医者・西洋学者・兵学者で後に実質的な日本陸軍の創設者となった大村益次郎、慶応義塾を創立した福澤諭吉など、歴史に名を残した人々を多数輩出しています。
(適塾について詳しくは、>> 大阪大学のサイトへ)

2)舎密(せいみ)
舎密とは、オランダ語で「化学」を意味する”Chemie”の当て字です。
舎密局は維新政府により、1869(明治2)年、日本最初の理化学専門学校として、オランダ人化学教師ハラタマ(Gratama/写真・右)を教頭に迎えて開校されました。
因に写真・中の碑文は以下のように刻まれています。

『明治2年5月1日、政府はこの地に物理化学を専攻する舎密局という学校を開設した。この場所はその遺跡の一部である。この学校はその後度々名称を変えて明治19年第三高等中学校となり明治22年8月京都市吉田に移り明治27年9月から第三高等学校となった。現在の京都大学の教養部である。この樟樹は舎密局の生徒が憩う緑陰として当時からあったという』


高峰博士は15歳の時、ここ舎密局の聴講生になったとされていますが、博士は同時期、大阪医学校にも通っていました。ここ舎密局で化学を学ぶことにより、医学よりも化学へと志望を転換させ、それが後の化学研究、すなわちタカジアスターゼの発見・アドレナリンの結晶化成功の道へつながったと想像するのも、不自然ではなさそうに思えます。

この舎密局跡の碑は大手前の大阪家裁向かいにありますが、歩道を遮る形で鬱蒼と木々の生い茂った台地状の場所(上の写真・中)にあり、注意していないと石碑にも銅像にも、気付かずに過ぎてしまいそうです。写真左の案内表示は、馬場町交差点の大阪府警本部側の角にありました。

3)大阪医学校
大阪医学校は1869(明治2)年、大阪府病院の完成と同時に開設されました。場所は上記の舎密局跡から少し南の鈴木町代官屋敷跡(現・法円坂2丁目/大阪医療センター)で、その後1879(明治12)年に、現在大阪大学中之島センターのある大阪市北区中之島4丁目へ移転し、大阪公立病院と改称して開院。翌年教授局が分離独立し、府立大阪医学校となりました。今日の大阪大学医学部の直接の前身です。(→ 大阪大学 埋蔵文化財調査室 サイト/平成14年)


現在この地には、大阪大学中之島センターがあります。高峰博士が入学した頃(1869(明治2)年)は、医学校は舎密局のすぐそば(現・法円坂2丁目)にあり、博士はそこへ通ったのでしょう。上の写真・右は、当時の建物に使用されていたと思われる石材(石やレンガ等)を、入口手前にモニュメントとして配したものだそうです。

《番外編》 道修町/少彦名神社
「どしょうまち」「すくなひこなじんじゃ」と読みます。くすりの町と称される道修町は、上に挙げた適塾(淀屋橋近く/北浜3丁目)から少し南側の地域で、江戸時代から薬種商が集中したところです。
この少彦名神社は疾病除けの張子の虎で知られており、かつては株仲間の行事交代の場であったそうです。例大祭は毎年11月22・23日に行なわれる神農祭で、現在は神農祭のお礼祭りとされる冬至祭とともに、薬祖講という約400社の薬業関係企業で構成される講によって維持・運営されるているそうです。(→ 大阪市サイト/少彦名神社の薬祖講行事)|(→ 少彦名神社

高峰博士がここ大阪の地で医学・化学を学び、後にアメリカに渡ってタカジアスターゼやアドレナリンを発見してその特許を取得し、その後三共株式会社(現・第一三共)の初代社長に就いたことを考えると、この薬業関係企業が多く集まる町と少彦名神社の存在は、あながち博士と無関係であるとは言えないように思えて来ます。

(取材:平成23年6月9日/文責:事務局)