深川・釜屋堀(東京人造肥料会社 跡)

深川の名前の由来は、江戸期に湿地帯であったこの辺り一帯を開拓していた、深川八郎右衛門の姓に由来するのだそうで、富岡八幡宮の門前町として発達しました。
深川は現在の東京都江東区の一部ですが、高峰譲吉が東京人造肥料の設立に関わっていた当時は、東京15区のうちの一つ、深川区でした。南北に流れる横十間川より東側は、南葛飾郡大島村と呼ばれていましたが、その後その辺りは城東区に編入され、更に1947(昭和22)年3月に深川区と合併して、現在の江東区となったということです。

また釜屋堀の名前の由来は、江戸幕府三代将軍家光の時代、太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門が、この辺りで鋳物業を行ない、鍋・釜などを造っていたことから、この地を「釜屋堀」と呼ぶようになったとされています。これらのことから分かるように、東京人造肥料会社跡地の釜屋堀は、厳密には深川ではなく、南葛飾郡大島村* であった訳ですが、土地の人々は「深川釜屋堀」と呼び慣らわしていたようです。江戸期よりこの辺りは木場へ木材を運搬するための運河が発達し、水運による交通の便が良かったことで、工場建設には適していたことが推察されます。 (関連記事 → > 釜屋堀公園 )

写真左:釜屋堀近くの小名木川 / 写真右:釜屋堀公園(右手の木が茂っている所)周辺 ある資料によると、正確には南葛飾郡大島村14番地(現・江東区大島 1-2)であったそうです。

本 所
1884(明治17)年、米国ニューオーリンズ万国博に事務官として派遣された高峰譲吉は、1年間滞在。その間に下宿していた家の娘・キャロライン嬢と恋に落ちて婚約し、一方私費で購入した人造肥料としての燐酸肥料(燐鉱石)を日本へ送っています。帰国して2年後の1887(明治20)年、譲吉は渋沢栄一、益田孝らに相談して東京人造肥料会社を起こしました。初代委員長は渋沢栄一、譲吉は技術長兼製造部長のような待遇であったようです。同年、譲吉と益田孝は肥料製造機械の購入のために渡米しました。そして譲吉は約束通りキャロラインと結婚し、ニューヨークで機械を買い付けた後、新妻を伴って帰国したのです。
譲吉と新妻・キャロラインの新居は「本所」であったとされていますが、当事の本所は前記の深川以北一帯であり、現在の首都高7号小松川線辺りから北側が本所(区)と呼ばれていました。従って町名が分からない限り、新居の正確な位置は分かりません。
現在の本所と呼ばれる地区(町名)は、春日通りの本所二丁目交差点を中心に、東西約1,000m、南北約400mほどのエリアですが、仮にそのエリアであったとすれば、釜屋堀までは徒歩で小一時間といったところでしょう。

写真左:春日通りと三ッ目通りの交差点・本所三丁目 / 写真右:本所四丁目の裏通り

塩原又策 著「高峰博士」の中に、益田孝の文として、次のような一文があります。「(譲吉は)人造肥料会社の近き本所に家を持ったが、その家たるやまことにきたないものであった…」。益田孝ほどの身分の人から見れば、それは「きたないもの…」であったかも知れません。それにしても当時の状況を考えれば、確かに、決して立派な家ではなかったであろうと想像できます。 いずれにせよ、譲吉とキャロラインは2年後にアメリカへ移住するまでここ本所に暮らし、キャロラインは夫の譲吉を陰で支えつつ、長男の襄吉、次男のエーベン・孝を出産しました。本所から深川にかけては、関東大震災でも太平洋戦争の東京大空襲でも焼け野原となっています。ですから今や、当時の面影を偲ぶことは出来ません。今も残っているものとしては、上部写真の小名木川や釜屋堀の横十間川などの、河川だけでしょう。

アメリカへ移住する直前の高峰譲吉とキャロライン、二人の幼い息子たち

東京人造肥料会社
譲吉はイギリス留学時に、様々な近代工業を目にして来ていましたが、その当時から彼の頭の中には、化学肥料による日本の農業生産の生産性向上というテーマがあったようです。そして上記の米国ニューオーリンズ万国博で燐酸肥料を目にし、早速人造肥料としての燐酸肥料(燐鉱石)を買い付けています。譲吉は帰国した翌年には、過燐酸石灰による農地での実地試験を行い、さらには知人であった益田孝渋沢栄一に化学肥料の有用性を説きました。当時それまでの肥料と言えば、人糞、家畜の糞尿、干し鰯、菜種糟などで、とても生産性の向上は期待できなかったからです。渋沢も益田も譲吉の説の正しさを理解し、化学肥料を製造しようという事になります。1887(明治20)年2月28日、東京人造肥料会社の設立準備会が、渋沢が頭取をしていた第一国立銀行楼上で開かれました。設立委員は渋沢栄一を筆頭に、益田孝、渋沢喜作、馬越恭平など、錚々たるメンバーでした。渋沢栄一記念財団の資料によりますと、正式な設立は同年12月12日。渋沢が初代委員長に就任したとあります。この2年後には、譲吉はアメリカのウイスキートラストからの招きによって渡米を決意、東京人造肥料会社を抜ける事になるのですが、東京人造肥料会社は高峰博士が他界された翌年、1923(大正12)年の関東大震災で消失するまで、この地で生産を続けていました。
また同社は、その後幾多の変遷を経て、現在の日産化学株式会社へと繋がって行ったのです。(リンク先のページは「沿革」のページです)
(詳しくは > 高峰博士の業績/人造肥料 をご参照ください)

付記・タカジアスターゼの原点
これはつい最近明らかになったことですが、当研究会の石田理事(農学博士)が入手された資料によると、高峰は1884(明治17)年の米国ニューオーリンズ万国博に事務官として派遣された折り、検定試験用として薬学博士 Ferdinand Lascar 氏に日本製の麦芽抽出製品を提出しており、その飛び抜けた効力の高さに驚かされたと、後に Lascar 氏が学術誌に発表していたのです。これまでは、高峰はタカジアスターゼの構想を渡米前(1890年)には既に持っていたのではないかと推測されておりましたが、実際に実験を行なって発見に到達したのはアメリカに渡ってからであると考えられていました。しかしこの新たな資料によりますと、タカジアスターゼの初期研究は、高峰が英国留学から帰国した頃から、既に始められていたことになります。
詳しくは、寄稿/「タカジアスターゼの原点」をご覧下さい。

(記事作成:平成26年2月20日/文責:事務局)