グラスゴー市

英国スコットランドのグラスゴーと言えば、工業都市であるとか、産業革命という言葉を思い浮かべることでしょう。英国北部に位置するこの都は歴史も大変古く、キリスト教の聖人・聖ムンゴの伝道により、6世紀頃につくられたと言われています。
16世紀にはクライド川の水運を利用した貿易が盛んとなり、アメリカからタバコ、カリブ海からは砂糖などが、この地を経由して英国国内各地へ運ばれたそうです。
そして18世紀に入ると、ランカシャーで採掘される石炭や鉄鉱石によって、工場制機械工業の導入による急激な産業の変革が「産業革命」となり、グラスゴーでは綿工業を中心とした産業が盛んになりました。

当時日本からは、後に工部省の工学寮を興した山尾庸三が、1863年に井上馨、伊藤博文、遠藤謹助らと共にイギリスへ密留学していますが、山尾は1866(慶応2)年、産業革命発祥の地グラスゴーへ移り、見習工として造船所で働きながら造船技術を学んでいます。
この山尾庸三が帰国後、明治新政府の伊藤博文の元で民部省および大蔵省の役人となり、次々と意見書を提出し、工業を興すための「工部省」設置を主張。1873(明治6)年にスコットランドから校長としてヘンリー・ダイヤーを招き、工部省の工学校として工学寮を開設したのです。
高峰譲吉は1872(明治5)年工部省官費修技生となり、翌年開設された工学寮(後の工部大学校、現東京大学工学部)に第1期生として入寮し、1879(明治12)年、応用化学科を首席卒業、翌年(1880年)英国に留学しました。

グラスゴー大学のサイトより

アンダーソン大学(現:ストラスクライド大学/Univ. of Strathclyde)
1880年2月9日に横浜を出航した譲吉は、3月20日にロンドンに到着し、4月10日にはグラスゴー入りしています。
譲吉がグラスゴーを目指したのは、産業革命の中心地であったということばかりでなく、工部大学校校長のヘンリー・ダイヤーの出身地であったことや、山尾庸三の影響によるものと想像がつきます(山尾庸三はグラスゴーで、ヘンリー・ダイヤーと共にアンダーソン・カレッジで学んだ)。
書物やネットの情報には、譲吉はグラスゴー大学に留学したと書かれているものもありますが、実際はアンダーソン大学であったようです。
グラスゴーに渡った他の3人の仲間達はグラスゴー大学で学んだとされています。因にアンダーソン大学は、ジョン・アンダーソンの遺言により1795年に設立された大学で、目的は産業人を科学の教科で育成することでした。

左:1895年頃の大学/右:現在のストラスクライド大学構内

 

譲吉はアンダーソン大学で実地化学試験所のミルズ博士に学んでいますが、譲吉は手紙の中で、ミルズ博士は英国屈指の化学者であると書いています。
譲吉はそのミルズ博士から、酵素という概念が確立される以前の発酵化学を学んでいたようですが、そのことが後に、1887(明治20)年のアルコール発酵の特許「(麹による)酒精製造法特許」申請に繋がり、さらにはタカジアスターゼの発見やアドレナリンの結晶化に繋がって行ったであろうことは、疑う余地がありません。
約1年半をグラスゴーで学び、その後リバプール、マンチェスターなどの多くの工場で見学・実習を重ね、アメリカ経由で帰国したのは1883年2月、譲吉28歳のことでした。

(記事作成:平成25年10月17日/文責:事務局)