高峰譲吉博士研究会

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産業革命成熟期の心臓部へ 譲吉のイギリス留学


前回は、高峰譲吉の幼少期・青年期に受けた教育について触れましたが、今回は英国留学時代をご紹介します。今やテレビの“マッサン”で国民的な有名人となったニッカウヰスキーの竹鶴正孝が留学したグラスゴー、譲吉が同じ場所で、同じ学科を30年以上前に学んでいたことをご存知でしょうか。前回同様、石田前理事長のエッセーを基に紐解いていきます。


高峰譲吉は、明治が生んだ独創的な科学者であり、起業家であり、さらに民間外交家である。彼は、微生物の生産する消化酵素・タカジアスターゼを発明し、世界で最初に医薬として工業化した。アメリカでは、近代バイオテクノロジーの父として高い評価を受けている。そのあと、動物ホルモン「アドレナリン」を世界で最初に純粋結晶として取り出し、ホルモン研究の道を切りひらいた。

彼の人生を決めたとも言える青年時代の3年間のイギリス留学は、どんなものであっただろうか。最初にカルチャーショックを受けたスコットランド・グラスゴーでの生活と勉学の様子は、歴史としても興味あるものであり、またこれから進路を決めようとする日本の若い人たちにも参考になると考え、少し詳しく紹介したい。

官費留学生としてグラスゴーへ

高峰譲吉は、1879年の暮れ、6年間学んだ工部大学校を卒業した。25歳である。その年の卒業生のうち、成績優秀な11人が、政府の費用で海外留学を命じられ、1880年(明治13)2月9日に横浜からロンドンへ、胸いっぱいに夢を膨らませて、40日余りの長い船旅に出た。4人のグループは、さらにロンドンから鉄道でほぼ1日かけてスコットランドの工業都市グラスゴーに向い、4月10日に無事到着した(注1)。

工部大学校は、1871年(明治4)に伊藤博文と山尾庸三によって設置された。のちの東大・工学部である。教育を西洋から導入して一挙に近代化をはかろうとした日本政府は、多くの教師(お雇い外国人)を採用したが、その1人、ヘンリー・ダイアー(HenryDyer)は、イギリス土木工学の父、恩師ランキン教授の推薦を受け、1873年24歳の若さで工部大学校の校長として赴任して来たのである。彼に幅広い教養と「技術者こそ真の革命家」という哲学を教え込まれたのが、グラスゴーの地を踏んだ4人であった(注2)。



▲ 東京・虎ノ門あたりにあった工部大学校

グラスゴーという名前はブリトン語(Briton)で、グラス(Gals)はgreen(緑)、ゴー(gow)はcau=hollow(くぼ地、谷間)と言う意味で、総合して「いとしい緑の地(dear green place)」と解釈されると、同市の歴史に記述されている。いにしえは、「我が谷は緑なりき」というロマンチックな映画の題名の響きのような土地だったのかもしれない。

1866年に新市制が施行され、住宅地の再開発が進んだ。高峰らはきっと真新しく整った住宅街を見たことだろう。彼らが到着した1880年には、クライド(Clyde)川を深く掘削して港湾設備の整備が行われ、キングドック( King’s dock) とクイーンドック(Queen’s dock)が完成し、市は大きく発展した。その威容を見た彼らの驚きはどんなものだったか、容易に想像できる。

グラスゴー市には、19世紀中頃までは綿産業程度しかなかったが、石炭利用の立地条件が非常に良かったので、内燃機関が開発された後は、水力に頼らなくても可能な繊維産業の機械化から始まり、漂白剤、染料、化学品、鉄工業、機械工業、造船業へと産業が大きく発展した。文字通り産業革命の中心地となった。「いやはや鉄ばかりにて御座候」と高峰譲吉が郷里に出した手紙(7月13日付け)の描写通りだった。人口はこの手紙には東京より多いと書かれているが、その11年後1891年の統計では、565,839人であった。産業としては、1881年の調査では、長靴、短靴、ボイラー、各種機械、石鹸、塗料、油類、ガラス、製パン、ビスケット、果物類、炭酸水、家具類、陶器類、タバコ産業、皮なめし、醸造、蒸留酒製造が記録されている(注3)。

林立する煙突、湖から水道水

このような情景を、前記の高峰譲吉の手紙に書かれている観察記録(注1)で少し補足してみよう。

市の中心部の家屋は平均3〜4階で、製造工場が多く、煙突が林立し煤煙が天を覆っており、空気は汚いと嘆いている。最大の化学工場は、曹達漂白粉、膠、硫酸、明礬等と記録されている。

4階建ての下宿は、市の西端にあったので空気はそれほど悪くなかったようだ。この地区の家屋は全部3〜4階から6〜7階の石造りで、家賃は1〜2階が一番高く、多くは地下にもう1階あり、そこは下等であると書いている。

道路は、車道と歩道に別れていて、石またはアスファルトで舗装されており、中央には馬車鉄道が走り、乗り合い鉄道馬車が市内を往来していて至極便利だった。馬車の代わりに小汽車(スチーム、レール)を使っているところもあり、これは普通の蒸気機関車のように速くなく、馬の代わりをするものであるという記述は、映画を見ているようだ。この時から32年後の1912年(大正元年)の春、日本で最初の電車が、人と市民の驚きを乗せて、京都市内を走りだした。




▲ ロンドンの地下を走っていた蒸気機関車。同様の小汽車(スチーム、レール)が
グラスゴーの市中を往来していたのだろう。(注8)

グラスゴー市には、井戸は1つも無く、飲み水は200km以上離れた山中の湖水から鉄管で引いてきて、枝分かれした鉄管で各家庭に分配されていた。従って7〜8階の部屋でも水を汲んで持ってあがる必要が無く、簡単に蛇口をひねるだけで水が出ると、高峰譲吉はその便利さを強調している。

我が国にこれと同じレベルの上水道が敷設されたのは、1889年(明治22年)10月27日に給水を開始した横浜市が最初であるから、高峰ら4人は高度な文明に目を見張ったことであろう。

さて個人にとって最も重要な物価については、シャワー1回6ペンスから18ペンス位、邦貨で17〜50銭位(1ポンド=23シリング=7円)、理髪30〜50銭位、タバコ1斤(600g)2〜7円、他はこれに準じ、はなはだ安くないという記述から始まり、下宿料が1カ月7.5ポンド(53円)、化学試験所の月謝18円、講義月謝6〜7円、その他書籍、新聞、衣服、諸雑費平均(極力節約しても)3ポンド=21円、都合合計14〜15ポンド(100円)が必要であるのに、我々が官から頂戴する額は月々12ポンド(84円)で、まことに閉口していると窮状を訴えている。

ロンドンに留学した夏目漱石が、官費(月額150円)では生活費が足りないと妻鏡子に書いてよこした1900年頃でも、状況はあまり改善されていなかった。明治時代の選りすぐりの俊秀にとっても、全く余裕のない留学生活で、経済力が極めて貧弱であった日本の姿を浮き彫りにしている。

留学生として緊張から解放される日曜日の様子は、少し気の毒である。こう書いている。この国は一般に宗教の盛んな土地であるが、当市は格別に盛んである。日曜日には薬屋以外はすべて閉店、一切商取引は行われず、人々の10人中8〜9人は寺(教会)に行き、説教を聴いている。東京辺りの日曜日とは大違いである。我々の下宿の家主ブラウン氏は、はなはだ信仰心の厚い人で、朝晩2度必ず家人すべてが1室に集まり、礼拝すること半時間ばかり。我々も陪席せざるを得ない有様。家人はすべて禁酒、禁煙と。

屈指の化学者ミルズに教わる

1881年4月4日のスコットランド国勢調査記録(No. 13665)によると、グラスゴー、ゴバン(Govan)地区、ウイルソン通18番地には6室(窓が1つ以上ある室と記載されている)のアパートが4軒あり、その1つに寄宿している6人のうち4人が下記の日本人(出生地Japanと記載)である。高峰譲吉は4人の代表であった(注5)。


         
Jokichi Takamine (高峰譲吉) 25歳 技術系 ア大
Rinsaburo Shida (志田林三郎) 24歳 同上 グ大
Kiyoshi Minami (南清) 25歳 同上 グ大
Naotada Takayama (高山直質) 25歳 同上 グ大

(ア大=アンダーソン大学、グ大=グラスゴー大学)(注4)



▲ 高峰譲吉が滞在中、1881年4月4日に行われた国勢調査記録。
日本人留学生4名の寄宿記録がある。(赤枠内)
(クリックすると別ページで拡大写真を表示)

ちなみに残り2室の居住者は、1人は50歳の未亡人、もう1 人はアイルランドのScoolishlandから来たマリー・カシディー(Mary Cassidy)という17歳の娘で、彼女は日本人留学生4人のための家政婦であった(注5)。

高峰譲吉が留学したアンダーソン大学(注6)は、ジョン・アンダーソンの遺言により1795年に設立されたが、目的は産業人を科学の教科で育成することであった(注3)。筆者が大学に在籍名簿を調査してもらった結果では、Jokichi Takamineは見当たらないが、それは彼が留学していなかったということではなく、登録する必要の無い研究生(postgraduate)として勉強していた可能性があるということであった(注5)。




▲ アンダーソン大学の正面全景(1895年頃)
写真:Strathclyde大学提供

少し横道にそれるが、この大学の卒業生は誇りを持って「アンダーソニアン」と自称した。そのアンダーソニアンがイギリスの鉱物学者・化学者ジェームス・スミッソンの遺志・遺産を受けて、米国のワシントンに建設したのが、有名なスミソニアン博物館である。

一方、仲間の3人が入ったグラスゴー大学は、それより300年も古く1450年の創立で、次第に大きくなり、1870年からは校舎の新設があったと記録されている。高峰たちが到着した頃、キャンパスには多くの新築の校舎が見られたことだろう。ちなみに、日本では1432年に、最古の大学といわれる足利学校が創設されている(栃木県足利庄)。

高峰譲吉留学前後の自然科学の発展段階について、主な発明・発見の例を掲げて示しておきたい。今日のような素早い情報伝達が無く、また最先端の知識を理解し教授する人もほとんど無かった時代、このような知の本流の真只中で青春を送った留学生は、感受性を鋭く磨いたことであろう。



   
1878年 ドイツの生理学者クーネ(Kuhne)が、酵素を非生物触媒と認識し、名称enzymeを提案。
1879年 エヂソンが電球を発明。米国の化学者ラムセン(Ramsen)と学生のファールベルク (Fahlberg)が、サッカリンを発明。
1880年 フランスの医師ラブラン(Laveran)が、マラリア原虫を発見。高峰らグラスゴーに留学。
1881年 米国の医師スタンバーグ(Sternberg)が、肺炎球菌を発見。
1882年 ドイツのコッホ(Koch)が、結核菌を発見。
1883年 クロアチアの電気技師テスラ(Tesla)が、交流電気を実用化。フランスの化学者ド・シャルドネが、レイヨン繊維を発明。ベルギーの細胞学者ファン・ベネデン(vanBeneden)が、染色体の減数分裂を発見。


高峰譲吉は前記の手紙に、1年半グラスゴーで学ぶこと、実地化学試験所の教師のミルズ博士は、英国屈指の化学者であると書いている。一方大学に記録の調査を依頼した結果、ミルズ博士(Dr. E. J. Mills)は、1880-1881年にアンダーソン大学の夜間クラスで、工業化学(technical chemistry)の授業を行っているので、高峰譲吉は間違いなくミルズ先生の講義を受けたと考えてよいとの回答であった(注5)。

次にこの工業化学の講義内容であるが、1876〜77年に受講した学生(J. J. Smith)のノートが保存されている(注7)。その中から、後になって高峰譲吉の研究に直接役立った部分を抄録してみたい。この学生スミスは、1876年11月13日(月)から1877年2月13日(火)まで20回行われた講義を、丁寧にノートしている。




▲ ミルズ教授の講義を受けた学生スミスのノートの一部

講義は無機化学反応から始まっているが、最初からフロギストンPhlugistonという用語が出て来る。これは燃焼素で、「酸素」以前の概念が説明されている。燃焼に関する講義では、ダイアモンドの燃焼の話も出ている。技術として役立つ化学を教えるのが目的であったから、例えばマッチの主成分である燐(P)について、温度で燐元素の状態が変化する事に加えて、作業者の安全についても教えている。有機化学、生物化学など多くの分野をカバーし、最終講義では発酵化学が出てくるので、そこを詳しく翻訳してみる。

酵素という概念以前の発酵化学

『1877年2月13日(火):酵母(訳者註:当時yiestと書かれ、現在のyeastと綴りが異るか、或は誤記か)の内容物が、蔗糖をブドウ糖に変換した後で、細胞壁が発酵を起す。健全な酵母は約65%の含窒素物を含有する。酵母の作用に空気は必要なく、従って発酵樽(252ガロン)には蓋をしなければならない。酵母は、アルコール濃度が6.5〜8.2%で健全である。

多くの発酵形式があるが、通常見られるのは次の6種である。



発酵形式 温度 細胞の直径
アルコール発酵 20-25℃ 0.0100
乳酸発酵 28-33℃ 0.0017
酢酸発酵 30-40℃ 0.0015
ヴィスコース発酵 30℃ 0.0013
酪酸発酵 36-40℃ 0.0020
アンモニア発酵 37℃ 0.0015

(訳者註:単位不記)

アルコール発酵は、20-25℃で最も活発に起こる。最高のアルコール発酵の酵母は2種類で、ビール生産株はTorula Cerevisiae、ワインを生産する株はMycoderma viniと呼ばれる。ヴィスコース発酵の主成分は、壊れた酵母細胞である。酪酸発酵菌は、動物細胞に似ており、ヴィブリオ(菌、vibrio)と呼ばれ、長い芋虫状の細胞である。(1行判読不能)これら総ての発酵菌は、細胞内容物としてアルブミンを含有している。アルブミンは、40℃で凝固するので、これが発酵において40℃を上限とする理由である。

発酵液にH2SO4を添加すると、発酵は抑えられる。最初に抑制されるのは、ヴィスコース発酵、次いで酪酸発酵、最後にアルコール発酵である。発酵で起こる主要な反応は、次の通りである。


   
アルコール発酵 C6H12O6=2CO2+2C2H6O
乳酸発酵 C6H12O6=2C3H6O3
酪酸発酵 C6H12O6=C4H6O2+2CO2+3H2
酢酸発酵 2C2H6O+O2=2C2H4O+2H2O2C2H4O+O2=2C2H4O2
ヴィスコース発酵 C6H12O6-H2O=C6H10O5gumC6H12O6+H2=C6H14O6
アンモニア発酵 CON2H4+2H2O=(NH4)2CO3


アルコール発酵では、必ず副産物が得られる。そのうち2つは、コハク酸C4H6O4とグリセリンC3H8O3とである。ブドウ糖の発酵では、必ずC4H6O4とC3H8O3が得られる。これらは、必ず生成する副産物である。

乳酸発酵では、ブドウ糖はカタメル化(katamerised)する。乳酸の製造は、水100部、チョーク(白亜、訳者註:炭酸カルシウムが主)10部、砂糖10部、動物の腐敗物1部を混合して行なう。チョーク添加の目的は、発酵液が酸性になると乳酸菌の活動が停止するので、発生する酸を中和するためである。約3週間後、乳酸カルシウムの結晶が生成するため、発酵液全体が固化する。そこから酪酸発酵が始まり、発酵物は液化する。

ヴィスコース発酵では、一方では脱水素でガムが生成し、他方では水素添加反応でマンニットが生成する。乳酸発酵では、ブドウ糖はカタメル化(katamerised)する。カタメル化というのは、高分子から低分子への還元を言う。』

母親の実家で、酒造りを幼いころから見ていた高峰譲吉は、この講義を受けて発酵あるいは醸造の科学的メカニズムを、明確に整理して頭に入れたに違いない。それは彼の最初のアルコール発酵の特許申請(1887年、英国特許No.7227)として実を結んだと思われる。

工場実習も体験し米経由で帰国

以上のような講義が行われていた時代の発酵科学について少しふれると、フランスのパスツールは、1857年に発表した論文で、発酵学の始祖としての地位を既に確立していた。また、発酵の化学機構を解明してノーベル賞を受けたマイヤーホフは、高峰譲吉が留学を終えて帰国した翌年(1884)に、ドイツで生まれている。

1880年3月にイギリスでは総選挙があって、自由党のグラッドストーンが首相になったが、これは数百年来の大変革であると手紙(註1)に書いている高峰譲吉も、時代の変化を肌身で感じていたことであろう。また、ルノワール、ドガ、セザンヌなどによる印象派の新しい絵画の澎湃とした流に代表されるヨーロッパ文化の成熟を、耳にしていたかもしれない。

グラスゴーでの勉学を終えた高峰譲吉は、ニューキャッスル、リバプール、マンチェスターなどにある多くの工場で見学・実習を重ねて、主として化学工業に関する知識を思い切り蓄えて(おそらく特許制度と技術についても深く研究して)、アメリカ経由で帰国した。1883年2月、彼28歳の冬であった(注1)。



※注と参考文献

注1:塩原又策編著「高峰博士」
注2:ダイアーは、知名度とは正反対に、彼が来日していなければ日本の近代化はかなり遅れたと考えられるほど偉大な功績を残している。
参考文献:ヘンリー・ダイアー著・平野勇夫訳「大日本」実業之日本社、NHKスペッシャル「明治2」NHK出版。
注3:https://www.nls.uk/ (surveyed in1857-8)
注4:明治幕末 海外渡航者総覧第1,2巻 人物情報編1992年発行、柏書房
① 志田林三郎(1851-89) 佐賀県生まれ。工部大学校第1期通信科卒。1880.2.-1883.9公費英国留学。帰国後、工部省御用掛(電信局出勤)。日本人として最初の工科大学電信科教授。37歳で没。
② 南清(1856-1904) 福島県会津生まれ。工部大学校第1期土木科卒。1880.2-1883.2公費英国留学。帰国後、工部省御用掛(鉄道局出勤)。日本の鉄道功労者。1890年山陽鉄道会社技師長となり、姫路以西の工事を担当。
③ 高山直質(?-1886.3.7) 熊本県生まれ。工部大学校第1期機械科卒。1880.2-1882.11公費英国留学。帰国後、工部省御用掛。帰国後3年余で没。
注5:University of Glasgowのsenior archivistであるMoira RankinからドイツSumitomo GmbHのW. W.Kreutnerへの私信(2004年11月)によれば、Dr.Edmond James Millsは、1875年からAndersonUniversityのTechnical Chemistryの若き教授であった。彼はUniversity of LondonからDoctor of Scienceを受け、Fellow of the Royal Societyとなる。1901年にはUniversity of GlasgowからHonorary Doctor ofLaws degreeを受けた。1862- 1865化学の教員(tutor,)を務めた。
主著:1877年 Destructive distillation、1889年Fueland its Application。大学の記録によれば、彼は1880-1881年Andersonian Universityの夜間クラスで、Technical Chemistryの授業を行っている。この私信には、高峰譲吉ら4人の下宿の家政婦についての詳細な記録は、要望すれば提供可能であると書かれている。いかに英国の資料保存システムが優れているかを示す例として、ここにそのことを紹介しておきたい。
注6:アンダーソン大学の名称は文献によって複数ある。時代と共に大学の内容が変遷したためと考えられる。「Andersonian University」(本稿掲載の1857-58年の地図はこの名称)、「the Royal Technical College」、「The Glasgow and Scotland Technical College, Andersonian Buildings」、現在は「University of Strathclyde」
注7:1876年の11月6日からの講義を聴いた学生スミス(James J. Smith)のノートを、注1と同じRankinからKreutnerを通じて入手。
注8:飯沼和正・菅野富夫著「高峰譲吉の生涯」朝日選書
(歴史記述として敬称を省略しています。)




(文責:事務局、記事作成:令和2年12月10日)