高峰譲吉博士研究会

お知らせ

高峰譲吉が残した黒部川電源開発事業


新型コロナウイルスの感染拡大による非常事態宣言が解除され、街や職場、公共施設に人の集まりが戻りつつありますが、まだまだ気を抜くことはできない状況が続いています。閉館していた黒部市歴史民俗資料館も再開し、「常設展 みどころ―高峰譲吉・山田胖 100年前の書簡に学ぶ―」が改めて見学可能となりました。また、2023年には宇奈月温泉が開湯100周年を迎えます。すでに今春の会報にてお知らせしておりますが、宇奈月温泉旅館協同組合の濱田理事長より関連記事を寄稿頂きましたのでご紹介いたします。



高峰譲吉が残した黒部川電源開発事業

宇奈月温泉旅館協同組合理事長 濱田正利 

 日本の20世紀遺産は、2017年12月8日に初の選定物件が公表された。ユネスコ世界遺産の諮問機関である、国際記念物遺跡会議(イコモス)の日本組織の(イコモス国内委員会)が、日本国内にある20世紀に建築・形成された文化的材を顕彰すべく選定したものである。宇奈月温泉周辺の施設を含む、黒部川水系発電所施設群が選ばれた。黒部川最上流の黒部ダムや、日本代表する建築家、山口文象が設計した黒部川第二発電所など20の施設が対象となった




▲ 黒部川電気記念館の旧展示パネル



▲ 黒四ダム

 黒部川電源開発の先駆けとなったのは、高峰譲吉博士のアルミ精錬事業である。博士は、明治23年(1890)11月に永住を決意して渡米以来、大正11年(1922)7月までの生涯を終えるまで、長年にわたって日米親善、日米文化交流に尽くしてきた。博士は65歳を過ぎると体も弱り、望郷の念に駆られ、大正10年(1921)に日米経済視察団の団長として、ニューヨークを訪れていた、渋沢栄一に帰郷したいと訴えるが、願いが叶えられなかった。それは、日米友好関係を維持するためには、博士が欠かせない存在だったからである。
 その背景は、明治の後半以降、日本からハワイやアメリカ西海岸への移民が急増し、現地アメリカ人との間に様々なトラブルが発生し、政治問題化した。博士は、全米で日米親善の必要性を説きながら、明治38年(1905)にニューヨークで日本人倶楽部、明治40年(1907)に日本人協会を設立し、自ら会長としてその運営に尽力したが、思うように日米の関係が改善できない。唯一日米親睦の成果で、現在も見ることができるのは博士が寄贈した、ポトマックの桜である。苗木の病害虫に悩まされ、検疫で撥ねられる失敗を繰り返しながら大正元年(1912)、ソメイヨシノの苗木3000本が、ワシントンに寄贈されることになった。大正2年(1913)、アメリカ第28代目の大統領のウイルソンが就任するや否や人種差別を容認した事で、加州を始めとして全米の各州では排日土地法が制定された。科学者として実業家として事業に専念する傍ら、日米親善に尽くしてきた高峰にとっては耐え難い思いであった。日米をこれまで以上に親密にさせるには、経済的な活動とその実績でもって示すことが必要となった。
 そこで博士は、アルミの将来性に着目し、日本でまだ勃興していなかったアルミ産業をアメリカより導入し、日米合弁企業として立ち上げるという構想を打ち立てた。そして親交のあった世界最大のアルミ企業・アルコア社にプロジェクトを持ちかけたのである。



▲ 創業当時のアルコア社

 博士は大正5年(1916)に帰国の際、アルコア社の社長デービスを伴って日本でのアルミ市場の調査をした。有望性が確認されると直ぐに、東洋アルミナム(株)の創設を計画し、合弁会社の役割分担を決めた。アルコア社からは資本に加え、原料となるボーキサイトとアメリカが独占していた精錬技術及び精錬関連装置などを提供してもらい、日本からは資本と労働力と工場用地を提供することとなった。博士は、工場適地として郷里の高岡で、伏木港を擁する臨海地帯と決めた。伏木港はボーキサイトの輸入に適した港であり、港にそそぐ小矢部川も利用できる好適地である。背には年中雪を戴いた雄大な立山連峰があり、その雪解け水も豊富である。加えて高岡は、江戸時代より加賀藩の伝統産業である鋳物の町として栄えてきた。そこには金属の溶解技術や加工技術もあった。最後に加わるのがアルミの精錬を行う安価な電力である。この壮大な計画を実現するためには、水力立地調査と発電所建設を担う優秀で信頼のおける土木技師が必要であった。

 そこで博士は、郷里金沢出身の学友、石黒五十二に相談し斡旋を依頼した。石黒五十二は、博士より1歳年下で共に加賀藩の藩校明倫堂で学んだ盟友であった。専門は違ったが共に英国に留学し、石黒はアレキサンドリア港の水道工事やサハラ砂漠の近くでの灌漑工事にも従事した。明治16年(1883)、帰国後は内務省土木局に勤め、石炭の積出港である三池や若松港の築港整備を行った。明治17年(1884)、東京神田区はコレラの患者の発生率が高かったので、東京府で最初の下水道工事を完成させ、130年経た現在も使われていて衛生工学の草分け的存在となっている。




▲ 石黒五十二         ▲ 神田の近代的下水道

 明治19年(1886)に海軍省技師に兼任され、呉港、佐世保等の軍港も手掛け、土木監督署技監、海軍技監を歴任し、明治39年(1906)退官し、同年創設の宇治川電気(株)に技師長に就任した。この時、後に日本電力㈱を創業する山岡順太郎も宇治川電気の経営に加わっていた。石黒は、わが国最初の本格的水力発電所となった宇治川発電所の建設工事を担当し、大正2年(1913)に完成させた。当時開通させた水路は、我が国最大最長の11kmの隧道であった。石黒が高峰譲吉博士に推薦紹介したのが、大学の後輩で31歳年下の山田胖であった。
 山田胖は、明治19年(1886)5月6日福岡県朝倉郡で生を受ける。明治43年(1910)に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業して、同年逓信省臨時発電水力調査局へ技師として就任した。おそらくこの頃から石黒に発電水力調査に関して、世話になったものと思われる。そして大正元年(1911)、逓信省電気局へ逓信技師として勤務することになった。石黒の斡旋依頼で博士と会った山田は、その高邁な計画と熱意に感動し強く心を動かされた。そして大正6年(1917)7月に逓信省を自ら依願退官し、東洋アルミナム(株)創立事務取扱となり、博士の事業に加わった。同年、アルコア社からホーレ技師が派遣され、山田胖と共同で、富山県内河川で水力立地調査を行った。黒部峡谷に入ったのは大正6年11月である。そして調査の結果、伏木港に近い神通川水系の高原川、宮川の川筋が最適と結論付けられた。大正6年(1917)8月より大正7年(1918)1月の間にアメリカ側の意向を踏まえた博士の強い指示で、神通川の両水系へ水利権の申請が富山県へ提出された。水利権の許認可権限は富山県知事にあり、当時は第16代井上孝哉知事であった。しかしながら神通川水系にはすでに先願者があり、博士側の申請は許可になる見通しがつかなかった。そこで大正7年(1918)5月に黒部川上流で出願するが、あくまで神通川水系で水利権を獲得するべく博士自ら逓信省に働きかけ、今回の日米合弁企業の設立の趣旨、その政治的意義を強調し特別の配慮を強く要請した。




▲ 逓信省への退官願



▲ 山田胖

 当時の知事は官選で、政府が任命をした。博士のバックには渋沢栄一や益田孝などの要人がついていたので、井上知事は対応に苦慮した。そこで三井鉱山(株)が大正3年に黒部川中・下流域5地点へも水利権の申請をしていることに着目、逓信省電気局長の仲裁案を受けて次のような裁定を行った。「三井鉱山には神通川水系高原川での水利権を認める。その代わり同社が黒部川へ出していた水利権を取り下げ、これを博士側へ譲る。博士側は神通川水系に出していた水利権を取り下げる。代わって三井鉱山が黒部川で申請していた地点へ、改めて申請すればこれを許可する。」というものであった。この裁定に従って博士側は、大正7年9月20日改めて黒部川で五カ所の水利権を申請、1920(大正9)年になってこれが正式に許可された。このような経緯で東洋アルミナム(株)は、大正8年12月8日三共(株)内に正式発足し、黒部川電源開発に乗り出すことになった。事業計画では先ず電力1万4000KWを得て、これによりアルミニュウムを年間3500t生産しようとした。
 東洋アルミナム(株)はその豊富な資金を使い、鋭意電源開発を進めてきたが、大正11年(1922)末になって経営危機に陥った。それは第一次世界大戦後の経済不況で、アルミの需要が激減し、アルコア社からの出資とその他の協力が得られなくなった。更には事業の提案者である博士が、同年7月に逝去されたことが加わった。その結果、東洋アルミナム(株)の経営権は、大正11年末より日本電力が(株)が掌握した。そのため東洋アルミナム(株)はアルミ製造を断念し、専ら電力の開発と供給を目的とすることになった。
 日本電力(株)は、宇治川電気(株)を母体とし大阪に本社を置き、金沢出身の山岡順太郎が創業者である。山岡は、博士の父、高峰精一等が設立した金沢医学校の出身で、大正8年から大正12年まで大阪商工会議所会頭を務め、関西の電力不足を補うために河川の多い富山に進出してきた。山田胖は、大正12年(1923)2月からは日本電力㈱宇奈月台事務所次長として、東洋アルミナム(株)の取締役に就任、黒部電源開発の総責任者として、電力事業の継続を推進した。
 山田が設計施工した宇奈月の八太蔵発電所は、東洋アルミナム(株)が自らの発電所建設及び建設資材などを運搬するための工事用電力をまかなう目的で、大正11年6月着工して大正12年12月に完成した。これは本格的な黒部川電源開発工事のために電力を供給する予備発電所ともいえるが、同時に黒部川水系に設置された第1号の発電所であり、昭和44年(1969)8月の出水による谷の大崩落によって廃止されるまで、電源開発に黒部鉄道に電力を供給続けた。
 この建設と同時進行で行われたのが、黒部鉄道の敷設である。計画当初は、国鉄三日市(現黒部)〜桃原(現宇奈月温泉)間の資材運搬用の専用鉄道であったが、地元住民からの要望により地方鉄道とした。当然のことながら工事専用鉄道と、一般の地方鉄道とでは、工事の仕様に違があるのみならず、一般旅客はそんなには見込めない。東洋アルミナム(株)にも日本電力(株)にも傍系事業に資金を回す余裕がなかった。会社幹部としては経営資源を集中させる観点から当然反対であった。当然激しい議論となったが、山田らの「電力会社といえども地域社会の振興に寄与してこそ、所期の目的も達成できる。」「温泉の開発が進めば、旅客の増大が見込める。」という強い主張で、多少の犠牲を払ってでもこれを一般地方鉄道として経営し、天下の名勝黒部峡谷を広く世に紹介しようとした。
 東洋アルミナム(株)は、大正10年(1921)6月28日三日市〜桃原間17.1kmの鉄道敷設免許を取得し、子会社として黒部鉄道(株)を設立した。会社では経営の安定を図るため、地元の参加協力を得ることにした。設立総会は大正10年12月20日に開かれ、社長に東洋アルミナム(株)の代表取締役塩原又策が就任し、山田は常務取締役として工事全般の指揮を執り、その経営に尽力した。




▲ 塩原又策



▲ 山県の主要河川

 工事は大正11年(1922)8月1日に着工して、大正12年(1923)11月21日に開通した。当初懸念された営業収支は、開業した大正12年上期こそ損失を出したが、翌年からは貨客ともに営業成績は好転、昭和17年(1942)9月に富山電気鉄道(株)に営業権が譲渡され、さらに昭和18年交通事業の大統合で富山地方鉄道(株)に統合されるまで、毎期収益を上げることができた。これは黒部川電源開発工事の進展と宇奈月温泉の発展によるもので、当時宇奈月温泉の開発と黒部観光開発の重要性に着目し、黒部峡谷観光に道を拓き、さらには地域の振興発展のために一般旅客用の地方鉄道を敷設した山田胖の先見性とその献身的努力が、今日でも高く評価されている。
 黒部峡谷には黒薙、鐘釣、祖母谷などの温泉が湧出することはよく知られていた。また宇奈月温泉のすぐ下流にあたる荷上には、大正6年に黒薙から引湯して愛本温泉が開かれており、湯治客でにぎわっていた。これら温泉経営者らは、東洋アルミナム(株)が、黒部川で電源開発工事を始めると「発電用に川の水が大量に取水されると、黒部川の水位が低下し、温泉の湧出が悪くなる。」という理由で、水力発電工事の中止方を県知事に陳情した。東洋アルミ(株)では水利権の使用が制限されるのを避けるため、これら黒部川沿いの温泉を買収することにした。その結果、黒薙温泉、二見温泉、愛本温泉(株)を買収し、三温泉を一括経営するために、子会社として大正11年(1922)9月22日、黒部温泉(株)が設立された。社長には塩原又策が就任し、山田は常務取締役としてその指揮を執ることになった。
 当初、東洋アルミナム(株)の首脳陣は、これら温泉経営について強い難色を示していた。とりわけその経営を引き継いだ日本電力(株)は、水力開発以外の傍系事業に出資する余地はなかった。しかし「長年地方の湯治湯として、地方農山村唯一の保養地となっている鐘釣、黒薙の両温泉地を閉鎖することは、地元との協調を必要とする事業遂行の観点から、望ましいことではない。」「今後長期にわたる困難な電源開発事業を遂行していくためには、桃原に多数の職員を定住させる施設や、多くの工事人夫を保養する施設が必要である。」さらに「一般鉄道として敷設することになった黒部鉄道に、より多くの旅客を呼び込むためにも、桃原に愛本温泉(株)から買収した施設を移築し、ここに新しく引湯して一大温泉地を拓くことが望ましい。」とする考えが、山田胖らによって強く主張された。この事業でも一大論議の末、鐘釣、黒薙温泉の経営継続と宇奈月温泉開拓の方針が決定された。その結果日本電力(株)は、宇奈月温泉開発の役割を全面的に黒部鉄道(株)に委ねることにした。そこで黒部鉄道(株)は、大正13年(1924)5月1日に黒部温泉(株)を合併させた。これは宇奈月温泉の本格的開発に備える為であった。なお、これに先立つ大正12年(1923)2月5日黒部鉄道㈱の社長は、塩原又策から日本電力(株)の専務を務めていた池尾芳藏に交代した。
 池尾芳藏は、明治11年(1878)年の滋賀県草津の生まれで、山岡順太郎に従い大正8年(1919)日本電力(株)が創立されると専務に就任、大正15年(1926)に日本電力の副社長に、昭和3年に、山岡順太郎の後を受けて日本電力㈱の社長に就任して、日本電力㈱を5大電力に育て上げた。昭和16年に日本発送電の総裁となり、昭和26年関西電力が新設されると相談役を務めた。
 ところで無人の台地に等しい桃原台(宇奈月)に、一大温泉地を拓くことはかなりの冒険であった。その成否は、偏に常時熱いお湯が引けるかどうかにかかっていた。山田は愛本温泉買収後、大正11年(1922)2月に引湯関係の調査を実施した。その結果、冬でも40度以上のお湯が確保できるが判明した。そこで黒薙で新たな泉源掘削工事を行った。加えて源泉地の黒薙と桃原の間で最大の流速を得るには、引湯間をこれまでのような木の樋ではなくて、流速を高めかつ水圧に耐え得るパイプ状のものにする必要があった。引湯管敷設工事は、大正11年(1922)7月から開始した。引湯管には、1本約2mの赤松を約3500本用意し、口径を4寸にくり貫いた木管を繋ぎ合わせて用いた。工事は大正12年(1923)11月末に完成し、ここに50度を超える温泉が黒薙から桃原(宇奈月)まで引かれることになり、ここに宇奈月温泉郷の建設が始まった。




▲ 宇奈月に建つ山田胖銅像



▲ 黒薙温泉の湯を引いた木製導湯管

 先ず、東洋アルミナム(株)は桃原台で5万坪の買収を計画し、大正11年(1922)から用地交渉に入った。しかし東洋アルミナム(株)は、経営難から用地買収を計画の半分2万5000坪で打ち切った。大正12年(1923)以降、東洋アルミナム(株)の経営権を掌握した日本電力(株)は、宇奈月温泉の開発を認めることになり、黒部鉄道(株)は、旅館の誘致策として、貸付融資制度を設けてその誘致に努め、宇奈月温泉の基を拓いたのである。
 山田胖は、大正13年(1924)6月に、これまでに行った水力立地調査の結果をまとめ、黒部川電源開発の全体像を明らかにした。それは黒部川の概念図上に、13カ所の立地点と、合計で最大出力28万1700KWの電源開発の可能性が示され、黒部川最初の本格的発電所となった柳河原発電所、後に黒部川第4発電所として具体化された剣川発電所、さらには黒部川源流域での発電の可能性についても図示している。これを基にその後日本電力(株)は、改めて黒部川全流域で、詳細な本格的水力立地調査を実施して、上の廊下・下の廊下で各1カ所、計2カ所の一大貯水池式発電所を含む全体計画を作成している。この計画はその後、昭和14年(1939)に国家統制による特殊会社、日本発送電(株)に受け継がれた。更には、昭和26年(1951)年5月1日に日本発送電と九配電会社が解体され、発電・送電・配電を一貫して経営する九電力体制の一つである関西電力(株)に受け継がれた。
 高峰譲吉博士が提唱したアルミ精錬事業は、黒部の地で電源開発として残り、石黒五十二、山岡順太郎、山田胖、池尾芳藏、そして関西電力の初代社長である太田垣士郎と様々な人々が、開発に関わってきた。その電源開発の歴史を色濃く残す建造物は、黒部川水系発電所施設群として日本の20世紀遺産として残っている。2023年には宇奈月温泉の開湯100年を迎え、翌年には関西電力の黒部ルートが一般開放される。山田胖が初めて未開の地、黒部峡谷に分け入り水力立地調査を行ったのは、大正6年11月の初めで、昭和2年1月新任地に赴任するまでの10年間、電源開発は勿論の事、地方鉄道の敷設と運営、宇奈月温泉の開湯と黒部川温泉の整備など、複雑多岐にわたる各種工事の総括責任者として、すべて成功に導くのである。山田胖は、常に電源開発の事業は「地域の振興と発展を考えなければならない。」と、時には日本電力(株)の役員と激しい議論を交わさなければならなった。当然、確執が生まれることになる。その結果、誰よりも思い入れの強い黒部の地を、自分が陣頭指揮を執った柳河原発電所の完成目前で去ることになる。黒部開発の恩人、山田胖である。

【引用・参考文献】
  宇奈月町史編纂委員会(1989)「追録宇奈月町史」 宇奈月町
  村上兵衛(1989)「黒部川」 関西電力株式会社
  山田時夫(2013)「高峰譲吉と山田胖」黒部第20号 日本黒部学会

【画像出典】
(公社)とやま観光推進機構
  Alcoa.com
  千代田観光協会HP
  国立公文書館
  国土交通省HP





(文責:事務局、記事作成:令和2年6月20日)