高峰譲吉博士研究会

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渋沢栄一と高峰譲吉 その1


2024年に発行予定の新紙幣、一万円札の肖像画に「日本資本主義の父」渋沢栄一、五千円札に「女子教育の先駆者」津田梅子、1000円札には「近代日本医学の父」北里柴三郎が選ばれました。



※ 出典:財務省HP「新しい日本銀行券の肖像等について」より

渋沢は、大変な筆まめで日々見聞きしたこと、出会った人について、気付いたことなどを日記として記録していました。現在、公益財団法人渋沢栄一記念財団は、渋沢が残した日記や記録のみならず、その関連資料も含め蒐集、編纂したものをデジタル版『渋沢栄一伝記資料』として公開しています。

『渋沢栄一伝記資料』は全68巻、約48,000ページにわたる膨大な内容ですが、現在は、本編のうち第1巻から第57巻までが公開されているようです。

「一個人として伝記に関する資料に止まらず、実に幕末以来、明治、大正、昭和の三聖代に亙る経済方面の史実を始め、政治、外交、社会、教育、宗教、文化、学芸、等等に関する諸般の状勢を知悉せしむる上に資する(原文のまま)」と渋沢の娘婿であり、元帝国銀行の会長の明石照男が評していますが、まさに、視点によって様々な情報を得ることができる貴重な資料だと思います。

さて、高峰譲吉は、渋沢や北里と縁が深く、様々な関わりがありました。この「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」で「高峰譲吉」を検索したところ、55件の結果を得ることができました。譲吉との関わりを渋沢自らが記録したものも多く、当時を振り返る資料として非常に興味深いものがありますので、順次紹介してまいります。

まず、一つ目として、大日本人造肥料株式会社創業三十年記念誌序文を取り上げます。これは渋沢が直接書き残したものではありませんが、譲吉と渋沢が中心となって立ち上げた日本最初の人造肥料会社が創業三十年を迎え、譲吉が昔を思い返しながら述べた祝辞を記録しています。

大日本人造肥料株式会社創業三十年記念誌  序文第一―六頁

祝辞
 大日本人造肥料株式会社創立三十年記念祝賀の開催に際し、偶然帰朝せる予が一言の祝辞を述ぶることを得しは頗る光栄とする所にして又転た懐旧の情に耐へざる所なり
 回顧すれば予が工部大学を卒業して英国に留学中(明治十一年―一八七八年)、ニウ・キヤツスル・オン・タインの或る化学製造所に於て実習的に見学したるは実に過燐酸肥料の製造なりき、後北米のニウ、オルレアンスに万国博覧会開設の当時(明治十七年―一八八四年)予は本邦の事務官に選任せられ、同地に滞留して其事務に鞅掌せり、同博覧会にサウス、キヤロライナ洲の出品に係る大なる「ピラミツト」形に積上げたる燐礦あるを見たり、以為らく、嚮に英国に於て見学的に従事せる製造所の原料は是なる哉、之を本邦に用ゆるも亦必ず有益なるものあらんと、即ち私資を投じて其数噸を購ひ、携へ帰りて時の農商務当局者に謀り、之を全国の有志者及び各府県の農事熱心家に分与し、実地に試用を依頼したるに、其成績果して良好なりしが故に、農商務大輔吉田清成氏先づ意動き、之れが製造事業を内国に起すの国家的重要事なるを認め推奨せられたり、依て予は本起業に関し、第一に実業界の先覚者渋沢栄一氏に謀りたるに、同氏は之を益田・大倉・浅野氏等を始め其他有力なる諸氏と旧第一銀行楼上に会して協議せられしに、議忽ち一決し会社を創立することゝなり、其製造上の計画及其実施を予に委ねられたり、斯くして成立したるは即ち本会社にして時は明治十九年、実に今を距る三十年前なり、会社は既に成立し、事業の国家的有望なるは何人も認むる所なれども、尚ほ其事業の遂行は頗る困難なるものありき、之れを略述すれば即ち初年は全部損失に帰し、次年は僅に欠損なきを得、第三期は初年度の損失を補顛し得、爾後幸にして順次売行を増加し、漸く収支相償ふの見込を立つるに至れり、予は本品の普及を図る為め時に或は草鞋を穿ちて山間僻陬を遊説せしことありき
  以下略

大正六年二月 工学博士薬学博士 高峰譲吉





▲ 江東区大島一丁目の釜屋堀公園/化学肥料創業記念碑(「東京人造肥料会社」の最初の工場跡地)

1867年、渋沢は、15代将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武を団長とするパリ万博博覧会使節団の随員として、ヨーロッパへ赴くことになりました。その地で、諸外国の実情に触れた体験が、渋沢の思想や行動に大きく影響を与えたことは有名です。譲吉もまた、ニューオーリンズ万国博覧会に事務官として派遣され、そこでの経験が大きな転機となりました。両者には、新しい情報を吸収する柔軟さや強い好奇心だけでなく、日本近代化への国造りを想う心が共通していたことでしょう。

『渋沢栄一伝記資料』からではありませんが、もう一つ興味深い資料があります。

今から130年以上も前にアメリカで取材を受けた日本人のインタビュー記事がサウスキャロライナ州の都市・アンダーソンの地元紙に掲載されました。もちろん、この日本人は高峰譲吉です。

1884(明治17)年12月16日から5月31日まで、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオーリンズで国際博覧会が開催されました。正式には、「World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition」といい、綿業百年を記念する万国博覧会でした。これに参加を決定した明治政府は、英国留学から帰国したばかりの高峰譲吉をはじめとする3名の若い事務官(玉利喜造、服部一三)を送り込むことを決定しました。



▲ ニューオーリンズ、チャールストン、アンダーソンの位置関係



▲ 万博派遣の辞令(出典:国立公文書館)

譲吉は万博での任務を精力的にこなしていましたが、引用した祝辞で本人が述べているように、会期中アメリカ館に展示されていたリン鉱石を見て、英国留学中にニューカッスルの化学製造所で肥料製造を見学したことを思い出しました。日本にはまだ存在しない化学肥料に着目した譲吉は、展示担当者からその採掘場所を聞き、見学に赴きます。そしてサウスカロライナ州チャールストンの採掘現場を視察し、リン酸肥料の製造工程を詳しく調査した後、過リン酸石灰6トン、リン鉱石4トンを自費で買い付け、日本に持ち帰ることになります。これが、渋沢と起ち上げる日本最初の人造肥料会社「東京人造肥料会社」(後の大日本人造肥料会社)の第一歩となりました。

この視察の際に、譲吉がアンダーソンの地元記者に取材を受けた様子が記事となっていたのです。譲吉が、チャールストンに視察に云った話は、様々な本や講演などで語られていますが、実際に本人がチャールストンのどこへ赴いたか、何を感じていたか、当時の様子を細かく説明している資料はこれまで見たことがありませんでした。

また、当時のアメリカ人が日本に対して、どのような興味を持ち疑問を抱いていたかをひもとく、貴重な内容です。



▲ 上の画像をクリックすると、別ページで拡大画像が表示されます。

以下、地元紙の記事を引用し、要訳します。
※レポーターの聞き取りが不鮮明で綴りが判読不明な単語が存在しますが、原文のまま表記します。


Anderson Intelligencer
帝国日本に関する興味深い談話
News and Courier
July 30, 1885

先週の水曜日にNews and Courierの代表者は、チャールストンに数日間滞在し、サウスカロライナ州のリン酸産業を視察に来ていたニューオーリンズ博覧会の日本代表事務官の高峰譲吉氏に興味深いインタビューをすることができました。

高峰氏はニューブライトンホテルに滞在中で、レポーターは事務官との長い対談を行うことができました。いずれのエピソードも皆さまの興味をひく話ばかりだと信じています。

高峰氏はホテルの談話室のテーブルに座り、小さく不思議な装いの本をポケットから取り出しました。この本には日本帝国の統計情報が含まれていましたが、米国で出版されたどの本とも異なっていました。

それには2つの背と1枚のページからなり、1つのページは扇のように折り畳まれています。
(※筆者注:折り本と呼ばれる蛇腹の和帳と思われる。図参照。)



日本語で書かれていましたが、日本人かヴァッサーカレッジの卒業生以外誰にも理解できませんでした。
その本の利便性は、事務官が質問の内容に対し、迅速に本の中身を参照の上、回答したことによって証明されました。高峰氏は東京帝国大学工学部を卒業したと語りました。

日本の公立学校

「大学は無料ですか?」レポーターは尋ねました。

「そうですね、政府によって支援され、公共事業部の指導下にあります。

私は、教授がすべて英国人の大学で英会話を学びました。卒業後、私はイギリスに2年間留学し、日本に帰る途中、アメリカ大陸を横断し、フィニアス・フォッグ氏のように世界一周旅行をしました。

日本には公立、私立合わせておよそ3万校の学校があります。公立学校は、アメリカの州立学校と同様に、地方政府の税金収入から助成を受けています。」

国はどのように統治されていますか?

「選挙? いいえ、私たちには選挙はありません。様々な町や都市は、天皇によって任命された知事や県令によって管理されています。

地域ごとの議会に対応して、国民によって選出された政党がありますが、彼らの活動は、知事の承認を条件としています。

東京の議会は75人の選出者で構成されており、とても大きな組織です。」

「私たちの天皇は、睦仁天皇と呼ばれています。彼は18年間日本国を統治していますが、まだ40歳になっていません。天皇家が帝位についていた2500年の間、系譜を遡ることができます。」

人民には3つの階級があります。
華族または貴族、爵位は受け継がれる。
士族または、侍
平民、または一般の人々

「帝国の人口は3,700万人で、そのうち約7千人が外国人です。帝国軍人はおよそ10万人であり、帝国海軍は30名の将校と7千人の兵士から成っている。」

3つの主要都市は以下の通りです。

東京(江戸)、人口100万人
大阪、人口30万人
京都、人口25万人

「国会に相当するものはありません。5年後には、英国下院のように、帝国の特別枠から衆議院議員が選出されます。天皇陛下もそう話しています。財産を持ち税金を納めたものだけが投票権を持ちます。多くの普通の人々は自分の農地を所有しておりますが、借りる人もいます。

日本には奴隷や農奴はいません。私は、これまでもいたとは思っていません。私達は皆自由です。農業用地は非常によく整備されており、所有に関する争いは殆んど起きません。」

日本の宗教

「帝国の宗教は何ですか?」

「これは私が話すことに少し躊躇する質問です。国教は仏教です。私はそれが無教養の宗教だと言わなければなりません。

教育された階層は一般的に儒教の信者であり、また帝国にはキリスト教徒もいます。」

「仏教徒は何を崇拝しているのですか?」

「私は彼らがどのような神格を崇拝しているか知りません。(少しためらいながら)

私は彼らが道徳的な法律によって誰も過ちを犯さず、自身の光に合わせて素晴らしい人生を歩むことができると思っています。私はあなた方の七戒に確信があります。」

「十戒です。」 レポーターは訂正しました。
はい、あなた方の「十戒」が日本の道徳的法律の中で、実質的に具現化されており、日本の宗教の一部でも教えられています。

事務官は、この質問に関して明確な確信を持っていないようだが、彼に向けられた個人的な質問にも非常に愉快かつ丁寧に答えてくれました。

郵便配達システムについて

高峰氏は、日本についての膨大な情報を提供し続けました。彼は、日本の郵便システムは非常に完成度が高く、郵便局は6000件存在し、郵便料金はこの国とほぼ同じだそうです。郵便局長は天皇によって任命され、任期は天皇の意志によります。

「攻撃的な党派は、解任の原因になりますか?」とレポーターは尋ねました。

事務官は、「了解しました。」と笑いながらジョークを受け止め、「我々日本には攻撃的な党はありません。」と返答しました。

電報? はい、電信線は帝国中に張り巡らされ、鉄道もあらゆる方向に敷設されています。灯台も海岸線全体を管理しています。

輸出と輸入について

私達の輸出額は毎年3000万ドル、つまり国民1人当たり約1ドルです。輸入額は、年間で2300万ドルです。

「新聞ですか? はい、たくさんの新聞があります。東京には、7つの大きな新聞社と5,6つの小さな新聞社があります。大きな新聞社は、毎日発行され、それぞれの出版部数は7000部程度です。帝国には1000の銀行があります。税金は不動産価格の2%です。政府の年間税収は7600万ドルで、国債は3億ドル、国債には5〜8%の利子が支払われます。国の借金は20年前の明治維新によって、大幅に増加しました。」

高峰氏が言及したこの革命(明治維新)は、天皇に率いられ、帝国の権力を奪い、人々を大きく圧迫した将軍に対して行われた。革命は成功し、日本の成長はこの天皇復活の日から始まったのであった。

島の王国

日本帝国は、長く連なる島々によって構成されています。首都がある主要な島は、本土と呼ばれ、その他に九州、四国、蝦夷があります。さらに107つの小さな島があり、157,648平方マイルを囲う、文字通り島の王国と言えます。温度は変わりやすく、最低気温は札幌の零度、最高気温はNUGATEの95度です。

主な作物とその生産量は以下の通りです。

米:      196000000 ブッシェル(1ブッシェル=35.2リットル)
小麦:     11500000 ブッシェル
大麦:     49421000 ブッシェル
粟:      13890000 ブッシェル
大豆:     11556000 ブッシェル
そば:     3367000 ブッシェル
綿花:     10251000 CWT(1CWT=100ポンド=45kg)
麻繊維:    183700 CWT
茶:      394048 CWT
タバコ:    332441 CWT
サトウキビ:  7149000CWT
ジャガイモ:  1790000 CWT
桑皮紙:    327000 CWT
インディゴ染料:880000 CWT

ニューオーリンズ博覧会での日本館展示は最高なものの一つと言われています。14つの政府関係者による展示とともに、61の民間出展者による展示があり、全てが分類されグループ化されていて、機能的かつ網羅的な展示となっています。

事務官である高峰氏と玉利氏が説明つきのカタログを英語で作成し、印刷してあります。

高峰氏は昨日水曜日にはチャールストンのリン酸会社の鉱山を訪問し、アトランティック、エディスト、アシュレーなどの会社を訪れました。

彼は、岩石を洗って、粉砕して、準備する工程を観察し、鉱山も訪れました。今日は、彼はおそらく海洋部門を訪問すると思われます。

「私はここに来られたことを大変嬉しく思います。」と彼はインタビューを終了するにあたり言いました。「私が見てきたことは驚きであり、喜ばしいものでした。私がここに探しに来た目的は、実用的な成功として達せられていることがわかり、両国間の貿易を確立し双方に利益をもたらすことができると確信しています。」

高峰氏はチャールストンからワシントンへ行き、しばらく過ごした後、9月初めに日本に帰国する予定です。

譲吉が蛇腹の和帳を手に、現地新聞記者のインタビューに人知れず答えていたことや当時のアメリカ人が万博を通じて日本にどのような興味を抱いていたのかなど、時を超えてその場面を空想することは、非常に面白いと思います。

今回は二つの資料を紹介いたしました。今後も、渋沢栄一伝記資料及びその他の関連資料をピックアップして紹介していきたいと思いますので、是非お読み頂ければ幸いです。





(記事作成:令和1年11月12日、文責:事務局)