高峰譲吉博士研究会

寄 稿(19) 

高峰博士の民間外交


 1904(明治37)年2月8日、旅順港攻撃によって日露戦争が始まり、米国の世論は日本とロシアの戦争について、「日本が負ける」という意見が多数派となっていきました。
 高峰博士は、この米国社会の空気を変えるべく、日本と米国の相互理解を進める民間外交に本格的に着手します。

 そんな中、同年11月16日に講道館柔道使節団(富田常次郎、前田光世、佐竹信四郎)が、ニューヨークに到着しました。翌1905(明治38)年、米国各地で柔道の宣伝、普及に努め、デモンストレーションや試合を行っていた彼らの活動を高峰博士が通訳していたことを証する記述が見つかりましたので紹介します。

 ニューヨークのコロンビア大学には、1877年に創刊されたColumbia Spectator(コロンビア・スペクテーター、スペクテーターは傍観者、見物人の意味)という学生新聞があります。
 これは、ハーバード大学の学生新聞The Harvard Crimson(ハーバード・クリムズン、1873年創刊、クリムズンは深紅色のこと)に次ぐ、全米で2番目に古い学生新聞です。


 ▲ 左:Columbia Spectator ロゴ、 右:The Harvard Crimson マーク


 ちなみに、日本における最初の学生新聞は、1917年に慶應義塾大学において創刊された「三田新聞」であると言われています。これに刺激を受ける形で1920年には東京大学において「帝国大学新聞」(現在の東京大学新聞の前身)、1921年には「日本大学新聞」(日大新聞)、1922年には「早稲田大学新聞」、1924年には「法政大学学友会報」(現在の法政大学新聞の前身)が創刊されるなど、多くの大学で学生新聞の発行が相次いだそうです。

 コロンビア・スペクテーターのホームページ保存記録には、創業当初からの紙面がだれでも自由に閲覧できるようになっています。1905年3月15日と3月22日の2つの記事を以下、引用します。


Columbia Spectator No.121 (March 15, 1905)

[Demonstration of Jiu-Jitsu]
Professor George L. Meylan, medical director of the University gymnasium, has made arrangements to have Professor T. Tomita of the Peers' College of Tokyo give an exhibition of jiu-jitsu in Earl Hall on Wednesday evening, March 21, at 8:30 o'clock. Professor Tomita will be assisted by Professor E. Maeda of the First Higher School of Tokyo. Following is the program as planned: 1. Introduction by Professor Meylan. 2. Explanatory remarks by Doctor Takamine. 3. Jiu-jitsu as a branch of physical culture for women and elementary pupils. 4. How to fall without incurring injury. 5. How to throw one's opponent. 6. Explanatory details in the foregoing practice. 7. Jiu-jitsu as an art of self-defense 8. Jiu-jitsu as a method of training the mental faculties.

No.121号(1905年3月15日発行)

「柔術のデモンストレーション」
ジョージ・L・メイラン教授(大学体育館の医療ディレクター)は、3月21日午後8時30分よりアールホールにて、東京の学習院大学の富田教授(※1)を招聘、柔術発表会をアレンジした。富田教授は旧制第一高校の前田教授(※2)と共に発表会を行う予定。プログラムは下記のとおり。
1.メイラン教授による説明
2.高峰博士による補足説明
3.柔術を活用した小学生や女性のための体作り
4.受け身の取り方
5.相手の投げ飛ばし方
6.上記の練習方法
7.自己防衛格闘技としての柔術
8.精神鍛錬メソッドとしての柔術

※1
富田 常次郎(とみた つねじろう、1865年2月 - 1937年1月13日)は、伊豆国君沢郡(現静岡県沼津市)出身の柔道家。段位称号は講道館柔道七段、講道館で最初の入門者・黒帯(初段)取得者である。大日本武徳会柔道範士。
※2
前田 光世(まえだ みつよ、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。後に、ブラジルに帰化。帰化後の本名はコンデ・コマ(Conde Koma)。

※のちに前田と佐竹は、富田と別れ世界各地でボクサー、レスラー達と他流試合を行い柔道の強さを伝え歩いている。グレーシー柔術の創始者エリオ・グレーシーに柔道を教えたのは前田である。

 続いて、1905年3月22日発行の紙面です。
前日に行われた柔道のデモンストレーションを学生記者が取材し、記事にしています。

Columbia Spectator No.127 (March 22, 1905)

[JIU-DO EXPLAINED]
Professors Tomita and Maeda Give Exhibition Large Attendance.
An exceedingly interesting and instructive demonstration of jiu-do, the Japanese method of physical culture, of which jiu jitsu is but a branch, was given by Professor T. Tomita, assisted by Professor E. Maeda, in the gym last evening. In spite of the bad weather, over two hundred people were present, filling the seats around the wrestling mat. After an introductory address by Dr. Meylan, Professor Dean gave a short and interesting explanation of jiu-do, tracing its development from the feudal ages of Japan. The object of jiudo is to enable a small man to defend himself and to hold his own against a superior in size and strength. Another object of the system is to train a man to act instantaneously in self-defense. After the introduction, Professor Tomita demonstrated the art of falling from all possible positions without self-injury; as well as several methods of throwing a man, explained and cleverly illustrated by the professor and his assistant. Next followed an exhibition of a few of the jiu-do wrestling tricks, in which Professor Maeda cleverly threw Mr. Keith, who had consented to assist. Another interesting feature was the exhibition of some of the obsolete jiu jitsu tricks for defense with a fan against an opponent armed with the curved Japanese sword. The remarks of Professor Tomita, most of which were delivered in Japanese, were interpreted by Professor Takamine. Both of the wrestlers were men under five feet but alert and active and with arm and leg development which certainly speaks well for their system.

No.127号(1905年3月22日発行)

「柔道演技解説」
富田、前田両教授による演武。満員御礼。
昨晩、体育館にて極めて興味深く有益な柔道(柔術を含む日本の身体鍛錬術)のデモンストレーションが富田教授と前田教授によって行われた。悪天候にもかかわらず、レスリングマットの周りを200人以上の出席者が埋めた。メイラン博士による導入説明の後、ディーン教授は日本の封建時代までその歴史をさかのぼり、短いながらも興味深い柔道の説明をした。柔道の目的は、身体が大きく、力も強い相手に対峙しても自分を保持し、小さな身体でも自身を守ること、そして、自己防衛の際、瞬時に行動できる人を訓練することである。説明の後、富田教授はあらゆる角度、位置から怪我をすることなく落下する受け身の技術を実演した。同様に、教授と彼のアシスタントによっていくつかの投げ技も巧みに披露された。
続いて、前田教授による柔道技が披露され、組手の相手を承諾したキース氏を巧みに投げ飛ばしました。また、興味深い演武の一つとして、今では使われることのなくなった古い柔術の技、日本刀を持った相手に対する守りの演技も紹介されました。
富田教授の説明はほとんどが日本語であり、高峰博士によって通訳されました。
二人の組手はどちらも身長150センチメートル前後の小柄な体格でありながら、敏捷で活動的であり、よく鍛錬した四肢で柔道技を体現していました。

 奇しくも1905年3月15日は、高峰博士がニューヨーク在住の日本人を集めて発足した「ニッポンクラブ」の設立日でもあります。また、元コロンビア大学総長でニューヨーク市長でもあったセス・ロウ氏と高峰博士は旧知の間柄です。日本と米国の友好を進めるため物心両面で支援活動を続けた高峰博士の思いが感じられます。

 この頃の高峰博士の民間外交活動は、下記のとおりです。

(1)1904年2月28日、米国人に日本のことを知ってもらうため、自筆記事「日本における諸科学部門の驚異的発達」をニューヨークプレス紙に掲載依頼。
(2)1905年3月15日、在ニューヨーク日本人を中心に「ニッポンクラブ」を発足、初代会長に就任。
(3)同年3月21日、コロンビア大学にて柔道演技の通訳。
(4)同年4月、セントルイス万博終了後、処理に困っていた万博日本館を自費で買取り、ニューヨーク郊外のメリーウォルドへの移築を開始。後に「松楓殿」と名付け、日米親善の社交場として活用しています。 ※参照:> 「松楓殿」今昔
(5)同年8月、ポーツマス条約(日露講和条約)調印のためニューヨークに到着した全権大使小村寿太郎(長崎・致遠館の同窓生)を支援。
(6)1907年5月19日、ニューヨークの米国有力者を中心に、「ジャパン・ソサエティー」発足。会長はニューヨーク市立大学総長のジョン・フィンレイ氏、博士は副会長に就任。


参考文献:
 Columbia Spectator  http://columbiaspectator.com/
 世界横行柔道武者修業  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860058
 JAPAN IN NEW YORK  https://archive.org/details/japaninnewyork00anra
 Wikipedia       https://ja.wikipedia.org/

(作成:平成28年11月25日/文責:石田・三門)