高峰譲吉博士研究会

寄 稿(13) 

高峰譲吉の人造肥料会社起業の原点とその周辺

久馬 一剛(きゅうま かずたけ)/京都大学名誉教授


 今回は、京都大学名誉教授・久馬 一剛氏より寄稿を頂きました。
 氏は、当研究会・石田理事の京都大学時代の同級生の方で、今回は譲吉がイギリス・グラスゴーに留学していた時に知った人造肥料、特に過リン酸石灰を中心に述べておられます。

ー 過リン酸石灰、ローズ氏、ローザムステッド農業試験場 ー

 高峰譲吉は1879(明治12)年に工部大学校を卒業し、その翌年には政府派遣留学生としてイギリスへ渡り、グラスゴーの大学で化学を学ぶのだが、この留学期間中に人造肥料製造工場で実習をしたことが記録されている。1880年ごろに人造肥料を工場生産するといえば、それは間違いなく「過リン酸石灰」であったと思われる。譲吉はここで過リン酸石灰の製造技術を勉強して帰り、1887(明治20)年に渋沢栄一や益田孝らの協力によって、日本で初めての人造肥料としての過リン酸石灰を造る「東京人造肥料会社」を設立したのである。
John Bennet Lawes 過リン酸石灰というのは、当時肥料として使われていた獣骨などを硫酸で処理して、骨の中に含まれるリン酸を水に溶け易くしたものである。それを自ら製造し、1842年に製法特許をとったのは、ロンドンに近いローザムステッド(Rothamsted)の地主で、自ら農場を経営していたローズ(J.B. Lawes)という人であった。 (右の写真/※1)
 この人は当時有名なリービッヒ(Justus von Liebig)というドイツ人化学者が唱えた植物の無機栄養説(後述)を、自分の農場で実地に作物を栽培することによって検証しようとしていたのであるが、その中で、骨粉を直接畑に施用しても効果が出難い (※2) ことから、硫酸で処理して溶けやすくすることを思いつき、製法特許をとったものである。実を言えば、この方法はほかならぬリービッヒ (※3) を始め、ローズと同時に特許を認められたアイルランドの医者マレイ(James Murray)らによってもすでに使われていて、必ずしもローズの独創というわけではない。しかし、企業家的精神に富んでいたローズは、他に先駆けてすでに1840年に特許を出願していたという。

(※1) John Bennet Lawes (1814-1900)/Wikipediaより転載(http://en.wikipedia.org/wiki/John_Bennet_Lawes

(※2) 日本のように土が酸性であれば骨も溶けたであろうが、ローザムステッドの土壌は中性に近いため溶け難かったと思われる。日本の考古学遺跡で人骨が見つからない理由も同じである。わが国でも沖縄のサンゴ礁石灰岩の洞窟などでは石器時代の人骨が出土している。

(※3) リービッヒは後で述べる1840年の本の中に、骨を硫酸で処理してリン酸肥料とするための処方を書いている。

 ローズは彼の製法によってできる溶け易いリン酸肥料に、今でも使われている“Super Phosphate of Lime (後にSuperphosphate of Lime)”という商品名をつけて売り出し、それがわが国では明治初年 (※4) に「過燐酸石灰」と訳されて、今日にいたるまで最もポピュラーな肥料の名となっている。現在の化学の術語には、例えば普通の酸化物Oxideよりも多くの酸素の結合したものには「過」酸化物Peroxideも「超」酸化物Superoxideもあって、今日の言葉ならSuperは「超」だろうが、明治の初年には普通のものを超える優れもの、という意味で「過」と訳されたものと思われる。ただ、誰がそういう訳をつけたのかは今のところ明らかでない。いずれにしても、この過リン酸石灰こそが、人が化学的な方法で造って市場に売り出した最初の人造肥料、あるいは化学肥料であったことに間違いはない。

(※4) すでに明治8(1875)年の公文書に「過燐酸」という言葉が出てくる。

 19世紀の初めまでの肥料といえば、作物の残渣や山野草、家畜の糞尿や敷き藁などからつくる堆厩肥が主体であり、それに加えて幾らかの骨粉や魚肥が使われていた。つまりすべて動植物起源のものばかりであった。ヨーロッパでは家畜飼養と穀物栽培を2本柱とする「混合農業」が行なわれていたから、家畜の排泄物は重要な肥料源であり、「飼料が多ければ家畜が増え、家畜が増えれば肥料が多くなり、肥料が多くなれば穀物の収穫も増大する」という考え方が営農の要諦となって、いろいろな農法が生み出された。試行錯誤の中でノーフォーク式輪作農法というのが18世紀半ばごろからポピュラーになり、飼料となるカブやクローバ、アルファルファなどを交えながら、コムギやオオムギ、エンバクなどを栽培する方式が広く普及した。
 こういう状況の中でリービッヒの無機栄養説が1840年に発表され、植物を生育させるのは有機物ではなく、それらが分解して供給される窒素、リン、カリなどの無機栄養素であることを明らかにした。つまり、動物は有機栄養であるが、植物は無機栄養であると明言したのである。リービッヒ説はそれから20年後にザックス(Julius von Sachs)という人が無機化合物だけを使って植物の水耕培養に成功したことで、その正しさが実証された。
 丁度リービッヒの無機栄養説が出たころから、ヨーロッパにはグアノとかチリ硝石(硝酸ナトリウム)とかの無機物が南米から肥料として入ってくるようになる。グアノはもともと海鳥の糞の堆積物であり、新しいものは窒素とリンを含む有機物であるが、だんだん有機物が分解し窒素が失われ、古くなったものはリン酸石灰として岩石化してリン鉱石になり、完全な無機物となるから、いわば有機栄養から無機栄養への転換期にふさわしい肥料であったと言えるかもしれない。さらに1860年代になるとドイツでカリ鉱床が見つかり、植物栄養の3大要素がすべて無機物によって供給されるようになってゆくのである。
 先にも述べたが、ローズはリービッヒの無機栄養説を基本的には受け入れていたと思われる。彼の片腕として生涯ローザムステッドにおける栽培試験の技術的側面を担ったギルバート(J.H. Gilbert)が、リービッヒの下で学んだ研究者であったことも、ローズがリービッヒに学ぼうとした思いを示すものではなかろうか。彼らはそれまでの農業では普通であった、堆厩肥だけの試験区と、リービッヒの提唱する無機物(P, K, Mg, Na)だけの試験区、無機物に硫安 (※5) またはチリ硝石を加えた試験区、それに何も肥料分を加えない無肥料区などを設けて1843年から冬コムギの栽培試験を開始した。そしてこの試験の中で、リービッヒ学説の誤りの幾つかが正されることとなった。その中で最も重要だったのは窒素の効果をめぐるものであった。リービッヒは空気中にあるアンモニアを過大に評価し、窒素は肥料として加えなくとも空中から供給されるから、リン酸・カリなどの無機物さえ土壌に加えればコムギの収量は上がるといっていた。しかし試験結果は無機物だけでは収量は上がらず、窒素の施肥が収量増大に最も大きく寄与することを示したのである。この窒素をめぐっての論争は10年にもわたって続けられたというが、最終的には両者とも、窒素だけでなくリン酸やカリなどの無機養分の施肥も必要なことを認めて論争は幕を閉じた。

(※5) 産業革命の中で石炭ガス(燃料用)やコークス(製鉄用)が造られるようになると、石炭を乾溜する際に 揮散するアンモニアを硫酸に吸収させて、副生硫安 (NH4)2SO4 が造られていた。

 このローザムステッドでの冬コムギの栽培試験は、基本的に同じ設計で170年を経た今日も続けられている。それだけでなく栽培試験における多くのデータや、いろいろな時期の土壌や作物のサンプルも保存されている。ローザムステッドは世界で最も長く続けられている栽培試験であるというにとどまらず、その試験設計の考え方や実験結果の統計的な処理法、圃場管理の在り方などまで、後にあちこちで始められた長期栽培試験に優れた先例を示し続けている。また長期にわたる農業が、環境にどのような影響を及ぼすかを考えるときにも、貴重なデータを提供している。一例を挙げれば、現在の地球温暖化問題を考えるときに炭素の蓄積場所として土壌は極めて重要であるが、農業における土壌管理がその炭素蓄積にどのような影響を及ぼすかを予測するためのモデルが、ローザムステッドでの長期の試験成績をもとにしてROTH-C モデルとして組み立てられ、世界の研究者に貴重な将来予測の手段を提供している。

 最後に高峰譲吉が実習をしたニューカッスル (※6) (Newcastle upon Tyne)の過リン酸石灰製造工場について述べておこう。ニューカッスルの工場というのは、この町からタイン川沿いを9.5kmほど西へ行ったブレイドン(Blaydon)に、1844年イングランドで2番目の過リン酸工場として建設されたものであった。ローズにとってはローザムステッドの試験を続行するための資金源として、過リン酸石灰の製造と特許料から上がる利益は大きかったようであるが、1872年にこの事業を人に譲っている。筆者は過リン酸石灰を巡って、譲吉とローズという偉大な学者であり企業家でもある二人が、直接相見える機会があったのではないかと期待したのだが、どうやらそれはなかったようである。

(※6) 石田三雄氏提供の【塩原又策編 1926.『高峰博士』大川印刷所】の記述による。場所は、下の地図参照。

ニューカッスル
▲ Google mapより採取し、改変(筆者)


(作成:平成26年12月17日/文責:久馬一剛)