高峰譲吉博士研究会

寄 稿(9)

外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (その1)

石田 三雄(農学博士)/ 当NPO法人 理事


   【1】ギドー・フリドリン・フルベッキ(略称/フルベッキ)
  > 【2a 】ウィリアム・ヴァーベック(略称/長男ウィリアム)

 明治の近代日本建設に大きな役割を果たし、今も夫人とともに東京の青山霊園に眠る異色の教師・宣教師フルベッキ(Guido Hermann Fridolin Verbeck、米国ではヴァーベック)については、多くの著書に詳しく紹介されており、本誌第5号にも簡潔な一遍のエッセイが掲載されている。しかしフルベッキ夫妻がアメリカに残した子孫と日本との関わりについて知る人は、まれである。その中で消息のはっきりしている人物について、若干ここに紹介したい。
 フルベッキからの世代関係をまとめたのが下の表で、太字の名前はこれから本編に登場する5人を示す。
フルベッキ一族


【1】ギドー・フリドリン・フルベッキ(略称/フルベッキ)

 本人の名前に「弗雨伯幾あるいは布貞偲伽」という漢字が充てられていた時代、フルベッキの教える学校で、英語で西欧の文化や文明を学んだ生徒の中に、岩倉具視の子である具定と具経、大隈重信、副島種臣、伊藤博文、後藤象二郎、西郷隆盛、高峰譲吉、小村寿太郎らが含まれているということだけで、まずフルベッキの及ぼした影響の大きさが分かる。
 忘れてはならないもう一つのフルベッキの業績は、1869(明治2)年11月に横浜から出発した米欧回覧・岩倉使節団の構想と旅行プランを彼が提言したことで、随行した総員51名の中に、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、金子堅太郎、団琢磨、中江兆民、牧野伸顕(のぶあき)、新島襄、津田梅子らが含まれていたことが、この使節の持ち帰った成果の大きさを示している。
 1859年、布教のために米国のオランダ改革派教会から日本に送り込まれたフルベッキは、耶蘇教と称され排斥されていたキリスト教の宣教師であったが、彼はオランダ人であったので長崎では好意を持って迎えられた。鎖国政策の例外として貿易を容認されていたオランダは、日本人社会にしっかり溶け込んでいたのであろう。
致遠館
(左)将来の日本を担う俊秀にフルベッキが英語で西洋文化・文明を教えていたことのある長崎の致遠館跡 (1) (右)フルベッキと生徒。中央がフルベッキと次女エマ (2)

オランダ商館 最近、筆者は有名なオランダの画家レンブラント(1606〜69)の銅版画に、比較的厚手の和紙がふんだんに使用されていることを知ったのだが、徳川幕府二代将軍秀忠の時代、1609(慶長14)年に平戸にオランダ商館(2011年9月に復元館完成)が建てられたことから考えて、それは当然であると認識した。この貿易拠点開設からちょうど250年後、フルベッキは長崎に赴任した。

▲ 復元された平戸オランダ商館(3)
 フルベッキの来日を遡ること36年前にオランダ商館医として赴任したフォン・シーボルトのことは、日本人はみんな学校で教わっているので、知らない人はまずない。シーボルトは南ドイツの医学界の名家に生まれたドイツ人で、父はヴュルツブルク大学の内科学、生理学の教授であった。オランダ商館とも親しかったフルベッキは、急速に進歩したドイツ医学の先進性を生かしてシーボルトらが日本で活動したことも認識したに違いない。
 後のことになるが、ドイツ医学こそ手本とすべきだとの一念で、その導入を明治新政府に強力に働きかけていた急先鋒の佐賀藩の相良知安と福井藩の岩佐純にとって、決め手となる援護射撃をしたのは、ドイツ語を母語とし広い科学知識を蓄えていたフルベッキであった (4)
 近代化を急ぐ日本へのこのドイツ医学の導入は、1880年代ころから成果を現し、北里柴三郎、山極勝三郎、志賀潔、秦佐八郎など世界に誇る多くの医科学者を次々と輩出することとなった。
 フルベッキの家系と生い立ちについては、村瀬寿代氏の詳細な論文がある (5)。父カールはトルコとの国境近くのドイツの町モスドルフ生まれの法律家で、オランダに移ってツァイスト(Zeist)では評議員を務めている。母マリアもドイツのヘデスドルフ(ボンとフランクフルト・アム・マインの中間のライン川沿いの町)に生まれ、ツァイストに来て1818年にカールと結婚した。この夫婦には8人の子供があり、フルベッキは第六子であった。
 当時ツァイストにはモラヴィア(Moravia、チェコの東半分)系の宗派の初等教育の学校があり、フルベッキはそこで学んだ後、隣接した都会のユトレヒトに出て土木・機械工学の知識を身につけていった。彼はオランダ語だけでなく英、独、仏語も流暢に話せたと伝えられているが、両親の母国語であるドイツ語は当然として、経済的に恵まれていた家庭は国際的な雰囲気に満ちていたのではないだろうか。
 フルベッキは22歳の時、3歳違いの妹セルマの夫で新興国アメリカで牧師をしていたジョルジュ・ヴァン・デュール師の提案と誘いを受けて渡米、工業技術者として働き始めた。デュール師は、スカンジナビア出身の貴族であるオットー・タンク師から援助を受けて宣教師として活動していたが、フルベッキもタンク師がウィスコンシン州グリーンベイで経営する造船工場で働くことになった。
 さて、新大陸で新しい人生を歩き出したフルベッキの人生設計は、アメリカ南部アーカンソー州の小さな町ヘレナでミシシッピー川への橋梁建設に従事していた時、不幸にして伝染病コレラにかかったことで大きく転回した。薬のない時代、明日をも知れない瀕死の病床で彼は、アメリカで目の当たりにした奴隷の悲惨な姿を思い、万一命を取り留めたら、残りの人生を神と人のために捧げようと決心した。文字通り九死に一生を得た彼は、ニューヨーク州オーバーンの神学校に入り宣教師を目指した (6)
 フルベッキ夫妻フルベッキの日本における成功は、教義を押し付けないモラヴィア派の祖ツィエツェンドルフの思想、フルベッキの実学経験から生まれた広い知識と視野、そして文明開化というゆるぎない目標を持って長崎、佐賀に集結していた明治の日本の俊秀、この三つの相乗効果がもたらしたように思える。

フルベッキ夫妻 (7) と和服のフルベッキの肖像画 (8)

 フルベッキは、同じ神学校で知り合ったマリア・マニョンと結婚した1859年の秋に、布教を命じられて長崎にやってきた。この夫婦は生涯で11人の子をなしているが、伝染病を防げない時代、太平洋航路での難破もそう珍しくない時代、多くを夭折させている。教育はアメリカで受けさせたいと考えていた夫妻が、日米での二重生活を手紙でつないでいた様子が残された書簡集で想像できるが、当時は郵便船であったから、親子ともに船の入港をさぞ待ち焦がれていたことであろう。
 幕末からの教育者、そして明治新政府での国家作りの指導者としての仕事を終えた後、やっとフルベッキは念願の宣教活動に専念できるようになった。彼の布教は伊豆、群馬高崎、千葉、九州、高知など全国に及び、その足跡は彼の残した170通ほどの書簡に詳細に記録されている (8)。彼は自分が住んだことのあるアメリカ東部の風土に似た信州を特に好んだようで、例えば1880(明治13)年11月には、妻と3人の子を伴って信州上田に布教している。彼は、教授、翻訳そして演説の三つが得意だと自分自身を語っているが、ますます流暢になる日本語での説教は、説教を通り越して聞く耳に心地よい語りであったと想像される。オランダ時代に覚えた音楽と歌唱の能力は相当なレベルで、皆の前で歌を歌いオルガンを弾いたという。同僚のバラ神父(James Hamilton Ballagh)は、フルベッキの人物像を「神とともに歩むが、走らない人」と表現しているが、常に穏健で無理をしない、また無理強いをしない人であった (9)
 さて家庭では、フルベッキはどんな父親だったのだろうか? 長男のウィリアムは、幼少時代の記憶を簡潔でしかも明快に、以下のように書き残している。それはギドー・フルベッキがこの世を去った翌年の1899年、38歳になっていたウィリアムが友人に出した手紙の中に認められる。

● フルベッキ一家

フルベッキ一家
 (1)1859年4月18日、ペンシルバニア州フィラデルフィアで結婚。夫婦とも東京青山墓地に眠る
 (2)生後14日で死亡。長崎市稲佐町の悟真寺にあるオランダ人墓地に埋葬
 (3)1891年まで生存していた証拠あり
 (4)汽船サンパウロ号とともに遭難か
 (5)フルベッキの1891年9月11日付書簡にアーサーについて記述あり
 (6)横浜外人墓地に埋葬(注1)
 (7)日本に向かう船中で没。四女と一緒に横浜外人墓地に埋葬(注1)
 (8)フルベッキの1892年1月20日付書簡にバーニーについて記述あり
フルベッキ一家
フルベッキ一家9人の写真=フルベッキから6世代目のDr. G. F. Verbeckの提供

 「私にとってそれは幸せな日々でした。父のおかげで他の多くの人とくらべても、私の子供時代は幸せで、すばらしいものであったと記憶しています。父としての役目だけでなく、私たち子供には兄であり、親友でもありました。日本では他の子供たちと遊んだり、接触することがなかったので、父は私たちには父親以上の存在でした。父は理想的な遊び相手でした。運動好きで、私たちの誰よりも速く走り、高く飛ぶことができました。あらゆる戸外スポーツを大変好みました。話をするのがとてもうまく、オランダのおとぎ話やドイツのシュヴァルツ・ヴァルト(ドイツ南西部の針葉樹林=筆者注)の泥棒の物語をいつも聞かせてくれました。あなたもきっと覚えておられるでしょうが、父の声は美しいバリトンでした。心に染みいるような父の歌声を忘れることはできません。長崎で私に歌ってくれた子守唄も覚えているくらいです。チェスやチェッカーを私たちとしたり、とにかく、私たちが喜んだり興味を持つことは何でもやってくれました。そして、父との遊びを通して、私たちはいつも何かを学んでいたのです。特に科学的なおもちゃが好きで、私たちはいつもそんなおもちゃをどっさり持っていました。父は遊び仲間で、遊び時間は、また学ぶ時間でもありました。私たちの学習は父の指導のもとに行われ、自由な教育でもありました。あなたもこのようなことはご存じですので、そんな父が亡くなったことで、私たちがどれほど大きなものを無くしたかわかって頂けると思います。」 (7)
 この父が子供のころ、両親に慈しまれて7人の兄弟姉妹とともにオランダのツァイストで心豊かに送った生活を次のように描写しているのを読むと、理想的な父親像の継承というほかはない。
 「私たちはヤコブのように自然の神殿で自由に暮らしていたのです。生垣に仕切られた野原で、畑や果物、花々を大喜びで楽しみました。日が沈んで星がきらめき、私たち兄弟、姉妹は腕を組んで出かけ、畑や森、静かな小屋で時を過ごし、お互いの幸せと神の与え給うた平和を享受したのでした。
 冬の日はほとんど氷の上で過ごし、夕暮れになると心地よい黄昏の中,兄弟たちは暖かい暖炉を囲んで、コッペル(地名=筆者注)での幸福に心から満足しました。そして、父が話をたくさんしてくれ、大好きな歌をいくども歌ったものでした。ランプに明かりが灯されると、みんな読書をし、リンゴや木の実やナシを食べました」 (7)
 フルベッキに来日を推薦された親友グリフィスが、フルベッキの貴重な伝記『Verbeck of Japan(日本のフルベッキ)』(7) を書き残すことになるのだが、それには「a citizen of no country(無国籍の人)」という副題が付けられている。フルベッキは故国オランダを5年以上離れていたために法律上オランダ国籍を失い、アメリカ合衆国の市民権獲得も滞在年数の不足のために失敗し、晩年にはいずれの国にも属さない文字通り、地球人となってしまった。
 現実の問題として、近代社会では無国籍では、まっとうな生活ができない仕組みとなっているので、見るに見かねた日本の天皇と政府は、彼に特許状(パスポート)を支給して永住権を保証した。日本に残った次女(注2)の世話になり、東京赤坂葵町に在住していた夫のギドーは、1898年3月10日、68歳で、書斎の椅子に座ったまま亡くなった。遺体は、明治天皇の厚意で、国葬に近いレベルで青山霊園に厚く葬られた。その霊園の墓標の前には、アメリカに帰国後1911年に生涯を終えた良妻賢母のお手本のような妻マリアの遺骨が納められた墓が、今も寄り添うように横たわっている。

青山墓地
左は青山霊園の外国人墓地にあるフルベッキの墓標。手前の平面は妻マリアの墓標で、右はその拡大。
アメリカ帰国後に亡くなった妻マリアも、夫ギドーと一緒に日本に眠っている。(上は、特許状)
フルベッキ夫妻
左:旭日章を帯びたギドー・フルベッキ  右:日本庭園で洋装の妻マリア
フルベッキ夫妻
左:明治10年、47歳で勲三等旭日章を受章 中:勲章=Medal of Rising Sun 右:ギドーの遺品
上の写真5枚は6代目のノース・テキサス大学化学科教授ギドー・ヴァーベックから提供された。


【2a 】ウィリアム・ヴァーベック(略称/長男ウィリアム)

 布教のため日本へ赴任した新婚のフルベッキ夫妻は翌年、初めての子に恵まれた。エマ・ジャポニカと名付けられたその長女は、不幸にして生後2週間でこの世を去り、長崎市稲佐悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された。失意の夫婦は、幸い翌年男の子を得て、ウィリアム(愛称ウィリー)と命名した。ウィリーは17歳まで長崎で育った。感受性の豊かな青年時代、彼の友達は武士の息子達で、ごく自然に彼は武士道、礼儀などが身に着く教育環境の中で成長して行った。これは、日本語の会話、読み書きに不自由しなくなったことと併せて、ウィリアム69年の人生の骨格をなすものとなった。彼は「正しい心を持たねば、すぐれた言葉も行為も、役に立たないただの飾り物に過ぎぬ(If the heart be not true, good words and good conducts are but useless ornaments.)」という武士道の精神が好きだった。剣道にはかなり打ち込んだようで、米国に渡った後も学校の教科にそれを取り入れ、その成果を示すような活動写真が残されている (10)

ウィリアム・ヴァーベック
左:長男ウィリアム(Charles Henry William Verbeck) (10)
右:長崎の武家社会をアメリカで演じる長男ウィリアムと仲間たち (10)

 フルベッキ夫妻は、子供たちの教育はアメリカで行いたいと考えていたので、ウィリーが17歳になるとカリフォルニアに送り出した。そのころ長崎の武家社会では、まだ元服(加冠)の習慣は残されていたと考えられるが、フルベッキも長男の自立を願って社会に押し出したのであろう。
 青年ウィリアムはカリフォルニアに渡り、オークランド高校、カリフォルニア士官学校を経てカリフォルニア大学の分校で法律を学んだ後、カリフォルニア州民軍の大隊副官となった。彼は、できれば発明家、歌手、芸術家あるいは法律家になりたかったのだが、事情がそれを許さず、いったん教育者への道に踏み出すことにした。しかし彼は1885年辞任してニューヨーク市に移り、自分の多くの発明を売り出すことを企画したのだが、道理に外れた製造業者に盗まれて失敗、食うに困ってニューヨーク市の、あるミリタリー・スクール(注3)の教師の空席に納まり、問題を起こした生徒の教導に成功して能力が認められ、協同での校長の職に就くことができた。
 それ以後のモラトリアムの時期、苦労を重ねていた長男ウィリアムは、軍隊様式教育のノーハウを蓄積し、やがてその実力が認められてセントジョーンズ・マンリアス・ミリタリー・スクールの校長に迎えられた。時は1888年、すでに27歳になっていた (11)
 それより少し前の1886年7月28日、長男ウィリアムはサンフランシスコで、Katherin Kate Mabel Jordan(1864年4月27日サンフ ランシスコ生まれ。カリフォルニアとデトロイトで著名であった建築家の娘)と結婚、やがて息子3人に恵まれるのだが、その三男がこのあと登場することになる。
日本庭園

長男のウィリアムがマンリアス校内に作った日本庭園。いまもアメリカのフルベッキ一族の父祖の地 (10)

日米友好を意識した時代の始まり

 1909(明治42)年の秋、北米合衆国商業会議所連合団体の招待を受けて、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名で構成された渡米実業団(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と称する日本初の大型ビジネスミッションが、渋沢栄一を団長として3カ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプを作り、日米貿易の歴史をスタートさせた。

歓迎会場
日本からの経済使節団の歓迎会場=マンリアス学校の活動写真から採取され1910年発行の資料に掲載 (10)

 この経済使節団がシアトルから鉄道で大陸を横断する途中、その年の春に大統領に就任したばかりのW. H. タフトは、自分の遊説の日程を繰り合わせて、「ミネトンカの湖畔にて」という曲で有名なミネソタ州の風光明媚な観光地のラファイエット倶楽部で、9月19日に使節団一行の歓迎会を開催した。当時すでに6〜7回も訪日し、明治天皇に個人的に夫妻で芝離宮に招待され (12)、大の親日家であったタフト大統領が、当時カリフォルニア州を中心に問題となり始めていた日本移民排斥運動に配慮した演説をした様子が、ワシントン・ポストとニューヨーク・トリビューンに報じられている (13)。下表は、横浜からシアトルに渡る日本人が急増している様子をよく示している。帰化する日本人はまれで、稼いだ金は故郷に送金する者がほとんどであった。新世界に骨を埋める覚悟の移民でなければ、米国政府には歓迎されなかったのである。


非白人集団人口
● 急増するシアトルの非白人集団人口= (14) より作表
歓迎会場
行程の終わりごろカリフォルニア州オークランドに到着した実業団一行=Oakland Tribune 紙1909年11月26日夕刊より転載

長男ウィリアム、父の親友による歓迎

 それから3週間後の10月9日の早朝、経済使節団一行はニューヨーク州シラキュース市の駅頭において大歓迎を受ける。背の高い青い目の男がさっと現れて団長に近づき、流暢な日本語で「渋沢男爵、長途の旅、御苦労さまです」と歓迎の挨拶をした。それは誰あろう、長男ウィリアム(記録ではフルベッキ大佐 (15) )であった。日本の団員の驚きが目に見えるようである。
 この日のためにシラキュース市が綿密な準備を進めていたことが、新聞に詳細に報じられた (16)。市長、商業会議所会長はじめ各企業総出で分担を決めている様子は、日本の領事館関係者がしっかり根回しをしていたことを示しているようだ。グループに分かれて市内の視察を果たした一行は、午後遅くに大学を訪問し、アメリカンフットボールの試合も見学している。
 翌日は日曜日だったので、午前中は教会など各自希望するところを訪問し、午後2時半から長男ウィリアム(記録ではフルベッキ中佐 (17) )が校長であったマンリアス・ミリタリースクールを訪問した。
 校庭の一隅に日本式庭園があり、茶室などが設けられていて、そこで一行はウィリアムとキャサリン夫妻の大歓迎を受け、寿司とようかんをご馳走になった。ウィリアムの好意を大変喜んだこと、更に驚くことにはこの歓迎会の席に「グリフヰス氏(『ミカドの帝国』の著者)の演説、団長の答辞」があったことが記録されている (18)。このグリフィス(William Elliott Griffis、1843〜1928)は、1871(明治4)年に来日した大学南校のお雇い外国人教師で、物理や化学、精神科学を教えていた。彼の着任の2年前から明治新政府の顧問として東京で活動を開始していたフルベッキと生涯の友となったグリフィスは、帰国後シラキュース市の南75kmにあるイサカ(Ithaca)大学で当時講師をしていたのだが、すでに11年前に東京で亡くなった親友フルベッキの息子のウィリーが気がかりで、この渡米実業団がマンリアス校を訪れる機会に駆け付けたと想像される。


グリフィス
長男ウィリアムの応援に駆けつけたフルベッキの親友グリフィス (19)
日露戦争の鴨緑江会戦を模擬するマンリアス学校の生徒たち=活動写真から収載 (10)

 一行は晩餐会のあと、別室で学生が日露両軍兵士の服装で演じた雪中戦の活動写真(映画)を鑑賞したが、白馬に乗って日本軍を指揮していたのが校長のウィリアムその人であることに大変驚いたことを渋沢栄一が書き残している (18)
 当時この学校には、江副廉蔵(佐賀藩士、1848〜1920)の息子隆一が留学していた。父廉蔵は幕末に長崎でフルベッキに英語を学んだ。1876(明治9)年、アメリカ建国100周年を記念するフィラデルフィア博覧会に有田の香蘭社の通訳として参加し、1878(明治11)年に再度渡米し、三井物産ニューヨーク支店主任として活躍、帰国後はアメリカ煙草の直輸入で莫大な財産を築いた。廉蔵の姉の美登は、同じフルベッキの愛弟子の大隈重信の最初の妻であった。江副隆一は父の恩師の長男ウィリアムのもと、9年間マンリアスで学んでいる。
 この歴史的な実業団の訪問から21年後の1930(昭和5)年秋に、日本からの経済視察団を歓迎したシラキュース商業会議所のダーストン代表(Harry C. Durston)の歓迎のスピーチ原稿が残されている (11)。長男ウィリアムが入念に歓迎を準備し古い日本語で挨拶する予定でいたのに、「直前に亡くなったので代わって演壇に立つ」と断って話し始めたダーストンの草稿には、「大日本(からのゲスト)」「維新」などがローマ字で、Verbeckが「FURUBEKKI」、そして最後の締めくくりには「ARIGATO」「SAYONARA」が書き込まれていて、大変な気の使いようであったことが分かる。その翌年、日本は満州事変を起こし15年戦争に突入していったのである。
 長男ウィリアムが請われて校長を引き受けてから42年間、情熱を傾けて育てたマンリアス・ミリタリースクールは、彼のエネルギーと先見性で全米有数といわれる存在に成長し、多くのすぐれた人材を輩出した。また彼は全米ボーイスカウト団長を引き受け、ニューヨーク州国防軍副長官も務めた。ウィリアムの楽観主義、思いやり、そして広い分野にわたる勉強が士官候補生や卒業生の心に深くしみ込んだ、と追悼の辞に残されている。
 長男ウィリアムが優れた人格者であったことは、彼をよく知る多くの人によって語られているが、彼が亡くなった直後のシカゴの雑誌『TIME』(16巻12号の12ページ、1930年9月22日)に掲載された追悼記事もその一つで、その全文(ニューヨーク州立大学教授・中津川勉博士翻訳)を紹介しておきたい。

※ ※ ※

 「日本の白人男児第1号」
ヘラルド紙夕刊 拝啓 タイム誌9月1日号の34ページの道標欄に私の母校(ニューヨーク州マンリアスのマンリアス校、以前はセントジョン校とよばれた)の校長を務められたヴァーベック将軍の訃報を見つけ悲しみを新たにいたしました。我々がビルとか将軍とか呼んでいた彼は男のなかの男と言うべき存在で、我が校章に記された「行いが人格を作る」と「名誉、愛、義務」の三徳目を身をもって実践されたことは確かです。
 将軍は日本で生まれた最初の白人で、柔術をよくし、日本語の読み書き、会話に通じ、日本の美術品の蒐集家としても知られ、少年時代に日本の侍に習った剣の曲技で毎年我々生徒は薫陶を受けたものです。西岸に向かうヴァーベック将軍をシカゴに住む卒業生三人でお招きしたのは、ほんのこの春のことです。彼が汽車に乗ろうとした時です。同じ汽車を独りで待っている日本人に将軍が気がついたのは。その人は商船会社を持っている人で、日本に帰るところだったのです。母国語で話せてどんなに嬉しかったかは想像に難くないでしょう。勿論将軍も嬉しかったに違いありません。
 将軍は去りました。かれの重責は有能な後継者に引き継がれることになります。同じく軍人である彼の子息、ギドーF. ヴァーベック大佐です。 敬具
 イリノイ州シカゴ市
  アレグザンダーL. H. ダラ

上の写真:1930年8月26日にマンリアス学校の日本庭園で執り行われたウィリアム・ヴァーベック
(世代2)の葬儀=当日のシラキュース・ヘラルド紙夕刊より転載
※ ※ ※

 この文の最後の駅頭での出会いの逸話は、まるで映画を見ているようだ。見知らぬアメリカ紳士からプラットホームで突然、日本語で声をかけられた商船会社の偉い人はどんな表情をしただろうか。昭和5年のこの一期一会の情景に胸が熱くなる。
 長男ウィリアムは病に倒れて数時間後に息を引き取った。ニューヨーク州知事フランクリン・D・ローズヴェルト(のち第32代大統領)の命令で半旗が掲げられ、遺体は彼が造った学校内の日本庭園に埋葬された。墓標には「彼が愛した青年たちと共に暮らしたこの地に眠る」と刻まれている (11)。父フルベッキの生きざまを思い起こさずにはおられない見事な人生であった。


以下、外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (2) に続く


ーーーーーーーーーー 注 ーーーーーーーーーー
(注1)横浜外国人墓地にあるフルベッキの子供(四女と六男)の墓碑銘 (32)
(注2)夭折した長女と同じ名前を付けられた次女のエマは、22歳になった1885(明治18)年4月に東京女子師範学校付属高等女学校専修科に英語、音楽の教員として採用されたことが、太政官作成の公文書「官吏雑件」(国立公文書館所蔵)に記録として残されている。おそらくアメリカで教育を受けてから日本の両親のもとに帰ってきて、社会人としての第一歩を踏み出したと推定される。その後、エマは父の死の翌年(1899)、お雇い外国人教師・東京帝国大学法科大学教授のヘンリー・テリー(Henry T. Terry,1847〜1936)と結婚している。
(注3)ミリタリースクール:軍隊のような組織と規律を旨とする19世紀末から20世紀前半過ぎの米国で人気があった全寮制男子高校レベルの私立学校で、生徒は候補生と呼ばれた(ニューヨーク州立大学教授中津川勉博士による)。

ーーーーーーーーーー 参考図書・文献 ーーーーーーーーーー
(1)blog.livedoor.jp/dolphinhama/
(2)ja.wikipedia.org/wiki/ギドー・フルベッキ
(3)http://hirado-shoukan.jp/を開き、「歴史紹介」に進む
(4)ユネスコ東アジア文化研究センター編集『資料御雇外国人』(1975)
(5)村瀬寿代著「フルベッキの背景ーオランダ、アメリカの調査を中心にー」、桃山学院大学
  キリスト教論集39:55-78(2003)
(6)en.wikipedia.org/wiki/Guido_Verbeck
(7)William Elliott Griffis.著『Verbeck of Japan; a citizen of no country; a life story of
  foundation work inaugurated by Guido Fridolin Verbeck』New York Fleming H. Revell Co.
  (1900)(ニューヨーク州Ithacaで執筆・出版)
  和訳書『新訳・考証 日本のフルベッキー無国籍の宣教師フルベッキの生涯ー』村瀬寿代訳編 
  洋学堂書店(2003)
(8)高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』(株)新教出版社(1978)
(9)大橋昭夫・平野日出雄共著『明治維新とあるお雇い外国人。フルベッキの生涯』新人物往来社(1988)
(10)『The 1910 Haversack、Manlius School』、『The Hero of Liao Yang』、
  『The Battle of The Yalu』資料提供者:John Ellis, Jo Ann Ellis(米国シラキュース市在住)
(11)H. C. Durston著『William Verbeck』、マンリアス校刊行(著者は長男ウィリアムの親友で、
  マンリアス校の重要なスタッフ)
(12)『ナショナル・ジオグラフィクが見た日本の100年』、日経ナショナル・ジオグラフィック社、
  p.78,(2003)
(13)1909年9月21日のワシントン・ポストおよびニューヨーク・トリビューンの社説
(14)黒川勝利著『アメリカ労働運動と日本人移民』大学教育出版(1998)
(15)増田明六著「青淵先生米国紀行(続)」『竜門雑誌』第269号 p.22 竜門社発行(1910.10)
(16)The Syracuse Herald Wednesday, September 8, 1909
(17)巌谷季雄編『渡米実業団誌』東京商業會議所発行(1910)
(18)渋沢青淵記念財団龍門社編纂『渋沢栄一伝記資料』第32巻、渋沢栄一伝記資料刊行会(1960)
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(32)横浜市市民局発行:『市民グラフ 横浜No.33 横浜外国人墓地 社会・文化人命辞典』の V 部に
  B . Verbeck 1880 18地区、並んでM. A. Verbeck 1876との記載あり

(作成:平成26年8月18日/文責:石田三雄)