高峰譲吉博士研究会

寄 稿(3)

「松楓殿」今昔

平成19年 「文藝春秋」新年特別号より
滝 富夫(タキヒョー株式会社 名誉顧問)/当NPO法人副理事長

 「これ、何とかならないでしょうか」
 数年前のある日、ニューヨークの私のオフィスに、池田修臣氏が飛び込みで訪ねてきた。氏はこちらに長く住んでいて、国連本部ピル内の日本式石庭「平和の鐘庭園」建設にも尽力された方である。その日、彼が私を見込んで持ってきたのは「高峰譲吉のサマーハウスのようなもの」の購入話であった。
 高峰譲吉とは、明治20年代に米国にやって来て、“アスピリン”とともに世界三大薬品とされる“タカジアスターゼ”、“アドレナリン”を発明し、巨万の富を得た薬学者・化学者である。その発明は今なお世界中の人々に恩恵を与えているが、にもかかわらず、ほぼ同時期に同じ米国で活躍した野口英世の知名度と比べると、雲泥の差がある。私自身、サマーハウスの一件を聞くまでは、辛うじて名前を知る程度であった。
 マンハッタンから車で二時間ほどのサリバン郡メリーワールド・パーク。見に行って驚いた。釘を一本も使わず、寝殿造りのような、平安神宮を思い出させるような建物で、そこここには菊の御紋章が見えるのだ。1904年米セントルイス万博の日本館を、翌年に移築したものだという。私はひと目見て、貴重な建造物であることを理解した。だが、土台、床等は腐ってボロボロの状態で、修復が急務である。気がつけば、私は前後の見境もなく、「松楓殿」と名づけられたその邸宅と、付属の100エーカーの土地を買い取っていた。
 セントルイス万博の開かれた1904年は、日露戦争が勃発した年でもある。財政難の日本には本来、万博に参加している余裕など無かったといわれる。だが、日本政府は、国際社会で存在をアピールすることで、米英からの心情的支援と多額の戦費調達を試みた模様である。
 日本の国力を諸外国に示すぺく、京都御所の紫宸殿や清涼殿を模したパビリオン「鳳凰殿』を建て、京都高等工芸学校教授の牧野克次に天井、壁、襖絵等の絵を描かせた。壁を覆う金箔の上には松と楓の絵が描かれた(これが後に「松楓殿」と名づけられるきっかけとなった)。
 ところが、閉幕をしても、いまだ日露戦争中の日本政府には、取り壊し費用を出す余裕がない。そこで、宮大工による解体、輸送、現在地への移築のすべてを引き受けたのが、当時アメリカで大きな成功を収めていた高峰譲吉だったのである。
 高峰の富の出所は興味深い。彼は、無形固定資産の意義をいち早く理解して、発明薬品の商標登録をせっせと行い、多大なロイヤリティをライセンス先から得ている。自らの発明薬品について学会発表をし、研究論文を書き、研究者として名をあげることよりも、発明薬品のロイヤリティ収入で事業家として成功することを優先したのである。だが、この選択が研究者としての評価を低めることとなり、後世までの名声という点では、野口英世と明暗を分けた。
 現在、松楓殿の修復は、土台と床の作業を終わり、とりあえず危機を脱したところである。ここに至るまでに投資した額は、すでに4〜5百万ドルに達した。個人として負担をするのには、決して小さくない額である。
 だが、高峰は調べれば調べるほどに奥行きの深い、幅の広い人物で、私を夢中にさせるのである。日露戦争中には民間外交の先頭に立って活動し、日本を宣伝する文章を新聞に寄稿したり、米国各地での戦時公債を募る演説会では壇上に立ったりした。自邸で開くパーティでは、アメリカ人の夫人と二人、和服で客を出迎えたという。
 1905年には、日米交流の為に“日本クラブ”を創設し、また07年には、日本聶贋の米財界有力者を誘ってジャパンソサエティを創り、日米財界の架け廣となった。アメリカに居ながらにして、三共製薬や理研の創設者となり、日産肥料や住友ペークライトの創立にも深く関わった。さらには、豊田佐吉に自分が使っていた自動車を贈り、「ヘンリー・フォードが自動車というものを作った。豊田さんもやってみないか?」ともちかけたという逸話もある。
 そもそも松楓殿自体も、高峰が寄付したのではないかという節がある。彼の郷土である金沢の材木産地から、建材を仕入れた跡があるのだ。ちなみに、1909年には、世界一周旅行途上の久邇宮邦彦殿下ご夫妻が立ち寄られている。現存する菊の御紋章のついた家具は、その際日本から取り寄せたものという。
 高峰の没後、松楓殿は幾人かの富豪、いくつかの団体の所有を経て、日本人である私の手に戻ってきた。日本にとって途轍もなく偉大な人物の、特別な意味を持つこの「松楓殿」を、大切に有効に使い、後世に遺したいものである。


(作成:平成22年6月11日/文責:事務局)