高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

7)ゆかりの人‥‥清水鐵吉

高峰博士の助手として、医薬品タカジアスターゼの開発に大きく貢献する。


略 歴

清水鐵吉 清水鐵吉に関する資料はあまりにも少なく、正直なところ、研究会としてもこの項「ゆかりの人」に掲載することをためらいました。それというのも、清水は34歳の若さで、結核のためにシカゴで客死してしまったからなのです。
 しかし、藤木や上中と同じく、清水の貢献は決して小さいものではありませんので、少ない資料ながら、掲載することにいたしました。

 清水鐵吉は、現在の岐阜県大垣市の商家に生まれたそうです。慶応義塾を経て、1883(明治16)年、工部大学校化学科(東大工学部工業化学科の前身)を卒業しましたが、高峰譲吉の四期後輩の五期生でした。
 卒業後も工部省職員の身分で大学に留まり、助手として活動した後、先輩の高峰を慕うように農商務省に入省しました。総務局分析課というところで、二等技手から始め、広範な分野で活躍したということです。
 同時に清水は、長井長義が会長を、高峰が定議員を務めていた東京化学会で、1887(明治20)年から5年間、書記・編集係を務めていました(高峰は1890年に渡米)。
 そして清水は高峰が渡米して2年後、農商務省を辞めてアメリカの高峰の元へ向かったのです。これは恐らく、高峰に招かれてのことでしょう。高峰がウイスキー醸造のための米麹発酵方式による試験を盛んに行っていた頃のことです。

タカジアスターゼの医薬品としての開発
 清水がピオリアの高峰の研究に参画した直後、高峰の「米麹を用いてのウイスキーの製造」の為の試験場(パイロットプラント)が放火と思われる火災で焼失し、高峰はショックと病のために倒れてしまいます。妻・キャロラインの機転で一命は拾ったものの、シカゴの病院に二ヶ月も入院してしまいました。
 しかしその後高峰はウイスキーの製造は断念しましたが、再起し、清水の協力を得て、ついに強力なデンプン分解酵素・医薬品「タカジアスターゼ」を開発をしたのです。

 つい最近(2013年11月)、当研究会の石田理事(農学博士)が入手された資料によりますと、高峰は既に、イギリス留学から帰国した頃から、ジアスターゼの研究構想とその初期研究の結果を持っていたことが分かったのです。> 「タカジアスターゼの原点」
 清水は高峰のアイデアを元に助手として腕を振るい、大学で築いた基礎に創意工夫を加え、消化力が極めて強くしかも安定している粉末状のジアスターゼを、安価に取り出す方法を確立したのです。

 しかし大変残念なことに、清水は当時死病とされていた結核に罹病してしまいました。不幸中の幸いであったことは、この「タカジアスターゼ」を売り出したいと思ったパーク・デイビス社が、迅速に高峰と契約し、高峰が特許を出願した翌年(1895年)に発売に漕ぎ着けたことでした。この迅速な市販は、高峰・清水の優れた製法開発の裏付けなしには考えられません。
 自分たちが苦労して作り上げた「タカジアスターゼ」が、病院や薬局に送り出され、世界の薬業界を驚かせたことを、清水は喜びを持って受け止めたことでしょう。そして翌1896年、清水は34歳の若さで、異国の地でこの世を去ったのです。

 清水鐵吉の墓はシカゴのオークウッズ墓地に今も残っているそうですが、この年、日本へ帰国する藤木幸助が、清水の遺骨を抱いて帰っています。日本の清水の墓は、故郷・大垣の実相寺にあります。後に高峰博士は、清水の母親を生涯面倒見続けたということです。


(記事作成:平成26年5月26日/文責:事務局/
写真:石田三雄著『ホルモンハンター・アドレナリンの発見』より転載)