高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

6)ゆかりの人‥‥藤木幸助

丹波篠山 蔵人。譲吉の片腕としてウイスキーの新醸造法発見に貢献する。


略 歴

藤木幸助 藤木幸助は、1851年(嘉永元年)7月、多紀郡城東町泉の山田遠左衛門の三男として誕生し、竹之助と名付けられました。竹之助はこの地方の風習に従い、16才の年の冬から灘の酒造場の下人(したびと)として出稼ぎに出ました。

 酒造りに携わる人々を「蔵人(くらびと)」と呼びますが、蔵人はその経験と技術に応じて階級があります。下人というのは、炊事・蒸米の運搬などの重労働を担う人々で、数年たつと道具の準備、蒸米の処理、保温室での麹造りなどを担当する「中人」となります。さらに数年たつと「上人(うわびと)」に昇進し、さらに「大師」から「頭」へと進みます。杜氏(とじ)と呼ばれる人々はその蔵全体の責任者で、蔵人は杜氏の指図によって働きます。

 成長して竹之助は名を幸助と改め、仕事に興味を覚えて人一倍勉強し、20才の時には最年少の大師に昇進していました。やがて幸助は、隣村の城東町北島の藤木茂右衛門の娘おますの婿養子となり、藤木姓を名乗る事になりました。その頃から幸助は、堺市の肥塚商店酒造場勤務となり、秋の収穫が済むと3ヶ月は堺に出稼ぎに行くようになります。

 肥塚商店は東京の三井物産醸造部* と取引があり、しばしば堺を訪ねていた三井物産の醸造技師長**・肥田密三は、藤木幸助の手腕を認め、東京の肥田研究室勤務を勧めました。そして藤木は勧めに従って上京し、そこで高峰譲吉博士との運命的な出会いを果たす事になります。

 アメリカから妻・キャロラインを伴って帰国していた高峰博士は、シカゴのウイスキー・トラストから招かれて再渡米するにあたり、優秀な杜氏を研究所助手として連れて行きたいと考えていました。高峰博士は工部大学校の学友(後輩)であった肥田にその斡旋を依頼していましたが、肥田はかねてより信頼していた藤木を引き合わせたというわけです。

 1890(明治23)年、藤木は高峰博士一家とともにアメリカに渡りました。シカゴ近くのピオリアで、藤木は米こうじの技術を活かし、高峰博士を助けて麦こうじ*** に転換する事に成功します。即ち、ウイスキーのモルト醸造方式**** に成功したのです。その過程において高峰博士は「タカジアスターゼ」を発見し、医薬に応用して大成功を納めました。

高峰神社 1896(明治29)年、藤木は養父が病気で他界したのを契機に帰国します。本人は再渡米するつもりでしたが、家族の強い反対があって果たせませんでした。そこで藤木は自宅に洋間の離れをつくってこの前庭に築山を築き、白木造りのほこらを建てて「高峰神社」とし、博士の無事を祈っていました。

 1908(明治41)年、高峰博士が一時帰国した折り、大阪中之島公会堂で講演を行ないましたが、かけつけた藤木との再会を大変喜び、彼を壇上に呼んで聴衆に紹介したそうです。また博士は藤木の自宅を訪ねて10日間滞在しましたが、「高峰神社」の事を知ると感激し、後年200ドルもの資金を送ってその高峰神社のすぐ横に藤木の渡米記念碑を建て、藤木の功績を子孫に伝えるように求めました。

 1910(明治43)年6月、記念碑の除幕式が行われましたが、高峰博士の意を受けた北里柴三郎、若槻礼次郎*****、塩原又策(後の三共株式会社社長)、肥田密三らが出席し、多紀郡内の酒造家や杜氏たちも参列したということです。

 タカジアスターゼの陰の功労者、藤木幸助は、1919 (大正8)年3月10日、73才で没しました。

注:* 三井物産醸造部…『兵庫県海外発展史』原文抜粋 → 1872(明治5)年から酒造を行なっていたようですが、『醸造部』が正式名称であったか否かは、調べた限りでは資料に行き当たっておりません。
注:** 醸造技師長…『兵庫県海外発展史』原文抜粋 → 同じく、肥田が技師長として勤務していたか否かは、それを証明する資料にはたどりついておりません。ただ原文中には、東京の研究室を『肥田研究室』と記しておりますので、藤木は三井物産とは関係なく、肥田の個人的助手を勤めていたと思われます。
注:*** 麦こうじ…『兵庫県海外発展史』原文抜粋 → 米麹カビ菌の中の特定の一種を、蒸気で蒸した麦の糠に植え付けたもの。原文資料では、米こうじに対して名付けたものと思われます。
注:**** モルト醸造方式…『兵庫県海外発展史』原文抜粋 → 上記の麦こうじを用いて麦芽(モルト)より高濃度の糖液を得ることに成功しています。従って、正確にはモルト醸造方式ではなく、『麦こうじ醸造方式』とでも呼ぶべきものと考えます。
注:***** 若槻礼次郎…『兵庫県海外発展史』原文抜粋 → 1904(明治37)年に大蔵省醸造試験所が設立された際、帰国していた藤木は同試験所の職工長として迎えられましたが、その時の大蔵省主税局内国税課長(すぐ後に主税局長)であったのが若槻でした。

(「兵庫県海外発展史 第3章 海外における兵庫県人の足跡 (二) 藤木幸助」(昭和45年3月)及び、飯沼和正・菅野富夫共著『高峰譲吉の生涯』より、参照・一部抜粋)

◎高峰神社および渡米記念碑については、取材記事「タカジアスターゼ発見の陰の功労者、藤木幸助」をご参照ください。


(記事作成:平成24年11月2日/文責:事務局)