高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

2)ゆかりの人‥‥益田 孝

実業家。譲吉の良き理解者として、様々な高峰博士の活動を支援する。


略 歴

井上馨と共に旧三井物産の前身「先収会社」を創立

益田 孝 益田孝は1848(嘉永元)年、現在の新潟県佐渡市相川に生まれました。家は代々佐渡の地役人でした。父・鷹之助が箱館(現在の函館)奉行所勤務となったため、しばらく箱館に住み、奉行所内の教育所で、初めて英語を習ったそうです。
 その後再び父の転勤に伴って江戸に出た孝は、1859(安政6)年、「支配通弁御用出役」となって麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務することになりました。そこで生きた英語を学び、初代公使のハリスに接して大きな影響を受けました。
 1863(文久3)年、15歳で、遺仏使節・池田筑後守の随員となった父・鷹之助の従者として、初めて渡欧します。まだ少年と言える孝にとって、ヨーロッパの進んだ文明の印象は強烈だったことでしょう。
 (この頃、高峰譲吉は加賀藩藩校明倫堂に入学して1年目です。)

 帰国後、孝は騎兵隊に入隊して隊長にまでなりますが、明治維新になるといち早く両刀を捨てて横浜に移住します。
 明治維新後は商売を始め、その才を認められて、アメリカのウォルシュ・ホール商会のクラークに迎えられます。その後、井上馨と知り合い、彼の薦めで大蔵省に入ります。貨幣の切り替えにともなう金貨鋳造に取り組んだ後、井上の下野とともに辞職(この時、渋沢栄一も共に辞職している)し、「先収会社」(旧三井物産会社の前身)の創立に参加しました。
 この先収会社は、本店を東京に、支店を横浜、大阪、神戸に置き、陸軍省御用として、絨、毛布、武器などを輸入するほか、銅や石炭、紙、米、茶、ロウなどを商っていました。特に山口県の地租引当米の販売を担当するなど、米の売買で大きな利益を収めました。ところが、明治8年(1875)12月、井上馨が元老院議官に任命され、特命副全権弁理大臣として朝鮮に派遣されることになったため、先収会社は閉鎖されることになります。

旧三井物産の開業

 先収会社は頓挫しましたが、井上がいち早く三井の大番頭、三野村利左衛門と話をつけていたので、先収会社は三井に引き継がれました。
 こうして旧「三井物産会社」は、明治9年(1876)7月1日、三井銀行と同じ日に開業しました。初代社主は三井武之助高尚と三井養之助高明。社長は、経営の実権を全面的に委任された益田孝、副社長は木村正幹。監査役には三野村利左衛門が就任しました。日本橋坂本町に本店仮事務所を置き、横浜、大阪、長崎に支店を、三池、兵庫に出張所を設けました。

 益田孝が工部省鉱山寮から払い下げを受けた三池炭鉱の石炭は、旧三井物産が飛躍的発展を遂げた最大の要因といわれています。石炭の市場を上海、香港、シンガポールなどに開拓していきました。明治21年、悲願であった三池炭鉱そのものの入手に成功、翌年の1月に「三池炭鉱社」(三井鉱山の前身)を設立しました。現地には事務長が配属されましたが、初代事務長は、米国マサチューセッツ工科大学で鉱山学を専攻した團琢麿でした。

三井広報委員会ホームページ 『益田孝』より引用 / 写真提供:公益財団法人 三井文庫
 (三井広報委員会 > 三井の歴史 > コラム「三井を読む」 > 益田孝)


◎益田孝、渋沢栄一らが、高峰博士の提言を受けて東京人造肥料会社を設立したのは、この「三池炭鉱社」設立の直前(明治20年)のことです。発起人として益田孝、渋沢栄一、大倉喜八郎、安田善次郎、馬越恭平、三井武之助、浅野総一郎など錚々たる財界人が名を連ね、初代社長に渋沢栄一が就いています。
 飯沼・菅野 著『高峰譲吉の生涯』(朝日選書 2000)によると、会社設立の前年、高峰が益田を訪ねて人造肥料製造の必要性を説いた…という説と、神戸で渋沢栄一と知り合った高峰が持論を説き、渋沢が共鳴し、その後益田、浅野、大倉などにも声を掛けて会社設立を決した…という説(渋沢側資料)があるようです。
 いずれにしてもこの後、益田孝、渋沢栄一、浅野総一郎等諸氏と高峰博士の付き合いが続いて行くのです。

 1922(大正11)年に高峰博士がニューヨークで亡くなった直後、東京の塩原邸で弔悼会が催されましたが、その時の発起人18人の中に高橋是清、渋沢栄一、浅野総一郎、北里柴三郎らとともに益田孝の名前があります。


(記事作成:平成23年7月24日/文責:事務局)