高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

1)ゆかりの人‥‥塩原又策(2)

三共株式会社(現・第一三共株式会社)創始者。譲吉が発明した「タカヂアスターゼ」の日本での販売を一手に引き受ける。(三共百年史より抜粋)


(4)塩原と高峰の出会い

塩原又策 塩原又策と高峰譲吉博士の最初の出会いは、明治35年(1902)2月、神戸港大桟橋に接岸した客船ハンブルク号の1等甲板上であった。高峰の発見したタカヂアスターゼの輸入販売を始めてから3年、太平洋をへだてて、幾度となく文書や電報の往復はあったが、それまで2人は、直接、語り合う機会をもってはいなかった。甲板上での固い握手から、塩原と高峰の二十余年にわたる交流が始まる。
 高峰は、西村を介して塩原にタカヂアスターゼの日本での試売を許可したが、アドレナリン発見の報に接した塩原の日本での一手販売を依頼する手紙には即諾せず、その返事を保留した。高峰としては、日本に滞在している間に塩原の人物を自分の眼で十分確かめ、その諾否を決めるつもりであった。
 神戸から同船した2人は横浜へ向かった。航海中高峰は、塩原からタカヂアスターゼを拡売するために払ったさまざまな努力を聞いた。取り扱う薬局を増やすための関西での飛び込みセールス、医家への働きかけ、高峰の名前を前面に打ち出した広告活動、販売の拠点を東京に移す計画など、話は尽きなかった。
 高峰は、親子ほども年の違うこの青年の熱情に心を動かされた。高峰は、塩原にアドレナリンの日本での一手販売を許可するとともに、31年12月に交わされていたタカヂアスターゼの委託販売契約を本格的な一手販売契約に切り替えた。また、パーク・デービス社から委託されていた同社製品の日本代理店についても、塩原が経営する三共商店を選定した。
 35年5月、帰米する高峰は、「時事新報」の広告で、高峰の日本における連絡先として、当時まだ横浜市弁天通にあった塩原の住居を指定した。これもまた、この帰国を機に、博士と塩原の間に確固とした信頼の絆が結ばれたことの証しであった。


(5)株式会社設立時の高峰の支援

ミシガン湖 明治37年(1904)、塩原は、高峰の助言に従って万国博覧会参加のため、医学博士北里柴三郎、穂積博士らとともに渡米した。このとき、初めてパーク・デービス社を訪問したが、血清療法の世界的権威である北里博士を顧問に迎えたいと切望していた同社だけに、塩原は、パーク・デービス社の信頼を獲得することとなり、三共商店とパーク・デービス社との提携関係は一段と深まった。
 高峰は、医療器械の取扱いを三共商店で始めるよう助言し、自らアーサー・コルトン社との特約に仲介の労をとった。また、タカヂアスターゼやアドレナリンの国産化に対しても快く応じ、助手上中啓三をはじめ、高峰研究所から人材を送ってこれを支援させた。

 高峰の塩原に対する支援としてとりわけ特筆されるのは、大正2年(1913)に三共商店が株式会社組織に改組し、当時最大の製薬企業として資本金をさらに200万円まで増資しようとするときの行動であった。
 同年3月に帰国した高峰は塩原を伴い、財界の実力者である渋沢と益田を訪ね、増資への協力を懇請した。東京人造肥料会社設立以来、高峰を深く信頼する両人は快く高峰の要請に応え、財界・産業界の有志に当社の増資新株式を引き受けるよう幅広く呼びかけた。その影響力は大きく、新株引受人の名簿には両人を筆頭に、大倉喜八郎、馬越恭平、浅野総一郎など錚々たる事業家が名を連ね、設立趣意書にある「有カナル株主ヲ以テ掌固ナル基礎ヲ組織シ新二一ノ化学工業会社ヲ起コス」という目的にかなう陣容を整えることができた。これは、高峰の人格に傾倒する両人の後援と、新会社の社長に就任した高峰の名声なしには実現できなかったことである。
 また、東京帝国大学薬学科教授の長井長義薬学・理学博士をはじめ池田菊苗、北里柴三郎、鈴木梅太郎など、医学・薬学界の最上位にランクされる著名学者が株主として参加した。これも高峰の功績にその多くを帰すべきもので、新生・三共株式会社に有形無形のさまざまな重みを加えることとなった。
 さらに高峰は、この帰国期間中に郷里高岡に帰り、自ら三共株式会社の株主を募っている。第1回株主名簿に富山県の株主として記載されている南 兵吉、木津太郎平、館 哲二らの多くは高峰の親族、知人であり、高峰の勧誘により株主となったものと思われる。

 ところが、ここで新株主の一部から異議が出た。この問題の収拾に動いたのが渋沢で、新株主側と塩原の両者が納得する解決策を提示して事態を収拾した。同年6月12日の臨時株主総会で200万円の増資と新株式2万1,000株を優先株とすることが決議されたが、この年間配当8%を新株のみに保証した優先株条項は渋沢の収拾策の1つであり、渋沢は益田とも連絡をとりつつ収拾の道を探ったという。問題が解決した後、渋沢は、その書簡で、これで「老生も高峰氏に対し聊申訳有之義と安心仕候」と記し、また、当時の経済誌『ダイヤモンド』は、「高峰博士の顔があったので無事に株式組織も一段落を告げた」と記しているが、株式会社として船出直前の塩原と同社の危機を救ったのは、まさしく高峰の影響力であった。

 後年、箱根・木賀の山荘で、高峰と塩原は兄弟の杯を交わすことになるが、深い信頼感に裏打ちされた2人の盟友関係は、大正11年7月の高峰の死去をもって終わる。


(作成:平成22年12月2日/文責:事務局)
◎ 塩原又策の末娘、原 邦子さんのインタビュー記事は、>> こちら